山城国分寺

恭仁(くに)京と僧寺跡

2000年12月27日 訪問

 平城京は、710(和銅3)年に都として開かれたが、それからおよそ30年後の 740(天平12)年12月15日に、平城京から約8q北東にある恭仁京に移された。
 その恭仁京が都として使われたのは僅か4年ほどで、その後は現在の大阪城南西に位置する難波宮に移された。
 そして、難波京は僅か1年の短い期間で幕を閉じ、再び平城京に戻されることとなった。

 さて、この恭仁京への遷都は僅か4年でしかなかったが、遷都されたその年には九州で藤原広嗣が反乱を起こし、翌年にはここ恭仁京から聖武天皇により 「国分僧・尼寺建立の詔」 が発せられることとなった地でもある。

  国分僧・尼寺建立の詔が発せられてから3年後には、都は難波京に移ったため、その政治を司ったところの恭仁宮城は不要となった。

 これにより、まさにその宮城のその場所に、山城国分僧寺を建てたものであった。そしてさらに、僧寺金堂は、恭仁宮大極殿の建物をそのまま再利用するという、山城国分寺は、恭仁京と切り離しては語れない経過がある。
 また、総国分寺である東大寺には全国67ヶ寺の国分僧寺のうち、最も近い寺ともいえるであろう。
 画像の
@Aに囲まれた所が七重塔跡、Bは大極殿すなわち金堂跡、Bの北方向とCの西方向を結ぶ位置あたりが講堂跡らしいということである。
 
Bの南の小学校入口あたりに中門跡、画像が切れるあたりが南門跡になる。

@ 塔礎石跡から北西を望む

 山城国分寺を見てまず感激したことは、塔跡の礎石群のみごとさである。
 17個ある塔礎石のうち、失ったものは南東の2個のみであり、ほとんどが完璧なかたちで残されていた。しかも、その礎石に施された柱との接合のための細工である繰形突起もみごとなものだ。
 中央のデベソがいちばん大きな石が塔心礎石である。

   風華に ときをとどめる 塔心礎
 
あまりにも心打たれた雰囲気だったので、下手な一句が浮かんできた。ここで披露するも何だが、すぐに忘れていただきたい。
 ただ、紫香楽大仏の造営に挫折し、この地を離れた聖武天皇の思いを、この塔礎石ならば知っているかもしれない…。
 そんな気持ちにさせてくれた(句に解説は蛇足でした…失礼)。

  

A 塔礎石跡から南大門方向を望む

 七重塔跡礎石の、あまりもの素晴らしさに、思わず夢中になってシャッターを押しまくってしまった。礎石群の並び方を見ていると、塔の柱がどのように組まれていたのかも、分かってきそうな気がしてきた。
 画像は、塔跡から南大門方向を望んだものであるが、南大門跡は石碑左の人家のさらに向こう側になる。
 前方、林の向こう側に恭仁小学校がある。

B 金堂跡、すなわち恭仁宮大極殿跡

 恭仁小学校の裏手、すぐ北側に「恭仁宮大極殿跡」の表示石碑があった。礎石と思われる石が2・3個、あたりに散らばっていたが、それが周囲の風景に馴染んでいて、悠久の時の流れを感じさせる。
 今で思うと、恭仁小学校の校舎の外観も撮っておけば良かった。今ではめずらしい
木造校舎が周囲ととけ合い、素晴らしい雰囲気を出していた。つぎに訪れた時までその姿を留めてほしいと感じた。

 その小学校を新しくするさい、学校を近くに移転させ資料館として残そうとする話もあるようだが、そうなればとても嬉しいのだが。

  

C 寺跡の寺域から北側を望む

 寺跡から北の方向を望んだ光景であるが、手前の田んぼを物色してみると、画像のように、土器あるいは瓦の破片が出てきた、目についたモノだけ拾い集めても10個程度は集められた。なかには、凹面に布目の模様のついたものもあった。史跡内の出土品なので、撮った後はもとにあった所に戻してきた。今後の発掘調査に期待したい。 



つ ば い お お つ か や ま こ ふ ん  と  さ ん か く え ん し ん じ ゅ う き ょ う

恭仁京の発掘調査や京都府立山城郷土資料館
などのことについて、詳しくわかるサイトです。
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kidugawa/