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悪魔の紹介・その他・サ行





サタンの聖書(Satanic Bible, The)

 A・S・ラヴィが1969年に発行したサタンの聖書は、ラヴィが1966年にサンフランシスコで興したサタン教会の展望をあらわすものである。
サタン教会は反キリスト的で快楽主義をもっぱらとし、低次のエゴの欲望を満足させることを目指した。





サテュロス(Satyr)

 ギリシア語のsaturoiは半人半獣の伝説上の生物で、森や山に住み、怠惰な生活をおくり、抑圧されない「自然の」衝動の象徴と考えられた。
ギリシア神話では、サテュロスは年齢によって分けられ、年配のサテュロスはシレンティ、若いサテュロスはサテュリスキとされる。
サテュロスの姿と紛れもないパンのイメージとの繋がりが、キリスト教のデヴィルのイメージに寄付したのである。





サマーズ(Summers)

 モンタギュ・サマーズは現代の魔女史家であり、数多くの書物を著わした。
『妖術と悪魔学の歴史』は注目に値する。
サマーズは悪魔学に関わる書物の編集も行っており、シニストラリの『悪魔の本性について』、シュブレンゲルとクラメールの『マレウス・マレフィカルム』、ボゲの『魔女論』、グァッツォの『魔女概論』、レミの『悪魔崇拝』、スコットの『妖術の暴露』などがある。





サラマンドラ(Salamandrine)

 16世紀初頭の錬金術文献では「サラマンドラ人」のことがふれられているが、彼らはたえぎる怒りのうちに生きているといわれている。
この場合の怒りは過度の熱であり、したがって彼らは火のエレメンタルのサラマンドラに結びつく。
ブレイクがよく利用した、ウィリアム・ロウ編集のヤコブ・ベーメ著作集を飾る挿絵では、地獄の炎が人間の下半身の内部で燃えあがっているありさまが示されている。
この用語を著述に利用したブレイクはパラケルススから採ったのかもしれない。





サンクトゥム・レグヌム(Sanctum Regnum)

 エリファス・レヴィの著作に由来する典礼魔術の体系に与えられた名称。
レヴィはこのシステムの骨組を、大天使による歴史の周期的な支配に関わるセクンダデイを扱う、トリテミウスの著作の後期の版の写本に見出したと主張した。
しかしレヴィのテキストそのものは、セクンダデイとほとんど関係がなく、タロット占いに使用する大アルカナを漫然と土台にして、本来のタロットとはなんの関係もない象徴的な解釈や、カッパーラー学者の意見、魔法の図、天使のリストを満載し、これらを典礼魔術になさしめようとする極めて個人的な注釈からなっている。
このテキストはヘルメス学の流れをくむと自称する黄金の暁教団の創設者たちに高く評価され、ほとんどその名に値しない悪名と注目を得るようになった。
悪魔学との関係はサンクトゥム・レグヌムにある「天使」のリストと、魔法の杖の造り方と清め方に拠っている。
 サンクトゥム・レグヌムのテキストはウィン・スコットによって『サンクトゥム・レグヌムの魔術儀式』としてはじめて出版され、現在はいくつかの復刻版がある。
サンクトゥム・レグヌムの学問的研究はA・E・ウェイトが『典礼魔術の書』がおこなっている。





死(Death)

 死は通常悪魔としてではなく、骸骨として擬人化される
しかしミルトンは高度に擬人化された寓話を生み出し、悪魔の中に死神の居場所を与えている。





シェオール(Sheol)

 古代ヘブライ語で穴または墓の意味を表わすが、また地獄の意でもある。
この地獄は古代ギリシャの黄泉の国ハデスと似た、漠然とした影のような死者の国で、この喜びの一切ない世界では(かといって罰を与えられる場所ではない)、死んだ人間は固体でなく他の死んだ人間との共同体として存在する。
しかし、古代ペルシャの強大な宗教であるゾロアスター教の影響により、死んだ人間の魂が生き続けていくという考え方が徐々にユダヤ人の間に広がっていった。
また、善霊と悪霊が天国と地獄に分けられる最後の審判という考え方もゾロアスター教に源を発するものである。
新しく考え出されたユダヤの地獄はゲヘナと呼ばれていた。
しかし悪い霊がゲヘナへ送られるという罰は永遠に続くものではなく、罪の重さによって決められる期限付きであった。
キリスト教における地獄は永遠に続くものであるとされているが、これにはいくつかの重要な反対意見が存在してきた。
ひとつ紹介すると、古代教会におけるおそらくは最も有能な聖書学者であるオリゲネスは、例え地獄であろうと永遠に続くものではなく、魂を浄化する場所であると教えた。





シェムハザイとアザゼル(Shemhazai and Azazel)

 彼らは罪だらけの地上界で、誘惑が渦巻く環境に毒されないということを見せようとした天使たちである。
神が邪悪と偶像崇拝が地上にはびこっていたのをみかねて、大洪水を起こそうとしていたときに起きたことだ。
シェムハザイとアザゼルは、天使たちが常々神に対して人間を創造することの危険性を警告していたことを全能の神に改めて語った。
神は二人の意見を聞くと、天使たちが罪の存在しない天国ではなく誘惑に満ちた地上界に住んでいたら、人間よりも堕落していただろうと言い返した。
シェムハザイとアザゼルはこの神の言葉を聞くと、彼らはそんなことはないとばかりに豪語し、地上界でも立派にやっていけると言い放った。
そして神は二人を地上界へと送ることにした。
ところが二人が地上界へと降り立つか降り立たないかのうちに、シェムハザイはイシュタールという美しい女性に目を奪われ、その心は情欲で満たされてしまった。
「私の情熱を受け入れよ!」というのが、包み隠すところのない彼の第一声であった。
イシュタールは、それを唱えることによって天へ上ることのできる神の名を教えさえすれば、彼の望みのとおりになると答えた。
まだ罪を犯していない状態で天国へついた彼女は、シェムハザイの望みどおりにはならなかった。
神は彼女を七つの星座の七つの星の中に、プレアデスという名を与えて据え、その名を永久にとどめた。
一方シェムハザイとアザゼルは人間の女性と姦淫の限りを尽くした。
シェムハザイは手におえない巨人ヒヴァとヒヤをこの世に生み出すことになった。
またアザゼルは、男性をなびかせる手段として女性に化粧の仕方を教えた。
次に天国の初期である天使メタトロンがシェムハザイに、唯一神に対して正しいノアの家族を除く全ての巨人族や人類を洪水によって破滅させようとしている神の考えを話し、警告した。
これを聞いたシェムハザイは悲嘆にくれた。
彼は来るべき地球の最後と、飽くことを知らない食欲を持つ自分の息子である巨人たちのことを思っては泣き続けた。
ヒヴァとヒヤも絶望感に襲われたが、神は彼らを処刑する前に慰めを与えた。
神は彼らに、洪水の後の世代に生まれてくる人間たちは地上で何か間違ったことが起きるたびに「うわー」とか、「あー」という言葉を口にするであろうと話した。
シェムハザイは自分のしたことを悔やみ、天界と地上界の間に逆さ吊りとなった。
今でもその姿はオリオン座として宙吊りになったままである。
アザゼルはその行為を反省することなく今でも男性に道を誤らせる手段として女性に宝石や化粧を使わせようとしている。





シェル(Shells)

 ヘブライの悪魔学では、シェルはこの地球の七つの領域に住む悪魔である。
君主はサマエルと呼ばれる。





時刻(Hours)

 エノク文献は主要な悪魔が「拘束され、召喚され、害を及ぼさない」時刻を述べ、次の情報を伝えている。
アマイモン、コルソン、ジニマル、ガープといった王たちは3時から正午までと、9時から夕方まで拘束できる。
侯爵たちは9時から終祷までと、終祷から一日の終わりまで拘束できる。
公爵は晴天の日の1時から正午まで拘束できる。
高位の悪魔は一日のいかなる時刻でも拘束できる。
ナイトは夜があけそめるころから太陽が昇るまでか、夕暮れから太陽が沈むときまで拘束できる。
総督は昼間のいかなる時刻でも拘束してはならないが、総督に仕える王が召喚される場合は例外である。
ただし夕暮れの迫る刻限に行ってはならない。
伯爵は「人がいない森や野原にいることを条件に」、一日のいかなる時刻に拘束してもよい。





地獄(Hell)

 「隠された」を意味する古英語helに由来するらしい言葉。
永遠の苦しみの場としての地獄は、初期キリスト教徒の創案になるものらしく、おそらくカッパーラー文書や古代密儀の知恵にあらわれる秘境的な深淵を誤解したものだろう。
古典時代に地獄とほぼ対応するのはハーデースであり、これは現代ヨーロッパの地獄の概念で視覚化される拷問の場というより、死後の霊の土地というに近い。
ヘブライのシオウルが聖書の文書で地獄を意味するものとして翻訳されたが、この翻訳は不正確なものである。
 おそらく最も驚くべき首尾一貫した地獄の描写は、ダンテの『神曲』に見出されるものであり、地獄の「永劫の」苦しみは煉獄の「一時的な」苦しみを補っているが、一般大衆の頭の中ではしばしば煉獄と地獄が混同されている。
中世の豊かな神学の象徴、秘境伝承、個人的洞察があるにもかかわらず、ダンテの地獄は現実の場であり、その様態と拷問は、人が地上での罪に応じて死後に経験する、心の状態を象徴的に描写したものと受け取ってもよいだろう。
ダンテの地獄観は主にアリストテレスといった古典を拠にしているが、罪の状態にある人間の心のモデルと受け取ろうと、悪魔論とうけとろうと、神学的に健全なものである。
 ダンテは地獄を一種の空洞と思い描き、一連の岩棚、崖、溝から構成され、大地を貫いてその中心まで傾斜しているとした。
地獄の中心にはサタンがいる。
この地獄には河がいくつも流れ、収容者のために考案される拷問において、しばしば重要な象徴的役割を演じる。
ダンテは寓意的・神話的・歴史的言及を織り上げて、導き手に誘われる地獄の旅の話をつくりだし、ぞっとするほど非個人的なものになりかねないところを、旅で会う地獄に落ちた霊魂の個人的な同時代の経歴を紹介することでかわす。
こうした出会いに内在するシンポリズムは、悪魔論の本質的な部分ではなく、したがってこれに続く地獄の記述は、旅の途中で出会う悪魔や悪魔じみ賜物の名前の吟味と、出会った場所を示すことに限られる。
ダンテの用いる寓意と象徴から明らかになるのは、地獄を霊魂の送られる土地と見るべきではなく、神からの想像上の避難所もしくは流刑地である。
 ダンテが地獄の全ての階層と圏がくだることからあらわれる図によると、地獄の主要な構造が、ディスのいような都市によって遮られる、、上部地獄と下部地獄の二つに分けてある。
この二区分は、下部地獄が大亀裂と滝によって区分されているため、ダンテにとって地獄が実際には三つの部分からなるという事実を損なうものではない。
上部地獄では、「おさえきれぬ欲望」の罪を犯した者たちが内的な報いを受ける。
二つに分かたれる下部地獄では、暴力の罪を犯した者たちがプレゲトーン河の流れる岩棚で報いを受ける一方、詐欺の罪を犯した者たちが凍りの河コキュトスの凍りついた荒野や10の嚢で報いを受ける。
 地獄くだりは象徴的に作り出された道を手段に、圏、絶壁、橋、川、岩棚を抜け、最後にコキュトスの広大な大地を渡り、そこでダンテはサタンを目にする。
この経験の後、ウェルキリウスとダンテはレーテ河に沿って進み、大地を抜けて煉獄の山にのぼる。





シコラクス(Sycorax)

 悪魔と呼ばれることもあるが、シェイクスピアの『テンペスト』におけるシコラクスは魔女である。





『死者の書』(Book of the Dead)

 エジプトの文書のよく知られたタイトルであり、『昼にあらわれる書』のほうが正しいらしい。
この文書は死後の状態に関わる魔術的な呪文、儀式、賛歌、指示についての古代の論文であって、悪魔や天使や霊的存在のいる迷宮を進む死者の手引書のようなものである。
エジプトの神トートがこの文書で大きな役割を演じるが、この文書をアレイスター・クロウリイの『トートの書』と混同してはならない。
タロッキを扱っており、様々な主張がなされているにもかかわらず、トートもエジプトのシンボリズムにも関係はない。





シニストラリ(Sinistrari)

 ルドヴィコ・マリア・シニストラリ(1622-1701)はフランチェスコ会の修道士で、アヴィニョンの大司教の司教総代理になった人物だが、ロビンズの言葉を借りれば、「レミやボゲといった異端審問官の伝統に立つ悪魔論者の最後の人物」である。
著書「悪魔の本性について」は同時代人には、『不法行為と懲罰』の一部として部分的にしか知られておらず、完全な草稿が発見されたのは1875年のことだった。
この著書でシニストラリが提出している仮説は、夢魔が実際には悪魔ではなく、ディアカのような幽霊と同義語だということである。





死の天使(Angel of death)

 オカルト伝承においては、多くの異なった死の天使が存在し、そのうち一人のみが正しく悪魔であり、一人が悪魔化された投影である。
オカルト伝承が主張するところでは、死ぬまで人間に付き添う個人の天使が、死ぬ間際に見えるようになって、死にかけている者には天使であることがわかるという。
しかしこの天使は死をもたらすのではなく、ただ死を見届けるだけである。
 ヘブライのオカルト伝承では、悪魔のリリスが死の床にあらわれ、死にゆく人間が彼女とともに罪を犯すように誘い、こうしてその人間の魂を奪うという。
カッパーラー伝承においては、死の天使はサマエルであり、その目的は死にゆく人間の魂に吸収される不道徳という不完全さを消し去って、その人間が後に天国にのぼれるようにすることにある。
イスラムの伝説における死の天使はアズラエルであり、死ぬ者がいるときには、アズラエルの翼によって起こされる風の唸りが聞こえる。
ヨーロッパのオカルト伝承では、死にゆく者は死の際に、教会の守護者と直面するようになるが、これは死にゆく者の存在内で未発達なままである霊的要素が悪魔化したものである。
しかしこの実態は天使ではない。
 秘境伝承にあっては、アフリマンが死の悪魔であり、その支配化にある悪魔どもが、天の王国というより死の王国に属するものを、死にゆく者から奪う。
死に際して、死の悪魔と光の天使の間に起こる闘い、いわゆる「魂をめぐる闘い」は、肉体のコピーとして示される死んだ人間の魂が、悪魔に捕われていながらも、ミカエルが黄金の剣でもって悪魔を追い払うといった、数多くのイメージであらわされている。
小さな魂がミカエルの天秤で重さを計られながら、魂の暗い要素をみずからの領地に得ようとする欺くデヴィルによって、天秤のもう一方の皿がひきさげられていることもある。
 ミルトンは『失楽園』の第二巻で死を擬人化している。





四方のデーモン(Cardinal demons)

 悪魔学者レギナルド・スコットは、アマイモンが東の王、ゴルソンが南の王、ジニマルが北の王、ゴープが西の王であるとしている。
しかし四方のデーモンについては悪魔学において様々な相違がある。
例えばエノクのデーモン述べる文献では、二ヶ所にわたって次のリストがあげられている。


 東の王 ウリクス アマイモン
 南の王 アマイモン コルソン
 西の王 パイモン ガープ
 北の王 エギュン ジニマル



 王とされていない数多くの悪魔も四方の支配者だといわれている。





邪眼(Evil eye)

 邪眼とは魔力とされるものであって、邪悪な性質を持つ特定の人間が備え、見つめることで世界に注ぎ込まれるという。
初期の時代には、全ての人間に、目から発せられる霊的な力、目の光線があると信じられていた。
邪悪な人間の発する力それ自体が悪であり、真に邪悪な意図をもつ者は目の光線を操ったり強めたりして、この光線を人間や動物に向けることで、世界に破壊をもたらすことができるのである。
悪魔の邪眼の古典的な例がゴルゴーンのメドゥサであり、その目はあまりにも怖ろしく、メドゥサの目を見たものは石と化した。
邪眼の効果を避けるために数多くの魔除けや護符の類が作られている。
 邪眼の歴史の専門家であるF・T・エルワージイは、魔除けといった品物がマロオチもしくはジェタトゥラの力をそらすやり方は、笑いや妬みや恐怖によるものだったと主張している。
邪眼は魔女あるいは黒魔術師の最初のひとにらみで働くだけのものであって、何らかの方法でこれをそらせば、邪眼を向けられた者にはなんの害もないということである。
 邪眼をそらす最も有力な形態は、魔物の悪魔じみた頭といった、グロテスクなデザインや怖ろしいデザインであり、悪をはたらく者の注意を恐怖でもって喚起すると考えられた。
おそらくこのために、邪悪な魔術を行うまなざしを捕らえるということで、悪魔よけの一部の魔除けがfascinaと呼ばれたのだろう。
専門化の悪魔よけの魔除けはこの目的のためにデザインされ、そしてゴルゴネイオン、キメラエ、グリュリと呼ばれることもあり、程度の差はあっても全てが怖ろしいもので、悪魔の頭部の絵が最もよく使用された。
他の魔除けは、ときに目の形をしていることもあり、さらに単純なものだが、邪悪なまなざしに対抗するためのものであって、古い陶器をはじめ、地中海に浮かぶ現代のボートの船首にさえ見出せる。
 魔除けの働きによって邪眼をそらす古典的なものが、アテーネーの盾であり、ペルセウスによって切り落とされたメドゥサの首がはめこまれたという。
このように悪が悪をそらし、悪魔の力が変成されて、善のためにではないにせよ、少なくとも悪魔の力を追い払うために作用するのである。
きわめて数多くの古代の盾がこのアテーネーの盾の原理に基づいてデザインされたが、初期の盾は全て本質的に魔除けの性質をもつものだと主張されており、そのような盾をパンキロラが蒐集して『威厳の概念』で考察している。
 とりわけ護符の場合には、グロテスクな首や悪魔の首のかわりに、悪魔の記号や印章が使用されることがあり、古代から伝わっているものも数多い。
召喚の手続きでそのような記号や印章が使用され、グラフィックな記号が魔法円の外輪の中に描かれるのは、魔術師が悪魔と交渉している間、一時的な保護をもたらすための大きな魔除けであるからだとされる。





シャイタン(Shaytan)

 イスラム教では、天使の衛兵が天国の壁の周りを警戒し、シャイタンやジンなどの悪霊が立ち聞きするのを防いでいると言われています。
しかしある日、預言者ムハンマドの前にイスラムの悪魔であるイブリースのひ孫シャイタンが現れました。
ムハンマドはこの時コーランの様々な章について教え、神とともに正しく歩かせようとしました。





ジャハナム(Djahannam)

 イスラム教における地獄。
不審者が火に焼かれる、熱湯と膿汁で満ちた場所。
イスラム教徒にとってこの場所は浄化を受けるために一時的に留まるところである。
ジャハナムは公正ではあるが恐ろしい天使マリクによって監視されている。





シュタイナー(steiner)

 ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は秘教家、哲学者、人智学教会の創設者で、20世紀最大のオカルティストである。
シュタイナーの講演、著作、記録された洞察は、物質世界及び霊的世界の隠された性質、文化生活とその向上、芸術、歴史、哲学について、包括的な概観を提供してくれる。
シュタイナーは単なる悪魔学者をはるかに超越しているが、その悪魔及び悪魔学に関する見解は、ほとんど革新的なものであって、医学から芸術、農業から占星術にまでわたる他の全ての見解と同様、驚くべき洞察にみなぎっている。
悪魔論や特定の悪魔の活動についての多くの言及は、発表された講義録や著書に分散しているので、シュタイナーの悪魔論はごく簡単な要約をするのがせいぜいである。
おそらく惑星の悪魔と、シュタイナーがアフリマンとルシファーの二元論的相互作用の研究に対してなした貢献だけに、議論を限っておくのがいいだろう。
 惑星の悪魔については、シュタイナーの1908年のベルリン講演で述べられ、英語版の『霊的存在の人間に対する影響』で大きく扱われているが、他の講演や著作でも各所取り上げている。
シュタイナーは「火星、月、金星の慈悲深い存在と悪意ある存在」とともに、「土星の創意に富む存在と野蛮な存在」について述べ、これらの霊の活動を人間の体の構成及び人間活動に関連付けている。
シュタイナーは悪魔学についての深遠な知識によって、「人間のなすことは全て未知の存在の要求のようなものである」と主張する。
悪意ある存在に対する人間の防御はエゴのなかに見られ、それが血液の中にあらわれる。
これら悪意ある生物は人間の組織に寄生し、血液中の霊的本質を渇望する。
人間がたえず自分のエゴを強化するよう用心していないと、こうした存在の一部が喜んで血液にとびつき、人間にとって大きな悪をもたらす。
こうした存在の一部は乳糜やリンパ液といった他の体液の中でも働くので、シュタイナーの驚くべき悪魔論は興味深いし、また古代の四体質論との関係に立脚していることがわかる。
 シュタイナーによれば、この悪魔じみた惑星の霊集団の最初のものは、アストラル界に見出され、矮人という霊的な外見をもっており、悪意ある小さな悪者である。
ある程度まで、彼らは「月の悪魔」と呼べるかもしれない。
彼らはすさまじい唸り声を上げる力をもつ。
地球上では「幻影」や「狂気」の性質をもつものや人間に結びつき、精神病院や降霊界といった場所で助長される雰囲気や見通しを好む。
これより温厚な霊集団は火星の高度なアストラル界に結びつく。
彼らはきわめて賢明で、話し方もやさしい。
地球上では人道主義の原理があらわれる場所に結びつく。
 金星の霊的な大気には、賢明にして温厚な性質の霊が住む。
しかし同じ霊的領域に、「怖ろしくも活気のある」第二の存在集団がいて、その振る舞いは略奪しあったり闘いあったりすることに限られる。
デヴァカニク霊異記の高度な部分は「土星の存在」の場であって、本質的にそういの知識を霊的に具現しており、人間の肝臓を通して働きかける。
地球上では創造的なテクノロジーや想像の力があらわれる場所やものに結びつく。
これら土星の存在にもくらい片割れがいて、悪魔界にあって、人間のもつ性の貪欲さと抑制されない欲望をあらわす。
 シュタイナーの最も驚くべき悪魔学の扱い方は、1908年にニュルンベルクで行われた講演に見出されるが、現在これは英語版『聖ヨハネの黙示録』としてまとめられており、『黙示録』の七つの封印のイメージに含まれた秘儀の知恵が詳細に考察されている。
シュタイナーはこの講演録で、ソラトの性質や666の数字に隠された謎に対する非凡な洞察を示すとともに、深淵やきたるべき人間の種族のオカルト概念を研究するための予備知識を提供した。
 シュタイナーの講演録や著書の多くに、人間の両面の霊的バランスとしてたえずあらわれる霊的な「悪魔」存在、アフリマンとルシファーについての言及が分散している。
シュタイナーは一流の芸術家であり、その絵画や挿絵や表紙絵には、一種の垂直のバランスにおける、人間以下の暗いアフリマンと人間以上のルシファーの二元論が反映している。
アフリマンの概念はゾロアスター教の二元論、古代の闇と嘘の悪魔であって、かつてアングラ・マインユと呼ばれた存在に直接由来する。
アフリマンは嘘の悪魔であり、人間を言いくるめて、物質主義的と形容するのが最も正確な精神態度をとらせようとする。
霊的なものを全て犠牲にしたところで、物質世界とそれに基づく肉体的欲望のみが最も重要だという嘘を、人間に信じ込ませるとき、アフリマンの目的はほぼ達成される。
したがってアフリマンは嘘の王、闇の支配者、亡霊じみた地上の君主である。
この性質から思い出されるのは、16世紀のユダヤ人学者ノストラダムスのヴィジョンであり、ノストラダムスは「大いなる恐怖の王」が未来の世界を支配するのを見たという。
シュタイナーはアフリマンがメフィストフェレスであると述べ、1914年のドルナッハの三回の講演では、西洋の文化に入りこんだある種の悪魔の象徴体系に触れながら議論を展開している。
 アフリマンはほぼ全ての活動分野において、ルシファーと闘っており、ルシファーはシュタイナーの悪魔論の根底にあるゾロアスター教の二元論において、太陽神アフラ・マズダーである。
アフリマンが物質主義と闇に関係しているように、ルシファーは霊性と光に関係している。
ルシファーの領域は洗練された芸術の世界であり、文学、音楽、絵画といった全ての文化的な刺激を生ぜしめる。
しかしシュタイナーはこの危険性に気づいており、人間は健全なやりかたで大地と関係をもち、ルシファーに誘惑されて大地とは無縁の環境を作ってはならないことを強調する。
このことから、シュタイナーが文化や芸術を忌避していると受け取ってはならない。
それどころか、これが意味しているのは単に、全ての人間がみずからの内部で、本質的な人間性から離れさせようとする二つの力を拮抗させるべく、不断につとめなければならないとうことなのである。
 シュタイナーの悪魔学に関わる洞察は、疑いなく20世紀で最も深遠なものとして評価されることになるだろう。
シュタイナーは異なったタイプの悪魔を、全く別の進化の道にありながらも、進化の初期段階で「遅れた者」、悪魔のように肉体をもつにいたらなかったものと見ている。
霊的存在が一つの世界周期でみずからの潜在力を発達できなかった場合、続く世界周期において、「退歩」するか「遅れ」てしまい、新しい世界周期で発達しようとする霊的存在にとって問題の種になる。
このようにして、全ての悪魔は実際には進化を逆行した「送れた者」であり、彼らの「堕落」は、天から堕ちたというよりも、自分たちの霊的潜在力の発達を棄てたということなのである。
したがってこの意味において、悪魔学に関するシュタイナーの見解は、様々な悪魔のおびただしい種族を世界の進化パターンに関連付ける点で際立っている。
進化過程の敵として遅れた悪魔の出現が大きな役割を演じる、この進化過程の包括的な見解については、シュタイナーの含蓄ある著作、『オカルト・サイエンス』からおおよそが見出せるだろう。





ジュデッカ(Judecca)

 ダンテが地獄の第九圏の第四円に与えた名称。
ここでは忠誠の誓いを破った裏切り者が罰せられる。
この名前は適切にもユダに由来するものである。





シュペー(Spee)

 フリードリヒ・フォン・シュペー(1591-1635)は、イエズス会の思想家、神学者、人道主義者で、ドイツの妖術裁判を直接に体験した事により、悪魔の力や妖術の有効性や、妖術を根絶するために独占体制によって神の名の元に行われる極悪さについて、みずから妄想と考えるものに対し、『犯罪防止』で警告しようとした。
シュペーが記すには、「もはや神も自然も万物に責任はなく、魔女に対してのみ責任をもつ」のである。





召喚(Conjuration)

 死者の霊もしくは悪魔を下なる世界から呼び出す方法。
意味深いことに、今日この言葉は手品の演芸と言う観念をあらわすために広く用いられ、この術をおこなう者が常にトリックを弄するかのようである。
しかし過去において召喚は最も真剣な実践とみなされており、これによって地獄の領域の知識が得られると考えられた。
グリモアの膨大な文献が悪魔どもを安全に呼び出す凶まがしい手法を定めており、デヴィルやその配下を呼び出す文字通り何千もの秘法や呪文が中世より伝わっている。
召喚の術は悪魔の怖ろしい姿を呼び出すばかりか、デヴィルを命令に従わせるとともに、デヴィルを魔法円から離れさせる術も含んでいる。
悪魔祓いはこの最終段階のキリスト教における実践であり、人間や場所から悪魔を退散させる時、司祭がなさねばならない儀式や決まり文句を詳しく定めている。
 天使の魔術に関わる文書に定められている召喚の術は、ときに典礼魔術と呼ばれることあるが、天使と悪魔の区別はキリスト教的色彩の濃い文書でもはなはだ曖昧である。
 オカルト書やグリモアは、悪魔を召喚するために時間や場所を以下に整えなければならないかの指示に満ちている。
悪魔はふさわしい日のふさわしい時刻に呼び出さなければならない。
例えばA・E・ウェイトの注釈が付された『ソロモンの鍵』では、7人の悪魔を対応する惑星の日に召喚しなければならないとされる。
 次に多くのグリモアに記載され、グレコ=ローマンの占星術文書に見出される惑星表に由来するらしい表に従い、ふさわしい時刻に悪魔を呼び出さなければならない。
たとえば悪魔のソルダイを呼び出す時刻は土曜日の午前8時である。
しかしこれらの表は時刻を異なった方法で示す様々な社会に発しており、昼と夜が現在使用されているものと異なった順序ではじまっているし、表はそのような変化に配慮して修正されているようではないので、召喚をおこなう者が留意しなければならない適切な時刻というものは、どうやらさほど重要なものではないと考えられる。
ともかくグリモアの一部は、召喚される悪魔の惑星との関係に関わらず、特定の時刻が、一般に召喚にふさわしいとしている。
 召喚に関わる儀式の大半は、召喚の予備行為として、天使の名前の祈りや召喚呪文を多数あげ、魔法のナイフ、棒、剣、杖、鉤、鎌といった、召喚の儀式を正確に行なうために必要と考えられる、様々な儀式用道具の準備も指示している。
19世紀の半ば以降ヨーロッパを風靡したロマンティックなオカルティズムは、道具の複雑な準備に至るまで、儀式の細目を詳しく定めているが、このようにこみいったものはグリモアの伝統に属するものではない。
伝統的なやり方は、様々な清めをおこなうことと、道具に記号を描いたり刻み込んだりすることに限られるようだ。
しかしグリモアによって指示は異なる。
たとえば『グリモリウム・ウェルム』はナイフと彫刻刀と刺針だけを使用すればよいとしている。
 儀式用の紙に書くときに使用するペンとインクも、悪魔祓いをして、燻蒸消毒し、祈りの対象にしなければならない。
鳥のどの羽を鵞ペンとして使用すればよいかの細目が定められる事もある。
インクは生贄にされた動物や鳥の血でなければならないこともあるため、黒魔術の領域に入りこむ。
蝋燭も普通のものであってはならず、新しい蝋で手作りしなければならない。
悪魔召喚を扱う文書には、血みどろの生贄を指示するものもある。
生贄に仔羊や仔山羊が使われることもあり、魔術師本人が殺さなければならない。
『ソロモンの鍵』の異本にはこうある。

仔山羊をとり、切りやすいように喉を上に向けて板に置き、召喚しようとする霊の名前を口にしながら、一気にナイフで切り裂くべし。

 悪魔の重要な名前と記号が召喚を扱う魔術所の多くに上げられている。
最も有名なものはソロモンの霊の項目にあげているが、レギナルド・スコットの『妖術の暴露』第二巻には、七人の善なるダイモーンと七人の悪なるダイモーンのリストがあり、どちらも呼び出すのも同じらしい。
 印章、三角形、身を守る魔法円などが困惑するほどに数多くあって、これらは正確に描き、適切な記号を書き加えねばならない。
これらの多くはグリモアや天使の魔術に関する書物に掲載されている。
魔法円が魔術師を守る場合もあれば、魔術師が追いやりたくなるまで悪魔を閉じ込める場合もある。
 典礼魔術やグリモアの伝統に関する文献を調べたい時は、A・E・ウェイトの『典礼魔術の書』を見ればよい。
召喚に関わる手順の複雑さは『マレウス・マレフィカルム』といった書物によって疑問視されており、この書物などは、悪魔を出現させるに名前を呼びさえすればよいと主張している。





シレンティ(Silenti)

 ギリシア神話の年配のサテュロスはシレンティと呼ばれた。
パンの息子シーレーノスはもっともよく知られたシレンティであり、皮袋を持っていることやディオニュソスと結びついていることは、酔いどれとしての評判を示している。
いつも酔っ払っているので、他のサテュロスに支えてもらったり、ロバに乗ったりしなければならない。
シレンティがわずかながら悪魔信仰に結びつくのは、サテュロスのイメージと一般的なデヴィルのイメージに繋がりがあるからである。





ジン(Jinn)

 アラビアの伝説では、かつては天使と同等の地位にあった目に見えない善悪の霊を意味する。
しかし彼らの首長であるイブリースが新しく創造されたアダムを崇拝するのを拒否したとき、イブリースと他のジンたちは位を落とされて楽園から追放された。
イブリースはこの時からイスラム教における悪魔となった。
多くの人たちは人間に悪さをする存在となった。
しかし中には人間と近い存在のものもおり、人間たちを助け、イスラム教に改宗させるということもあった。
例えば『アラビアンナイト』では、善いジニ(Jinni)が魔法のランプをこするアラジンを助けた。
ジンたちは火から創り出されたものであり、人類が創造される前は地上界に住んでいた。
守護霊の一つとしての「ジーニャス」は古典世界の守護天使に等しく、ギリシア語で「生み出す」あるいは「生まれる」を意味する言葉に発し、ラテン語のgignereを経ており、肉体にくだった霊の世話をする役目を持つ不可視の霊の観念に関わっているらしい。
しかし一部の権威によると、古典的な意味における「ジーニャス」は、生そのものがdii genitalesの賜物であるという考えに発しているという。
したがってアラビア語の「ジニー」とラテン語の「ゲニウス」の違いは根本的なものであり、前者が堕ちた霊で真の悪魔である一方、後者は人類を守り、個人が健全な受肉を行う手助けをするのである。





深淵(Abyss)

 悪魔学に付随する秘教伝承において、深淵は進化の過程の行き止まりに与えられた名称であり、人間が最終的にここに落ちこむ。
実際には、この考えが土台となって、果てしない懲罰の行われる永遠の場所としての地獄の概念が派生するに至ったらしい。
『黙示録』の秘教的解釈の中心となっているこの概念は、『聖ヨハネの黙示録』の標題の元に求められたルドルフ・シュタイナーの講演録で見事に扱われている。
 オカルティズムにおいて、深遠はいくつかの異なった概念をあらわしており、その全てが必ずしも悪魔学に関係しているわけではない。
カッパーラー学者のいう深淵は、まさしくセフィーロートのチェセドとダアトの間に位置する落伍者の場であって、キリスト教黙示文書の深淵と同一のものではなく、またこの両者は、ヤコブ・ベーメンに結び付けられて神の流失をあらわすベーメの宇宙図に導入されている。
薔薇十字文献の深淵とも異なっている。





人口のエレメンタル(Artificial elementals)

 オカルティズムにおいては、オカルティストがエレメンタルの本質と呼ぶ形成力のある霊的本質を基に、黒魔術の儀式によって、邪悪な実体を造りだすことができるとされる。
これら実体はそれ自身の生命は持たず、魔術師の投影するものであって、人口のエレメンタルと呼ばれる。
オカルトの法則の作用に精通している者によってのみ造りだされる。
現代では人口のエレメンタルの性質についての誤解がある。
とりわけ激しい欲望や「思考形態」の結果として、無意識に造りだされるとか、リードビーターが述べているような、「一種の機械仕掛けの付属物を備えた生ける蓄電池のようなもの」だとかいった誤解である。
しあkし強い思考や感情が、アストラル界に短時間のみ生きる実体を造りだすとはいえ、そのような実体は意識的にのみ造りだされる人口のエレメンタルではない。
人口のエレメンタルはエレメンタルと呼ばれる自然の存在とはなんの関係ももたない。





スクブス(Succubus

 男が眠っている間に肉の知識を得るため、女の姿をとる悪魔の名前。





スクルーテイプ(Screwtape

 C・S・ルイス(1898-1963)の執筆した一連の機知と技巧に飛んだ手紙、『スクルーテイプの手紙』における年配のデヴィルの名前。
これらの手紙は職業訓練を受ける下段のウォームウッドという悪魔に、スクルーテイプが宛てたものとなっている。
「デヴィルについて我々が陥る二つの正反対の錯誤がある」とルイスは序文に記している。
「一つは彼らの存在を信じないことであり、今一つは彼らの存在を信じ、彼らに過度に不健康な関心を持つことである。
彼ら自身は両者の誤りを等しく喜び、唯物論者と魔術師を同じ歓喜をもって歓迎する」のである。
手紙が最初に発表されたのは『ガーディアン』紙で、これらがまとめられ加筆訂正された形で、1942年に出版されたが、単行本に付されたパパスの優れた挿絵は、手紙が書き進められるに連れてスクルーテイプがしだいに変化していく様子を示している。






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