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譜についてフと思ったこと。 なんて最初から冗談みたいですみません。さて譜について、考えることがあります。最近、自分がやっている音楽は、どうも譜では表現しきれない、というより、むしろ、譜にあらわしてしまうことで失われるものが大きい、という気さえしています。 そもそも、私の師匠は譜を読めないし御稽古でも譜を使いません。なので、習う方はすべて耳で聴いて覚えこまなければなりません。私は幼い頃ピアノを少しかじったせいで五線譜が書けますし、それに、三味線には三線譜(文化譜)なるものもあります(他にもいろいろある)。なので、当初は、耳で聴いたものを必死でコピーしていずれかの譜に書いていました。譜はとても便利で、曲が非常に覚えやすくなる。一度譜に書いた曲をすぐには覚えられなくても、譜をみながら練習すれば良いのだから。譜を見てひととおり出来るようになってから覚えれば良い。当たり前のようなことです。しかし。やっていくうちに気がついたのです。一度、譜におこしてから覚えた曲と、譜におこさず耳だけで直接覚えた曲とでは、何かが決定的に違います。 さて、何がどう違うのでしょうか、考えてみました。例えば。。譜を見ながら覚えた曲は、演奏する時に思い出そうとすると、頭の中にまず譜面が浮かびます。これはあくまでも私の経験ですが。譜を作るのは音楽のような4次元(3??)のものを譜面という2次元の平面におきかえる作業です。そうすると、どうしても頭の中に平面が入りこんでしまうのです。不思議だけれどダイレクトに耳だけで覚えた曲はそうはならなりません。曲を頭でなく身体で覚えたような感じになします。譜で覚えた曲は忘れやすいけど、いったん耳で覚えた曲は忘れにくく「身につく」。そのかわり、覚えるのに大変な時間がかかる。今はテレコという便利なものがあるので、録音させて頂いた曲を繰り返し繰り返し聴いて少しずつ身体に憶えこませていく。時間はかかるけれど、そのほうが良いのはいうまでもないです。頭で覚えた音と身体に染み込んだ音では当然後のほうが良いですから。それに気付いてからは、自分で譜をおこして稽古に使うのをやめました。できる限り、頭ではなく、耳や手足口、体全体で曲を身につけようと心掛けています。手がかりとして譜を利用することはありますが、やはり耳がたよりです。 はて、しかし、何故このようなことが起こるのでしょう。邦楽の衰退が危ぶまれてからというもの、邦楽を「譜」とくに万国共通の五線譜で表記することが必要だという声も聞かれます。でも、それで良いのかなぁ、と私は思うのです。そうすることで、わかりやすくはなるけれど、失われるものも確実にあります。なんていうか、音でいえば微妙な部分だけれど。譜にすることによって、譜には表記できないいろんなことが削ぎ落とされていき、しまいにはなくなってしまうのではないでしょうか。すべての曲は、誰もが簡単に演奏できるけれど、そのぶん、ツマラナイものになってしまうのではないでしょうか。そもそも、クラシックなどの西洋音楽は作曲家が頭に浮かんだ旋律を五線譜に記すことから始まる。そこから演奏家が表現や世界を豊かに膨らませていく。しかし、邦楽はきっともとがそうではないのでしょう。だから、個々の「芸」が受け継がれてきたのだと思う。譜の必要性は確かにありますし、私も使っています。でもその逆を言う人がなぜかあまりいないようです。邦楽をやっている人たちの間でも。 私のお師匠さんは譜を読めないけれど読めないぶん、先代の、そのまた先代の、もっと前の名人の、、そういった人たちの芸のエッセンスが、師匠ひとりの芸の中にたくさん残っている、受け継がれているんだと、私は感じています。もしも、師匠が譜を読めたら、そういういろんなものを知らない間に落としてきてしまったのではないでしょうか。邦楽の世界でも今では譜をたよりにするのが当たり前で、譜をもとにした正確な間、節、決まりごとを守り伝える、そうでなければ認められない、という感じさえあります。もちろんそれも必要ですが、そうでない部分にあるもっと大切なことにも気がついてほしいと思います、まだそれがあるうちに。(03/6/16) |