東京品川道院の歴史

[ English ]


道院の歴史(少林寺拳法創始50年史・掲載文より抜粋)

設立日・1963年12月30日(昭和38年)
道院長・近藤慶武(1972年道院長拝命)


「未来に目を向けて」

設立者である戸田淳二は、本部道院で修行を積んだ後、1963年12月同道院を設立、同 じに(社)日本少林寺拳法連盟所属の支部も登録した。その頃はまだ関東では、少林寺拳法の知名度はないに等しい時代だった。戸田は初めは少林寺拳法に対する熱意を持って道院運営に力を注いでいたが、仕事が忙しくなってきたため、道場との両立が難しくなり、せっかく入門してきた拳士たちの入門手続きができなかったり、道場に通うのもままならなくなり道院活動が正常にできなくなってしまい、拳士も激減してしまった。

そのため戸田は「もう廃止になっても仕方がない」と言う気持ちで、68年に同道院を秋月拓志・川崎臨港道院長(当時・後破門)に運営を任せた。しかし、秋月は一度も指導に出向かず、入門式や行事も行わず、それどころか入門してきた拳士の登録手続きも行わなかった。そんな秋月に見切りをつけた数人の有段者たちは道院を去っていき、最終的に指導にあたれる有段者は二人となってしまった。その一人で、当時まだ二段だった近藤慶武が72年に三代目の東京品川道院長に就任した。

近藤は、1969(昭和44年)年に同道院に入門。それまでは空手をやっていたが、病院での半年間の闘病生活の間に25kgも増えた体重を落とすため、再び空手に復帰しようと思い、勤務先近くの空手道場を見学しにいったが、どうせならやったことのない武道をと考え、以前テレビで見知っていた少林寺拳法を思い出し、武道具屋に電話して少林寺拳法の道場を聞き、同道院へ見学に訪れた。しかし、当時の同道場は空手と変わらぬ稽古にみえたが、少林寺拳法には何か違ったものを感じていた近藤は、3度目の見学時に

机の上に置いてあった少林寺拳法教典に目がとまり、書かれてある内容に心を打たれ、入門を決意した。

「その精神のあり方や思想は、まさに人間としての理想をうたっていると感じ、大きな衝撃と深い共鳴を受けた」と言う。入門してからは、教範が語る理想境を建設する指導者になるべく無我夢中で修行に励み、指導者不足などの諸問題にも負けず、途中銀座道院にも通いながら二段を取得した。

道院長を任された時、「少林寺拳法はずっと続けていきたいし、道院はなくしたくない。しかし自分に道院長が務まるだろうか」と大変困惑したと言う。しかし、その不安も少林寺拳法への情熱で払いのけ、近藤は道院をひきつぐ決心をした。それまで、同道院は、入門式や鎮魂などがおこなわれたことがなかった。近藤は、新屋雄二・銀座道院長の運営方法を見よう見真似して道院の活動に取り入れた。近藤は分からなければ、銀座道院の助士・助教に一手・二手と教えてもらいながら、道院を守ってきたのである。

「多くのことを学ばせてくれた新屋先生を始め、銀座道院の拳士の方々には本当に感謝しています。」と近藤は語る。さらに近藤は「今までは苦しかった思いでよりも、楽しいことばかりがよみがえります」と振り返る。富士登山をしたり、山中湖の合宿で拳士同士の親交を深めたりした楽しい思いでもあれば、辛い出来事や苦労もあった。

東京品川道院創立25周年記念大会を企画し始めた折り、当時の幹部拳士(全員が転籍者)が造反し、大会の企画・運営をすべて一人でこなさなければならないと言う窮地に立たされ、すべてを投げ出したい気持ちにもなったが、持ち前の負けん気と強い意思を持って事を進め、式典は大盛況を収めた。

「困難を乗り越えた時、自分に大きな自信がついた」と言う。現在ではそれら近藤の経験が、そのまま道院の指導方針に反映している。「自分に負けるな。強さを自信の裏づけとして、勇気を出して行動せよ」が道院のモットーで、逆境に強い人間の育成を目指している。また、頑張りすぎて、練習中、力が入りすぎないように、近藤は「一度の人生、自分の人生を楽しく生きよう」と呼びかけて、拳士たちが修行を楽しく行えるよう心がけている。

現在、拳士は女子5人を含む40数人。支部の練習は火・木・土曜日の午後6時から9時まで、区立体育館と小学校の体育館を借りて行っている。前半は、小学生中心に、基本・術科・鎮魂と流れ、その後、一般の基本・術科・限定乱捕り・サ-キット・トレーニングと練習メニューをこなしている。拳士たちは、活動の現状維持ばかりを考えて怠堕にならぬよう心がけ、自己改革、革新を目指し、未来に目を向けて修行に励んでいる。

そして近藤は、「開祖の教えを、次世代・次次世代へと伝えていくことが一生の仕事」として、常に「次世代へのバトンタッチ」を頭に置いて道院を運営していると言う。

- 戻る -

企画・運営:東京品川道院/A>