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Davide Yoshi TANABE
vous presente
≪週刊フランスのWEB≫
第71号
Tokio, le 23 avril 2001
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Indice(目次)
1.修正主義
2.セクト
3.化学
4.ジャン・ウスターシュ 蘇るレアリスト映画?
5.日本語になったフランス語
6.あとがき
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1.Revisionniste
http://www.anti-rev.org/
「上海大虐殺はなかった」、「朝鮮女性慰安婦は強制されなかった」等歴史を歪曲し加害者の立場を弁護ないしは正当化しようとする動きは、日本に限ったことではなくフランスにもある。よーろっぱでは特に「ナチの強制収容所はなかった」、「何十万人ものユダヤ人を殺せるわけがない」といったアンチセミニスムの形であらわれることが、多いようにおもわれる。こうした歴史を曲げる人々をrevisionnistesという。
サイトは、レヴィジオニストに反論する。ここをみると、逆にどんな修正主義が横行しているかがわかる。
しかし、彼我の差は、為政者が、選挙で選ばれた為政者がどのような立場をとるかである。少なくともrevisionnistesの作った教科書が学校で採用されることはないであろう。ドイツではこれが犯罪を構成する。EUになっても同じことで、唯々諾々と修正主義を受け入れる背景は、為政者にも国民にもない。
さきごろ、ふとしたきっかけで、ゴーマニスムなる言葉をgoing
my wayから作った漫画が東京大学や東北大学でベストセラーとなったときいて、それはゴウマン(傲慢)主義だと思った。ネットでそれに対する批判サイト作ったひとがいて、それを読んでみるとどうみても小林よしのりという人物、信用ができない。かって、フランスの高級紙ル・モンドが小林に痛烈な批判を浴びせたとあるが、さもあらん。
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2.Secte
http://www.geocities.com/Paris/Arc/1466/rapport.htm
http://www.info-sectes.org/#spiritualites
セクト問題の総ざらいである。オウムは名を変えて活動していると言う。オウムが受け入れられるような素地が、実はフランスにもあることは既に書いた。集団自殺事件をおこしたセクトである。だが、それだけではない。クリスチャニスムが国教(クリスチャンの祭日が法律で休暇になるのだから国教である)であるフランスでは、しかし、その亜流ともいうべきセクト、危険なセクトがかなりある。
サイトは、こうしたセクトの経済的基盤を報告した国会資料である。セクトが生まれる社会的背景も分析している。2番目のサイトは各種セクトの紹介、分析をしている。朝鮮半島を起源とする統一教会も出ていた。
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3.Chimie
http://chimienet.multimania.com/
先週、教科書について述べた。サイトは化学も授業資料である。普段使わない単語がたくさん出てくる。フランス語を習うにあたって、高校までの授業をフランス語で受けた経験のない僕たちにとって、おさらいをしてみるのも面白いかもしれない。原子番号の表など懐かしい。
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4.Jean Eustache
http://www.anjou.com/premiersplans/eustache.html
時間をみつけて、渋谷の映画館にいった。そこはアート・シアターといった雰囲気の小さな映画館だったが、ヨーロッパの映画を積極的に上映している珍しい劇場である。ジャン・ウスターシュ監督(1938-1981)の短編映画を三つ見た。ユスターシュとなっていたが、これまた変なカナのつけ方だ。euをユとするのは英語読みであろう。ま、それはそれとして、詰まらない映画だった。訳知りの若者が多かった。あんな映画をフランス映画の傑作のごとくに持ち上げて上映するから、フランス映画ファンは特殊扱いされる。関心する映画ではない。最低の部類だ。特に「不愉快な話 Une
sale histoire」は不愉快である。かってのpeeping Tomが告白するのだが、訳も訳だが、もとの台詞も酷い。フランスでも上記サイトではコメントがないが、散々の評判であったようだ。
ウスターシュはこの作品のあと、暫くして自殺している。realismeを標榜して、ゴダールとも仲がよかったとあるが、レアリスムとはなんと詰まらない映画であろうか。「ウスターシュの人と作品」なる本が日本で出たらしい(三月)。退屈するか不愉快になるかする映画が、フランス映画だとすれば、誤解だ。どうもそうした傾向の映画で無いと、日本ではフランス映画として認められない、輸入されない。残念なことである。
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5.日本語になったフランス語
・ シコレー Chicoree。英語のエンダイヴで、野菊でたという。またチコレーが、サラダになる小さな白菜のような形をしたしかし、葉の縁が黄色いやさいだそうであるが、どうも混乱する。フランス語では、要するにChicoreeシコレは紫の花をつける野菊である。しかし、野生でないものは、サラダになる。特に葉のぎざぎざしたのが、フリゼFreseeといってベーコンLardons、半熟卵などと一緒にサラダにでき、大好きなサラダの一つである。菊の葉に似ているが、タンポポの葉も食べる。そのときはあまりタンポポdent-de-lion(ライオンの歯)とは云わずに、pissenlitピサンリと言う。このpissenlitには、初めて聞いたとき笑ってしまった。何故なら、pisse
en lit
即ち「ベットでオシッコ」という意味だからである。実際利尿効果があるので、この名がつけられたらしい。ま、品の無い命名ですね。しかし、これもサラダでよくでてくる。またEndiveアンディーヴは、苦味のある野菜でサラダやグラタンにする。最近日本でもよく見かける野菜になった。
・ ジゴロ Gigolo。いわゆるヒモ。従って、若い男のことをいう。女衒(ぜげん)ではない。女衒は人身売買の仲介業者である。もっともジゴロもいい意味では使われない。ヤクザのヒモとはこれ恐ろしや。このヤクザはフランス語になった。Yakusaと書く。発音はヤクザ。日本マフィアも映画「ブラック・レインBlack
Rain」ですっかり有名になった。田岡以来、ヤクザの近代化、株式会社化そして国際化は進んだ。フランスには、アラブ系、ユーゴ系、トルコ系等々ヤクザがいっぱいいる。
・ ジタン Gitan。タバコにもなっているジタンだが、要はヨーロッパを流浪する民。ツィガヌTzigane、ボヘミアンBohemien(ボエミアン)などともいう。カマルグ(南仏)やアンダルシア(スペイン)などのジタンが有名。フランスに限らず、いたるところに出没する。彼らも近代化し、移動及び住処(すみか)はキャンピング・カーである。フィレンツェでは、可愛い子供が、日本では街頭で宣伝に配るようなティッシュを売りつけていた。可哀相だから言い値で買った。嬉しそうにしていたが、性質(たち)の悪い子は、「金をくれ」と手を出すだけでティッシュも売らない。泥棒もする。偏見ではなく,それが商売なのである。また、セビリヤでは本場ジタン(スペイン語ではGitano/aヒターノ/ヒターナ)がいい加減な占いを押し売りするので断ったら、今まで「東洋のカッコいいお兄ちゃん」と言っていたのが、掌(てのひら)を返して「この、醜いハポネスが」と悪口に変わった。勿論、悪口をいうのはこちらも得意だから、二倍も三倍も言い返してやった。悪い言葉と言うのは、どこの国の言葉でも直ぐに覚えるものだ。だから、どういったかは書かない。
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6.あとがき
小泉某が首相になるのか。末期的である。「派閥を脱退して総裁候補に」なんて、デマゴジー。小泉には別のスキャンダルが待っているだろう。それが、暴かれるのも時間の問題だ。ミッテランが出てきたとき、シラクが念願の大統領にやっとなったとき、動いたのは若者だった。左派、保守ともにである。小泉を担いでいるのが、若手というが、学生が活躍している党ではない。いずれにせよ、小泉が本物なら、自民党は再々度分裂するだろう。しかし事態は変わらない。なぜなら派閥は党内の党なのである。それが小沢や鳩山のように独立してしまうかだけの差で、政治情況の総体は変わらないのである。無党派層なんてありはしない。無関心層ならある。自民党はそれを作り出すことに腐心し成功したのである。自民党がいくつに分かれても同じことだ。いつかまた挙国一致内閣だ、大政翼賛会だ。きっと共産党も含めて。
三波春夫が物故した。大嫌いな歌手だった。ろくな歌が無い。加藤周一ほど僕は流行歌、はやりうたを軽蔑はしない。しかし、三波は最低だ。派手な着物はいい。歌詞が最悪だ。曲が全部同じに聞こえる。詰まらない。歌は反抗である。どうしてもてはやされたのか。レベルが低いとしかいいようがない。
勝手なことばかリを書いているものだから、読者からご意見をいただいた。「動物園廃止」のことである。子供たちのことを考えていないと。しかし、これは、思いつきだけではない。子供たちに、「君が檻にいれられて、餌はくれるけど自由がなくなったらどうするか」と訊いて欲しい。「いつも飢えているよりいい」と答えるかもしれない。だが大抵は、僕の真意がわかってくれるものと期待する。勿論、「スガンさんの山羊」の話のように、自由は規制されるべきという教会的、または儒教的解釈もできる。しかし、あれは自由の厳しさを教えるものであって、だから管理されるべきであると読むべきではない。野生の動物たちは、食べられてしまう、または明日飢え死にしてしまう運命を担っているのである。だから、人間が環境を変えてしまうことは慎まなければならない。僕たちは彼らとの共存と言う考えまで至ったではないか。