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Davide Yoshi TANABE
vous presente
≪週刊フランスのWEB≫
第38号
Tokio, le 21 aout 2000
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Indice(目次)
1.ヴィルフランシュ、地中海の憩
2.ジャン・コクト
3.コリーダ 闘牛
4.乗馬
5.街で拾ったフランス語
6.あとがき
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1.Villefanche
http://www.villefranche-sur-mer.com/
ヴィルフランシュ。紺碧海岸の中心地ニースの隣の村です。地中海に面した小さな村。カンヌよりもずっとイタリアの海辺の村の趣きで、サンタ・マルガリータやポルト・フィーノの家並みといっていいでしょう。本稿の2.に登場するコクトが静養していたところで、この村の「売り」にもなっていました。コクトが定宿にしていたホテルも三ツ星ですから長期滞在向きです。カンヌのカールトン、五ツ星デ・ラックスとはちがいます。最近リニューして冷房装置をつけたとありますが、地中海の夜は通常涼しく、余計なことをしたとおもいました。それはさておき、やや香港的に摩天楼の林立しはじめたモナコ、ネグレスコホテルのあるニースのような派手さ、けばけばしさがないため、ゆっくり休むにはよい村でしょう。サイトはこの雰囲気をよくつたえています。コクトの定宿のサイトは
http://www.welcomehotel.com/welcome2.html
港から撮った村とホテルの写真があります。
ぼくは高速から離れているので殆ど立ち寄ったことがありません。毎週週末を紺碧海岸(マントンからカシスまでですが、僕はサントロペまで)で過ごした時期もありましたが。
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2.Jean Cocteau
http://perso.club-internet.fr/leonicat/cocteau/cocteau.htm
コクトまたはコクトー。何故コクトーと「ト」と伸ばすのかは全く不明。詩人、小説家、画家、彫刻家、映画監督、バレー演出家等々多彩な才能をもった二十世紀フランスの生んだ異才にして偉才です。日本にも戦前ですが、一度きています。最近、小説家で且つテレビ・タレントなんていうのは珍しくありませんが、スケールと真の意味での「タレント」(才能)がちがいます。このサイトはそんなコクトの諸作品諸活動を豊富な写真で紹介しています。
コクトの作品に「恐るべき子供達」(Les Enfants
Terribles)という小説があります。いえ、これは最近の少年犯罪のことではありません。Terribleを「恐るべき」と訳したのは多少問題があります。terribleは英語でもいいますね。それとあまり意味は違わないので、「手におえない」とか「酷い」から「恐るべき」というのもいえるのでしょう。まぁ、好く世のお母様方が「ウチの子は、やんちゃで、ほんと、困りますわ」というときの「やんちゃ」にもあたります。さらに、意味が全く逆な場合で、「素敵な」、「かっこいい」の意味でももちいいます。ただ、小説としては後半、青年となった少年たちが自壊、自滅していき、この惨劇を目の当たりにしての別のterribleの意味がでてきますから、「やんちゃ」では澄まされない。そこで「恐るべき」となったのでしょう。しかし、ぼくなら、この小説のタイトルは「悪童たち」か精々「無残な悪童達の軌跡」です。「恐るべき子供達」というとタイトルが一人歩きしそうです。
もう一つコクトの短編小説で「大胯びらき」(le
Grand Ecart)ル・グラン・テカールというのがあります。このタイトルはいかにも訳者(澁澤龍彦)好みの訳ですね。エロ事師野坂昭如さんによれば、戦前の淑女は「股(胯)」なんて絶対口の端にのぼせなかったそうですが、ちょっと下品なタイトルです。たしかにle
grand ecartはフレンチカンカンのときなどの動作の一つで、脚を180度に開くことを云いますから、間違いではないのですが、品が無い。バレー用語ではスプリッツまたは文字通り「グラン・テカール」だそうです。「スプリッツ」じゃわからないでしょうから、「開脚」ぐらいの訳ではいかがでしょう。体操のマット運動や吊り輪、鞍馬でもつかうことばですね。まさか「大股」だから売れる小説でもないとおもいますが。澁澤龍彦25才の時の翻訳だそうです。その勇敢に感心します。Ecartには「放れた」、「突き放した」という意味もあり、コクト
は色々な意味を含めたと考えられます。テーマは「悪ガキ」とかわりません。
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3.corrida
http://www.corridas.net/
闘牛の季節、春はフランスからはじまります。それからコリーダはスペイン全土にながれていくのです。ニームやアルルはフランスの闘牛の中心地です。僕がコリーダをこよなく愛していることは以前のMMで話しました。最初にコリーダを知ったのはスペインの田舎町でした。大変なショックでした。どんな悲劇も芝居でしかありませんが、コリーダは「美」の極地。本稿でとりあげたコクトはセヴィリアでみています。そしてやはり強烈な衝撃をうけています。そのこともこのサイトのbibliographieのページに語られています。コリーダがわかったコクトだから日本に来た時に、相撲見物をして、あの立会いの時の「間(ま)」に「美」をみつけたのです。現代、相撲の立会いに制限時間を設けたのは「愚」の一言です。相撲の醍醐味は立会いにしかない、それが、僕の意見です。角界にいらっしゃる方々も、もうそんなことは過去のことで忘れているのかもしれませんが、相撲とコリーダは近かったのです。
アルルの闘牛祭がサイトで詳しく説明されています。前項2.に出したLeGrand
Ecartル・グラン・テカールでもコクトは闘牛の場面を引いています。でも、訳者にはそれが、どうして登場したのかわからなかったとおもいます。無理もありませんが、コクトにとって闘牛は「死にいたる美」だったとおもわれます。
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4.Equitation
http://www.equi-loisirs-vacances.com/
ちょっと話題をかえてスポーツは乗馬。優雅ですね。ヴァカンスにでかけると、ほぼ何処でも乗馬のクラブがあります。初心者でも参加することができます。海岸や野原を指導員(モニター)と走るだけですが、病み付きになるかもしれません。そんな16才の少女が作ったサイトが次のアドレス。
http://perso.club-internet.fr/dferdin/
自己紹介もありますが、乗馬を楽しむ写真がふんだんにあります。乗馬が、馬が好きで好きでたまらない様子。可愛いですね。
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5.街で拾ったフランス語
小田急線成城の駅をおりたつと、駅前商店街のブティック(これもフランス語でBoutique、もともと小売店のことですが、プレタポルテのお店を特に指すようにフアンスでもなってきています)、喫茶店、レストラン、美容室の殆どがフランス語になっていました。プレタポルテとはPret
a porterですから「直ぐ着れる」つまり既製服のこと。さて、どんな名前かと言うと、ラ・ミル(喫茶店)。La
Milleとも書いてありました。Milleは数詞で「1000」の意。しかし、定冠詞「ラ」が付くのは変です。ついたとして「ル(le)」。その筋向いにアンジェリカ(レストラン)。ここのはりだしてあるメニューのフランス語は間違いだらけ。構えは立派なんですけど、ちょっと何を食べさせてくれるか分からないから、僕は入っていません。でも、こんど見たときは、去年よりも誤まりは少なくなっていましたから、だれかクレームしたのでしょう。他に、ロレイユL'Oreille(耳)、パレットPalette(画家のつかうあのパレット)、ロンリベールLongue
Riviere(レストラン)、これはひどい。ロング・リヴィエール(長い河)という意味ですが、これなら仮名をふらないほうが好い。ブティック ボン・サンスBon
Sens(良識)。ただ、ブティックの名前としては、Bon
Goutボン・グー(趣味の好い)という方が相応しいのでは? センスがいいという日本語をそのまま訳したものとおもいますが、センスはSensで感覚の意味が確かにあって第六感はシジエーム・サンス6eme
Sensですけれども、ポン・サンスではその意味がでてこないのです。趣味はGoutグー。また、ブティック ボ・ザールBeaux
Arts(美術)。奇麗なことばです。
話しはちがいますが、この街から本屋さんが消えました。Ai
Bookなる本屋さんが、祖師谷からも成城からもなくなりました。結構大きな本屋さんでした。そしてこの街にも有名な大學があるのですが、どうしたことでしょう。些か書淫の傾向にあるぼくとしては残念なことです。
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6.あとがき
以下の詩は「ラディゲの死」(三島由紀夫)という短編小説に載っていたジャン・コクトの「天使ウルトビース」(堀口大學訳)である。
天使ウルトビーズの死は
天使の死だった、ウルトビースの
死は天使の死だった、
天使ウルトビーズの或る死
両替の或る神秘、
トランプに足りない一枚のポイント
葡萄の蔓がからみつく或る犯罪、
月の葡萄の株、咬みつく白鳥の或る歌。
昨日まで名を知らなかった他の
天使が代わりになる、
せっぱつまって、それがセヂェスト。
ラディゲは二十歳で夭逝してしまったフランスの小説家。三島も夭逝に憧れていた。果たせなかった三島の28歳の時の作品に引用された詩である。三島にとってのコクトは川端康成のようだが、そうした文学史的考察はここでの問題ではない。問題は、何の解釈もなく引用された翻訳にある。堀口大學が訳したから、そのまま引用したのか、ともかく僕には、全く分からない詩なのです。詩ですから、意味が凝縮されていて、また飛躍があり、想像力が必要なのはいい。しかし、意味不明にすれば、詩的というものでもない。「両替の或る神秘」、「一枚のポイント」?、見当もつかない。堀口大學は詩人であり、多くのフランス詩を訳している。若いとき10年以上海外(メキシコ、ベルギー、ブラジル等)に住み暮らした。その間、フランス語に親しみ翻訳をしている。しかし、メキシコはスペイン語、ブラジルは勿論ポルトガル語の世界。ベルギー滞在は比較的短い。その環境の中で数多くの詩を訳出した。ぼくにはとても無理があると思う。コクトの詩は訳しづらい。フランス人でも、言葉の飛躍についていけない。ましてやここに出てきたのは、長い詩の一篇。不親切であること極まりない。三島やそれ以前の世代の人々が翻訳、特に詩の翻訳を読んで感激しているのをみると、その想像力に感嘆するというより、あきれてしまう。僕の尊敬する森鴎外にしても、たとえば「即興詩人」に出てくる固有名詞、人の名前や地名の読み方はめちゃくちゃである。原書とは全く独立した、インスピレーションを受けたにせよ、創作というべきだ。ここにあげた詩も例外ではない。堀口大學という権威が訳しているので、その後、引用されることはあっても、改訳されることが無い。不思議な世界である。しかし、創作として読むと今度は日本語での意味が通じない場合がこの例である。ウルトビーズはHeurtebizeと書き、コクトの他の作品にも好く登場する、ラディゲ青年の化身。セジェストはCegesteという別名の天使だが、やはりラディゲRadiguetの分身、かつCegesteは
Ce Geste(「その態度」)という意味とかけているというトリックまでがある。そこまではわかったけれども、あとは原文をよまないと見当がつかない。ここから導き出されるのは、三島、堀口大學という権威、大家にごまかされてはいけないということです。さらに翻訳ものの場合はとりわけ、注意しなければならないということでしょう。翻訳の正確さは、一人の作業では、僕はいけないと考えます。どうしても一つの作業グループを作って訳出していくことだと思うのです。少なくとも三人のバイリンガルが喧喧諤諤話合いながら組みたてていくのです。弟子に先ず訳させて先生が訂正していくなんてナンセンス。僕が所属しているプルーストの「失われし時を求めて」というメイリング・リストがありますが、そこでは、各人分担の訳に付いてメンバーによる検討がなされます。しかし、まだ、論議が不足ですし、深みが足りません。これをさらに発展させて行けば面白いものができると確信しています。技術翻訳でも本当はそうなのですが、文学作品においておや、僕の提案がいつかネット時代でもある故にこそ、実現されることを期待しています。