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若狭国分寺

僧寺跡 と 現存寺

2001年8月21日訪問

 伽藍図は中央に一直線になっていて、東西の寺域の幅が同じだが、実際は西側の方が広い。東塔(推定は五重塔)を配する国分寺式伽藍配置である。

 「小浜」というと、関東地方の人間にとってみれば、すぐにイメージされるのは“原発”になってしまうが、訪れてみると神社仏閣が多く、"古都小浜"の姿であり、イメージはすっかり塗り替えられてしまった。
 小浜平野の中央を流れる北川の支流になる遠敷(おにう)川と、さらにその支流である松永川とによって東西を囲まれ、南を国道27号線によって区切られたおよそ三角形の地形に位置している。
 発掘調査(昭和47〜49年)では、218b四方の寺域のなかに、中門跡、塔跡、現釈迦堂の下に金堂跡、講堂跡、北方建物跡、そしてさらに水田の中より寺域東限、北限が確認された。
 創建は不明だが、「若狭惣田数帳」によると、鎌倉時代には僧寺・尼寺ともに存在を示す記録が残されている。しかし、天正の兵火によって伽藍はすべて焼き払われてしまったようである。

南大門跡と国分寺古墳


古墳脇左手を入る


中 門 跡

 芝生の中央の黒い石は、南大門を示す石碑である。その後ろに若狭地方最大級と言われる国分寺古墳である。これまで「古墳の多い地域に国分寺がある」という常識でとらえていたが、僧寺伽藍の中に古墳を抱き込んでいるということを考えてみたこともなかった。まさに、“国分寺”の常識を変えた若狭僧寺である。
 誰のための古墳なのか、何のために僧寺伽藍のなかに抱え込んだのか、何もわかっていないらしい。発掘調査も行われていないらしい。
 農道のような小径を横断し、数段の階段をさらに進むと木立の暗がりを通る。
 するとそこには、古墳を登る小径の鳥居と階段があった。
 その小径を横断するとすぐに中門跡である。木立の陰から中門跡に建つ釈迦堂(現国分寺)の屋根が見える。


五重塔跡

  古墳の東裾に位置する塔跡。基壇後ろの生け垣(山の下)によって、僧寺の寺域を示しているようだ。書物では「民家の庭石」になっていたとされる塔心礎石は、民家のご理解によってか、復元された塔跡基壇に戻っていた。

 

 釈迦堂の建物は再建後のものであり、約400年経っているという。もとは藁葺だったそうだが、アニメの“日本昔ばなし”によく描かれている丹波、丹後、若狭地方特有の分厚い屋根で、さぞかし雰囲気があったことだろう。
 現存する国分寺は、護国山国分寺と称し宗旨は曹洞宗となっている。

 中を拝観させていただくと、一丈六尺の釈迦如来座像が安置されていた。鎌倉期の作で頭部は江戸初期に修復されたという。この地方では「若狭大仏」 とよばれているようだが、大仏というイメージでなく、やはり「国分寺建立の詔」にある「丈六の釈迦三尊像の造立」、すなわちこれこそ諸国国分僧寺におけるご本尊の再建を意図して造られたにちがいないと、記憶に焼き付けるように見入ってしまった。
 おそらく創建当時の僧寺は、朱塗りの金堂にこの仏様の両脇に文殊菩薩・普賢菩薩あるいは挟侍菩薩を脇侍に従え、柔和でそして勇壮な姿で見守っていたことだろう。
 堂内は撮影禁止なので、絵葉書から転載させていただいた。

 左画像は、 釈迦堂よりひとまわり大きかったことを示す金堂跡基壇と礎石の復元。


丈六の釈迦如来座像

 また、現存寺の薬師堂には、国の重要文化財で寺伝春日仏師の作と伝えられる薬師如来像が、両脇に釈迦如来像 ・ 阿弥陀如来像を配して安置されていた。鎌倉期の作だけあって、仏は限りなく穏やかな顔つきであったのが印象的だった。



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