遠江国分寺
僧寺跡
2001年4月29日
訪問
<いきなり余談>
どうして“とおとうみ”というか?
話は簡単である。平城京から街道を下ると、近い方の琵琶湖は近江(おうみ)であり、その先になる浜名湖は遠江(とおとうみ)
となるから、このように呼ばれるようになったのではないかと思うわけである。
すなわち、湖を“江”と書き「うみ」と読んだわけで、他に因幡(いなば)
の国の宍道湖や
東北地方などには五湖もあるが、江として認知されていたのはこの二つだったようである。
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遠江国分寺は、早くから発掘調査が行われ、全国では一番に伽藍配置が明らかになったところであるようだ。昭和27年には国の史跡の指定を受け、公園として整備されるに至っている。
遠江の国そのものが肥沃で温暖な土地であるため、寺料も多く大伽藍を有する国分寺であったらしい。創建は不明だが、平安中期までは存在していたようである。その後も、再建しつつ変形しながらも維持されていた。明治に入り廃仏毀釈の令により無住となったが、薬師堂だけ残されて今日に至っている。
尼寺跡は、僧寺跡の北にある県立磐田南高校のさらに北の住宅街にあったようだが、それらしい痕跡も表示も何もなかった。
復元模型は磐田市役所の所蔵で、見学したかったのだが連休のため閉庁しており、仕方なく資料冊子の写真をスキャンしたので画像が悪くて残念である。また行かなくてはならない。
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「西塔国分寺伽藍」は隣国三河と同じ
@ 南大門前から中門を見る
A 中門前から金堂を見る
B 金堂前から金堂を見る
C 金堂基壇上から講堂を見る
D 塔跡を東側から見る
E 塔心礎石を見る
F 南側から「薬師堂」を見る
G 東道路からの薬師堂入口
8枚の画像を示し説明してみよう。とにかく広い大伽藍と、整備された公園から、創建当時の国分寺僧寺の姿を想い起こしてほしい。
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@ 南大門前から中門を見る
堂塔の位置をそれぞれ御影石で示しており、生垣で回廊を示すなど木々が茂っていた。
手前の「商工」の立て札は、市役所駐車場なので駐車位置の表示である。
梅の木の生えている場所が、礎石のあった所のよう感じがしているが、正確ではないだろう。その先の階段が中門跡、遠くの看板の後ろが金堂跡となる。
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A 中門前から金堂を見る
前進し、つぎに中門前から正面立て札後ろの金堂跡を眺めた。中門から両側に回廊が金堂を結んでいるが、これも見てのとおりの生垣で示している。そして金堂はひときわ高い盛り土によって基壇が築かれている。
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B 金堂前から金堂基壇を見る
空想する中門をくぐり、金堂前に立ってみる。足下の高さが1b位はある基壇には、左右双方に階段が付けられていた。これは、発掘調査に基づくものなのだろうか。
金堂跡の右後ろに、無住の「薬師堂」が写っている。
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C 金堂基壇を昇り講堂跡を見る
金堂基壇の右階段を昇ってみた。すると、なんと立派な礎石が並んでいるではないですか。思わず、その場でしゃがんで礎石を入れながら、さらに背後の講堂跡を撮してみた。
後方左の端に、ちょっとだけ、県立磐田南高校の校舎が見えている。
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D 塔跡を東側から見る
回廊の西側に塔跡がある。ただし、この画像を見ると基壇の復元に階段など付いているので、南側から撮ったように見えるが、これは東側からとったものである。
表示板には、二つ残る礎石と基壇の説明があった。基壇の説明によると「15b四方の基壇の上に、高さ66bに及ぶ七重塔が立ち、紫紙金寺の『金光明最勝王経十巻』が納められていたと推定される」と書いてあった。
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E 塔心礎石を見る
塔基壇の中央に、穴のあいた塔心礎石があった。他に1個ほどの礎石しか残っていなかったが、これだけでもあってよかったと思う。
塔跡を示す看板の右後ろに、生垣が見えるが、あれが回廊を示す生垣になっている。
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F 南側から「薬師堂」を見る
おそらくこれが「遠江国分寺」の“現存寺”となるはずだったのであろう。しかし無住にしてもよく整備されていて、幟まで立てて“お札巡り”の御朱印受付まで残されていた。もっとも人はいなかったのだが…。
左手前に生垣が見えるが、ここが回廊の北東角にあたる部分である。
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G 東道路から「薬師堂」の入口
寺域が道路によって囲まれていて、分断されたり欠けたりすることなく、このように残されていることはとても幸いである。史跡を表示する石碑は二個所あり、もう一つは、南大門へ通ずる東側入口である。
小雨が降っていたので、どうしても色調がうまくない。
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>磐田市のホームページ「国分寺跡の説明」
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/manabu/bunkazai/401/bunkazai401.htm
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