| 京都医師テニス界懐古雑感 阿部 長雄 平成16年も誕生日である7月7日【七夕】を過ぎ82歳をこしてしまいました。日本人の平均寿命は年年のび80歳に近ずきつつあるようですが、平均値よりオーバーであることにはちがいありません。 現在私は桂にあるフレンドテニスクラブのメンバーとして週2〜3回テニスをしてたのしんでますが、身体運動能力の著しい低下は防ぎようなく、走れない、反応が純い、ボールが見えにくいなどある中で、何とか続けるるように努力しておりますが、周辺には同年代の人はほとんどおられず些か淋しい状況です。 今春に日本シニアテニス連盟の京都府大会にエントリーをしてみたら、出場者100名中最年長で特別賞を頂き恐縮してしまいました・ちなみに私の次の年長者は76歳という事でした。 |
私とテニスとの出会い
昭和30年4月に四条鳥丸近くで医院を開業したのですが学校の先輩にあたる桃井範先生【西陣】から府医師会の硬式テニス同好会に入りテニスをしないかとお誘いを受け早速木曜会に入会させていただいたのが、きっかけです。今日まで約50年近く過ぎ記憶違いもあるかもしれないがむかしのことを振り返ってみます。
木曜会のこと
当初は二条城の庭園の一番北側に硬式用五面軟式用五面の市営テニスコートがあり、それを利用しておこなわれていました。庭園のなかであるので、四季折折花が咲き【梅、桃、桜、ふじ、薔薇、等】すばらしい環境のなかでプレイをたのしむことができ思い出の深い時期でありました。数年して市営コートは西院に移転し、さらにテニス人口の増加に伴い定期的にコートを確保するのが困難な状況となり不自由な時がありましたが、運良く桂にある三菱銀行の独身寮に付属しているクレーコート2面を無料で使えることになり、ここでは相当長くつづいたようで、現在はフレンドテニスクラブに移動されています。
木曜会入会時、会長役は学生時代テニス選手であった革島史郎先生【中東】で。会の世話は的場喜久雄先生【中東】がなさっており、特に的場先生は三菱銀行コート時代迄長く熱心に会の世話をされ教服に値する方であったと思っております。
木曜会には何の規約規制も無く【入るは拒まず去るは追わず】の精神で運営されており、大変自由な雰囲気をもった会であり新人初心者には特に懇切丁寧に指導をされており、的場先生の持っておられたテニスえの情熱の基幹は(テニスは勝負や技を競うにあらず・テニスを愛し楽しみ続けることである)ということではなかったかと考えます。
そのような会でありテニス技術の上手な人や勝負にこだわる人にとっては一面物足りなく感じ離れて行く人などもありました。私自身も一般社会人有志でつくておられた水曜会という団体や竹内譲冶、富井眞人先生などが山科に作られたクラブなぞに参加し技術の向上をした時期もありましたが、木曜会を離れることなくきました。昭和61年3月愛知県に移住したため中断しましたが平成14年京都に戻りましたのを機に木曜会に再入会させていただきました。木曜会が続けられていたのも感激でしたが16年間中絶中に多くの方々が姿を消しておられ16年の歳月の長さを身にしみて感じた次第です。周囲をみわたしてみて木曜会の初めのころからのメンバーは私一人だけになってしまったように思われますので木曜会としての活動の歴史を思い出すままに記してみようと思います。
昭和30年半ばころと思うが神戸市長田区医師会にも硬式テニス同好会があり一度親善交流試合をしようという話が桃井先生を通じてあり、神戸市長田区のコートえ遠征したのがはじめての対外試合であり大変楽しく皆な感激し、毎年交互に交流試合をすることをきめ数年続きましたが同好会組織では日祭日にコートを予約確保をすることが困難となり府県単位の対抗戦の形に格上げする必要が生じ、互いに府医師会県医師会に働きかけ、幸いに毎年の事業として認めてもらい予算も付きコートの確保、懇親会、の設営などを事務局が担当してくれ継続が出来た次第です。
このようなことが契機となり、愛知県医師会とも交流定期戦が出来ないかと私の学友を通じ運動をしてみましたが、愛知県は地域が広範囲でまとめるのが困難であるということで名古屋ローンテニスクラブのメンバーの中の医師団約10名前後の方方と交流試合をすることとなり数年続きましたが、名古屋の方の世話をする人がなくなりまして消滅してしまいました。
大阪府とは、長居運動公園内のテニスコートを利用して活動しておられる医師集団があることが分かり、数回交流戦をした記憶がありますが大阪は神戸とも交流戦をやっておられそれならば京阪神テニス大会として年1回大阪長居コートで開催する事にし運営の世話は交代でするようにしようとなり数回実行されたと思います。
このように対外的に大きな仕事が多くなってくると同好会的な組織では出来なくなり必然的に府県単位の強力な組織が必要になってきた次第です。昭和59年位にあちこち県単位で医師テニス協会が設立されるようになってきたのですが、これには神戸の宮村研先生の硬式テニスの全国組織を作りたいという以前からの強い希望情熱による働きかけがあったものと思われ、私も数十年にわたる友人である宮村先生に会うたぴに、京都にも早くテニス協会を作ってほしいとせつかれていて遅ればせながら昭和60年に京都府医師テニス協会設立準備会を立ち上げました。委員の先生方に夜私の自宅に集まっていただき規約作りをいたしました。委員には木曜会から多喜乃先生、菅井先生、伏見から弓削先生、植田先生、東山から武藤先生等であったと記憶してますが、もれがあるかもしれません。
数回の会合で規約は完成し初代会長に多喜乃正一先生にひきうけてもらう事を決足しました。
発足をするまえの昭和61年3月に私が急に愛知県に移住する事になり大変先生達にご迷惑をおかけしていまいました。何とも今更お詫びの仕様もないのですが、以後立派に協会が設立され現在のように発展し運営されていることに感激をしております。歴代の会長、役員の方方のご尽力・ご努力に対し深甚の謝意を表す次第です。
この稿を書いていて、50年にわたる長い時期、共にテニスをした先輩の先生方、仲間の方たちの、顔、姿、忘れがたい様様のエピソードをあらためて懐かしく思い起こす事になり、その中で相当多くの方が他界されていて大変寂しい限りです。ここに謹んで御冥福を祈りこの稿を終えこととします。
ホームページ担当者より追加
阿部先生からいただいた原稿に添えられていましたお手紙から一部を抜粋して掲載させていただきます。
「書きました事以外に、的場先生と共に木曜会の運営に永く御尽力をされた桃井先生のこと、京都府医師テニス協会テニス実力ナンバーワンの地位を長く維持された富井眞人先生のこと、伏見区内の自分の土地にテニスコートを造り伏見医師会のテニスの発展に貢献された福島次雄先生のこと、また医師を廃業し山科に四ノ宮テニスクラブを開設し子息をプロテニス選手に育てられた竹内譲次先生のこと等触れたいとも思いましたが今回は割愛しました。」
阿部先生どうか続きをご執筆いただいてまたお送り下さい。ありがとうございました。