
歴史
紀元前のインド
チェスの始まりは歴史の中に埋もれてしまい文献は残っていない。紀元前327年ごろアレキサンダー大王がインドに侵攻したときに、彼はチェスの原型であるチャトランガ(Chaturanga)を見たとされる。チャトランガとはサンスクリット語で「四つの部分」chaturが四を意味し、angaが部分を意味するという意味であり、当時Chariots(一人乗り戦車=ルーク)、Cavalry(騎兵=ナイト)、Elephants(象=ビショップ)、Foot soldiers(歩兵=ポーン)というインドの兵制度から由来している。
その後、おそらく仏教の教えを広めるための旅をする僧侶と共にこのゲームは広まっていき西暦800年ごろまでには中国で独自の中国将棋が発明されている。その後、東へは韓国を通じて日本へ将棋という形で伝わった。西方には625年頃にシャトランジ(Shatrang)としてペルシャ(現在のイラン)に伝承し、8世紀から10世紀にかけてその全盛期を迎える。
998年までにIbn an-Nadimによって執筆された文献には、すでにチェスに関する本を執筆したチェスプレイヤーの記述が残っている。この時代、多くのチェスプレイヤーによってチェス理論の研究および、道徳上の正当化への努力がなされたようであるが、その宗教とのかかわりは定かではない。
(チャトランガ・シャトランジについてはここが詳しいです。http://www.ffortune.net/play/bgame/syogi2/chaturanga.htm)
ヨーロッパへの伝承
シャトランジは、3つのルートを伝わってヨーロッパに伝承された。8世紀のムーア人のスペインへの侵攻。9世紀にはカスピ-ボルガの貿易ルートを通じてロシアに伝わり、その後バルカン半島を通じビザンティン帝国に広まった。また同時期にヴァイキングがバルト海沿岸よりヨーロッパに持ち込んでいる。
1223年のモンゴル帝国の侵攻前、紀元1000年ごろまでにはヨーロッパ全域に広がったとされる。ヨーロッパへチェスが伝わった初期、主に聖職者によって競技され、その後教会から貴族へ広まっている。12世紀半ばまでに、乗馬、鷹狩り、作詩と共にチェスが騎士のたしなみとされている。
中世ヨーロッパでは相手の駒をすべてとり「裸の王様」にしてしまうというのが一般的であった。またチェスで賭けを行い、まれにしか起こらないチェックメイトは掛け金が2倍になるという記述も残っている。チェスの駒のそれぞれの異なる強さをしばしば当時の社会の階級制度にたとえられた。チェスは、それぞれの階級の人々の役割を説明するため、また2人の領土とその臣下たちの戦争を象徴するものとして使われた。
ルネッサンス
ヨーロッパにチェスが広がってから約5世紀の間は、チェスに大きな変化はなかった。1475年ごろ歴史に残っているチェスの記録の中で、もっとも大きいかつ重要な変更が行われた。ファーズ(Fers)はクイーンに変更され、オーフィン(Aufin)はビショップに変更された。これらの変更により、オープニングでの攻撃力が増し、ゲームの展開が早くなった。また、オープニングに関する研究もこの時期から始まっている。ポーンのプロモーションはより強力なクイーンになることが出来るようになり、これ以前、約800年から900年の間に蓄積されたエンドゲームの技術は廃れてしまった。
この新しいチェスのルールに関する記述はスペインのチェス理論家ルイス・デ・ルセナ(Luis de Lucena)によって1496年ごろ「チェスの技術」というタイトルで出版された。1512年にはイタリアン・ドミアーノ(Italian Domiano)によって現在伝わる2番目に古い本が出版された。この本は50年間に8版を重ね、「最初のベストセラー」とされた。
またこの時代もっとも強いチェスプレーヤーであると考えられていたルイ・ロペス(Lui Ropez)が1561年に著作を発表し、オープニングの重要性、ギャンビットの導入について記述している。また彼は相手の視界に太陽が入るようにチェスボードを置くようにアドバイスをしている。これらの本はすべてイベリア半島にて執筆されている。
16世紀の後半にはチェスの先端理論は王族や金持ちにスポンサードされたトッププレイヤーの多くがいるイタリアに移った。1600年にイタリアで生まれたジオアチーノ・グレコ(Gioacchino Greco)はチェスに勝つことで得た報酬と彼の手書きによる本の販売によってヨーロッパ全域を旅している。彼の著作は20冊ほど現存しており、その中で豊富なオープニング理論をもとにイタリアのチェス理論の先進性について述べている。彼の業績は34年の生涯を閉じた年、彼の著作がさまざまな言語(英語・フランス語・ドイツ語)により翻訳・出版されたときに大きな影響を残している。
コーヒーハウス・チェス
彼の死後、チェスの発展は約100年の間停滞したかのように見えた。しかし、1730年台にはチェスは多くの流行のコーヒーハウスにてプレイされ、金持ちのスポンサードを得るより、その常連となりチェスに勝つことにより生計を立てるプロが出てきた。チェスの本の市場は広まり、定期的に刊行されるようになった。
この時代もっとも活躍したチェスプレーヤーはフランス人の「フィリドール(Philidor)で、彼が1749年出版した「フィリドールの解析(L'analyze de eches)」という著作の中で、それまで軽視されてきた戦略、封鎖・戦略的放棄・予防法について述べている。「ポーンはチェスの魂である」という彼の本からの一文はもっとも有名なものである。
1870年ごろから上流階級でのチェスの流行は下火に向かい、中流階級に広がっている。当時、チェスが最も盛んであった場所はパリであり、'The cafe de la regence'というカフェがもっとも有名であった。
19世紀
経済的な発展をみた19世紀、多くの高学歴の人々を生み出し、彼らはチェスをやりがいがあり、また親しみやすいものとして受け入れた。この時代、チェスクラブが多く発足し、特に英国にて発展した。多くの新聞のチェスコラムやチェスの雑誌が発行された。
1843年に行われたスタントン(Staunton)とセント・アマント(Saint-Amant)の英仏国際試合でスタントンが勝利することにより、チェスの主導権をフランスから奪った。スタントンは、チェスの規範、記譜法およびチェスの駒の形を提唱した。また彼は1851年に行われた最初の国際トーナメントを組織した。
1870年代まで、ロンドンでのチェスセンターとして繁栄し、何人かのトッププレーヤーがチェスで生計を立てることができた。
1858年、アメリカのポール・モーフィー(Paul Morphy)が21歳でヨーロッパに渡り、数ヶ月の間に何人かのトッププレーヤーに勝利している。そして帰国後チェスを止めている。彼の成功はチェスへの熱気を高めるものであった。
プラハ出身のウィルヘルム・ステイニッツ(Wilhelm Steinitz)はモーフィーの死後2年たった1866年に世界チャンピョンの称号を手にし、1894年にエマニュエル・ラスカー(Emanuel Lasker)にその地位を明渡すまで、守りきった。
FIDE
1924年もっとも重要な組織FIDE(Federation Internationale des Eches)が、15カ国の代表がパリに集まり設立された。設立当初はアメリカおよびソビエトはこれに参加せず影響力の低いものであったが、1927年のチェスオリンピックの開催により、その国際的影響力を徐々に高めていった。また同年女性の世界チェスチャンピョンシップも開催している。1947年に国際ルールを制定し、50年FIDEのタイトルを制定している。また1981年には標準記譜法を制定した。FIDEの影響力は、ソビエトのチェスの頂点に立つ時期に一致している。
ソビエト
ソビエトは社会主義政権の初期からチェスに力を入れ、政府の援助によりチェスはソビエト中で奨励され、20世紀中もっともチェスに大きな影響を与えた国家である。ソビエトは1947年FIDEに加盟し、翌年行われた世界チャンピョンシップでミハイル・ボトヴィニック(Mihail Botvinnik)がチャンピョンとなり、2回の小さな中断をへて1963年までその座を守った。
ボビー・フィッチャー(Bobby Fischer)
フィッチャーは1943年シカゴにて生まれている。14歳のときにUSチャンピョンシップに勝利、15歳のときに世界チャンピョンのトーナメントに参加することが認められた。そしてすぐに世界のトッププレイヤーの仲間入りを果たしている。彼は歴史の中でもっとも偉大なチェスプレイヤーの一人とされ、現代チェスに革命を起こしている。
1969年に行われた世界チャンピョンシップの賞金はわずか$2,500しかなかった。なぜなら当時全盛を誇ったソビエト人にとって外国で稼いだ賞金はすべて国家のものとなり彼らにとって賞金は重要なことではなかった。また、ソビエト人同士の世界チャンピョンシップに世間の興味は向かなかった。
しかし、1972年のチャンピョンシップでは$125,000の賞金がオファーされたがフィッチャーはそれが$250,000になるまで拒否した。世間は金を支払っても彼の試合を見たいという興味に取り付かれた。彼はチェスをプロフェッショナル・スポーツに変えたのである。
参考文献