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総国分寺としての東大寺

金光明四天王護国之寺
(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)


国立寺院としての役割と日本独立への威信

 東大寺は、金光明四天王護国之寺、大華厳寺、恒説華厳(ごうせつけごん)寺ともよばれており、また同時に、全国67ヶ寺の総国分寺としての役割も持っていた。もともとは、聖武天皇の皇子基(もとい)王のために建てられたという金鐘(こんしゅ)寺が前身であるという。
 東大寺という名は、平城京の「大寺(おおでら)」という意味である。しかも東大寺は興福寺のような藤原氏のための氏寺とは異なり、天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院である また、平城京の東北にある宮城の鬼門を守るための寺院という役割も持っている。
 日本の仏教史上、未曾有の大きな規模を持つ東大寺は、造営されるまで物心両面でその土台となるものがあった。それは天平13(741)年 3月24日の詔にもとづく金光明最勝王経の思想を根幹とした国分寺の建立であった。その目的は、個人や氏族たちの悩みを救うというものではなく、中国に対しては「日本」の独立性を強調し、さらに中国仏教の諸州に寺院を国家の手で建立した思想をも受けいれた護国的な性格、言いかえれば国の鎮めのための仏寺、という特色によるものであった。       (引用「東大寺」東大寺編)


創建当時の東大寺の模型(大仏殿左手奥にある)

 上画像の模型を現在の大仏殿と比較してみると、横幅はおよそ3倍はあったことがわかる。
 南大門、中門、大仏殿が南北一直線に列び、大仏殿の後方の影に講堂が位置しており、さらに七重塔については、さすがは総国分寺らしく南大門後方の東西両方に配していた。これが東大寺型国分寺伽藍配置の原 点である。現在でも池の東方斜面上に、東塔の位置を確認できる。


総国分寺としての東大寺大日如来

 ただしこの模型は、それぞれのパーツを中央方向に寄せ集めてあるので、あたかも密集した位置にあったかのように思えてしまう。実際には もっと開離した位置であったことを 頭に入れておこう。
 左画像は、ご存じ大日如来であるところの廬舎那仏である。

 国分寺の創建によって政教一致の機運がしだいに高まり、また大化改新以後には、 律令体制がととのい中央集権的傾向に進んで、いままでの東夷国 の「倭」より、 聖徳太子が唱えた「日出之国」の思想をうけついで「日本」と国号を改め、国威もおおいに発展させようとした。このような時に国力を傾け て造営されたのが東大寺であった。
    (「東大寺」東大寺編より)

もう一つの国家鎮護の考え方が…

 東大寺は全国的な視点でみると「総国分寺」としての地位にある一方「続日本紀」に記される日本三戒壇の中央という役割も持っていた。
 戒壇院とは、授戒・修業・祈祷等の殿堂であり、修行に耐えた優秀な僧侶を送り出していた場所であったようだ。その三戒壇そのものに注目すべき教えがあったと考えられる。
 当時、優秀な僧侶を指導するために中国から鑑真和上を招いたわけだが、そもそも、その鑑真和上が創建した唐招提寺金堂の三尊像の配置にその教えが繁栄されていると考えられている。すなわち、中央に
廬舎那仏(大日如来)、右に薬師如来、左に千手観音が鎮座している。この「三仏」を配する考え方を極めて大きなスケールで示したものが、聖武天皇が発せられた天平宝字5(761)年の「戒壇建立の詔」である。これによれば、右に下野薬師寺(薬師如来)を東戒壇とし、中央は奈良の東大寺(慮舎那仏)であり、そして左は筑前太宰府の観世音寺の西戒壇を配するという、鑑真和上による「三仏」の考え方を「日出之国」の規模で実現したのである。まさに国土の全体を鎮魂擁護しようとする考え方の一端ではなかったかと思われるのである。

参照=下野国分寺のページに“下野薬師寺”あり。


【これより余談】

奈良古刹の宗派の特殊性

 今日、東大寺の宗旨は華厳宗総本山である。東大寺そのものは広く知られてはいても、その宗旨となると知る人は少ないないだろうし、また、華厳宗というひとつの宗派名として聞くことも、東京あたりでは少ないと思われる。ただし、奈良近辺にある古刹の宗派は、たとえあまり聞くことのない宗旨であっても、それぞれが重要な歴史的意味を持っている。こうしたことから、奈良古刹の宗旨について考えてみよう。
 
現在良く知られている宗派は、平安時代になってから伝教大師最澄が開いた天台宗、弘法大師空海の真言宗がある。ついで鎌倉時代に入ると、浄土宗・浄土真宗の浄土系、そして禅系の臨済宗・曹洞宗・黄檗宗、さらには日蓮宗などの宗派が相次いで開かれた。これらは、明らかに宗派の開祖となるべき特徴的な思想を持っていた。
 奈良古刹の宗旨については、宗旨そのものの色彩感はそれほど強くないと思われる。これらは古くから「南都六宗」と呼ばれていて、その宗派は華厳宗、法相宗、三輪宗、律宗、倶舎宗、成実宗であるとされていた。ただし、平安期以前には、宗派という考え方そのものが存在せず、仏教の原点となる思想は共通のものであったようである。たとえば現在、東大寺(華厳宗)、法隆寺(聖徳宗)、薬師寺・興福寺(法相宗)、西大寺(真言律宗)、唐招提寺(律宗)となってはいるが、もともと草創の当時、宗派の“宗”は“衆”の字を用いていたのである。


南都六宗のひとつ法隆寺

 たとえば法隆寺にも、それぞれの教学を学ぶ衆がいたという記録がある。
 「
法隆寺資財帳」によれば「律衆・三論衆・唯識衆(後の法相宗)・別三論衆」という記載があり、一つの寺の中に多くの“衆”が存在していたことがわかる。すなわち、sect ではなく school としての性格を色濃く持っていたようである。
(参考「古寺めぐりの仏教常識」
            佐伯快勝著 朱鷺書房)

東大寺のホームページ
http://todaiji.org/index.html


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