2.5. 体罰禁止の弊害

2.5.1. 11条は刑法に抵触する不当行為とそうでない行為の境をあやふやにし、結果的に不当行為を増長している
2.5.2. スウェーデンの家庭体罰禁止の実態に見る、「禁止すれば体罰はなくなる」と期待する安直さ 
2.5.3. 体罰禁止は幼児期・児童期のしつけ不足を招き、逆に体罰の必要性を高めた
2.5.4. 家庭のしつけに対する学校体罰禁止の影響
2.5.5. 11条にある「体罰」を再定義しても問題は解決しない
2.5.6. 体罰禁止の強制は曲芸の強制
2.5.7. おまけ


2.5.1. 11条は刑法に抵触する不当行為とそうでない行為の境をあやふやにし、結果的に不当行為を増長している
 例えば銃刀法が現実のそれとは異なり、「銃(gun、鉄砲)」「刀」と名のつくあらゆるものの所持および使用を禁止していると想定していただきたい。管理者は子供の頃割りばし2セットと輪ゴム数本で「割りばし鉄砲」というおもちゃを作ったものだが、それも銃刀法により犯罪となる。また伝統的な竹鉄砲の所持も銃刀法違反となってしまう。割りばし鉄砲や竹鉄砲が殺傷力の高い銃と同等に扱われる世界では、我々の銃器に対する感覚はマヒしてしまう。まず規則だからといって割りばし鉄砲ばかり検挙するものだから、銃刀法が重みを持たなくなる。また割りばし鉄砲を銃器と同レベルに扱うことは、銃器の危険性が割りばし鉄砲のレベルに下げられ銃器の悪用に対する罪悪感を低下させる。また検挙する方も「割りばし鉄砲を取り締まるなんて馬鹿らしい」と言って法の徹底に不熱心になり、結局より大きな犯罪を抑止する効果を下げてしまう。
 体罰禁止法はまさにそれと同じ状況なのである。体罰の有効性を理解している教師にとっては、学校教育法11条に抵触したからといって不当行為であるとは納得しがたいため11条を無視する。そしてそれに便乗した無能力教師が己の感情に任せて体罰という名の暴力を振るっているのが現状である。さらに11条に目が行って刑法の重みが薄れるため、11条を無視して体罰を行うことは刑法に抵触する暴力行為にまで発展しやすいのである。また取り締まる側が賛否両論ある法を徹底させるのに不熱心になるのは仕方がないことで、そのため深刻な暴力に対する目も甘くなってしまうのである。
 11条を介さずに刑法を意識させれば、不当行為は不当行為であることがより明らかになるので、教師も刑法に触れるような行為は自粛するであろう。刑法に触れるような行為を抑止するには、刑法を意識させる方がより効果的なのであり、学校教育法11条の存在はそれを妨げているに過ぎない。11条で体罰を禁止していても暴力行為がなくならない一因はここにあるといえる。

2.5.2. スウェーデンの家庭体罰禁止の実態に見る、「禁止すれば体罰はなくなる」と期待する安直さ (2001/09/14追加)
 学校教育法11条から少し横道にそれるが、同条但し書きを考えるにあたって示唆に富んだ資料があるのでここで紹介したい。
 子ども虐待(child abuse)を防ぐため、スウェーデンでは世界に先駆けて1979年、家庭での体罰が禁止された。これに続いてノルウェー、デンマーク、フィンランド、オーストリア、シプラスなどの国が次々と家庭体罰を禁止し、EPOCH(End Physical Punishment of Children: Radda Barnen)のように、世界規模で家庭体罰への反対を主張する団体も生まれている。
 体罰を禁止すれば虐待もなくなる。一見すれば正しいように思える。しかし実態はどうであろうか。ここではJohn S. LyonsとRobert E. Larzelereの報告("Where is Evidence That Non-Abusive Corporal Punishment Increases Aggression?" 1996)を見てみたい。彼らによれば、以下のことが統計から分かったというのである。

(1)家庭体罰が禁止されてから一年後のスウェーデンの子ども虐待の割合は、同時期のアメリカと較べて49%高い。
(2)1986年に警察に報告された子ども虐待の、子ども1000人あたりの割合が、アメリカでは2.2人であるのに対し、スウェーデンでは6.5人に上る。
(3)7歳以下の子どもへの身体的虐待の警察記録が、1981年から1994年の間に489%増加し、未成年者の未成年者に対する暴行が同期間に672%増加した。

 皮肉なことだが、家庭体罰を禁止して一年後のスウェーデンの子ども虐待の実態は同時期のアメリカと較べてはるかにひどく、しかもその後さらに虐待は増加しているというのである。このことは何を意味しているのであろうか。
 LyonsとLarzelere(1996)は、本来過剰な体罰への加速を止めていたはずの適切な体罰までもが禁止されたため、過剰な体罰に発展しやすくなったのではないかと推測する。問題行動が小さいうちに体罰も含めて適切な処置を行っておかないから、問題行動が悪化していって手のつけられなくなった大人が虐待や暴力に訴えることは、確かに十分考えられることである。
 これとは別に、体罰に代わる適切な代用策がなかったことも理由にあるだろう。Haeuser(1988)は「1981年の時点では、親は身体罰に代わる建設的な代用策を確立していなかった。ほとんどの親は怒鳴ったりわめき散らしたりといったことしかできず、今までの状況と変わらないか逆にひどくなったと感じる親もいた。」(p.22)と言う。Haeuser(1988)は1988年までの時点で親たちはより確かなしつけの方法を身に付けているとしているが、上記(3)を見る限り現実はどうも逆であるようだ。こう考えると、適切な体罰を代用するものなどあるのだろうかと疑問に思ってしまう。
 虐待をなくす目的で体罰を禁止したのに、影響が適切な体罰に及ぶ上に有効な代用策もないため、逆に虐待が増えてしまっている。何とも皮肉な話である。家庭体罰を禁止した当時の議論では、このような結果は予測していたであろうか。LyonsとLarzelere(1996)はスウェーデンの家庭体罰禁止法の影響を評価した調査があまりに少ないことについて、「親の体罰を禁止すれば虐待が減ることはあまりに明白だから、評価の必要はないと考えていたのだろう」と推測している。まさにそのようなおごりがあったのではないだろうか。
 これは家庭体罰についての話だが、同様のことが学校体罰についても言えると考えるのはそう不思議なことではないであろう。家庭体罰を禁止すれば虐待がなくなると期待するのと同じように、体罰を禁止すれば教師暴力がなくなると期待することには根本的な誤りがあるのではないだろうか。2.5.3では日本の学校体罰禁止について同様の観点から検討していきたい。

参考文献:
Haeuser, A. A. (1988). "Reducing violence towards U.S. children: Transferring positive innovations from Sweden." Unpublished manuscript, University of Wisconsin-Milwaukee, School of Social Welfare & University Outreach, Milwaukee.
Lyons, S. J., Larzelere, E. R. (1996). "Where is Evidence That Non-Abusive Corporal Punishment Increases Aggression?." http://people.biola.edu/faculty/paulp/sweden.html

2.5.3. 体罰禁止は幼児期・児童期のしつけ不足を招き、逆に体罰の必要性を高めた
 ここでは、体罰禁止を過剰に叫ぶことによって小さいうちに必要なしつけが先送りにされ、より大きな問題を招いている過程について指摘したい。
 まず、親による幼児教育。親の懲戒権は民法822条により認められており、親の体罰は禁止されていないため、親は子に対して体罰を視野に入れたしつけを行ってよいわけである。ところが体罰はなぜか親の間でも敬遠されたり疑問視されたりする。なぜだろうか。体罰と聞いて不当で過剰な暴力を連想する風潮が一役買っていると思われるが、これまで述べてきたようにそれは学校体罰禁止によって植え付けられた不適切な認識なのである(これについての詳細は後述する)。学校であらゆる体罰が法的に禁止されていれば、あらゆる体罰が悪であると錯覚するのももっともなことなことである。この間違った認識によって、親までもが体罰は非民主的だの子供のためにならないだのと思い込み、親権として認められている体罰を自粛してしまう。幼児期であれば簡単に植え付けられるような、危険行為を避けるための基本的なしつけは、この時点からすでに先送りが始まっているのである。
 そして小中学校の義務教育期間。思春期以前は無機質な扱いよりもスキンシップを好むので、教師は体罰以外の無機質な懲戒を行使しがたいであろう。かといって体罰は禁止されているため、懲戒を行うとすれば極度に理不尽なものになってしまう。結局教師は問題行為に対して何らの罰を下さず、子供との話し合いを試みる。それで解決しない問題は、「まあ仕方ない。精一杯の努力はしたんだ」との一言でそのまま次の学年へと持ち越され、周りも「まあ仕方ない、あの先生はできることはやったんだ」と評価する(法律で禁止されているから、彼らの「精一杯の努力」や「できること」に体罰は含まれてはいない。含まれてはいけないのである)。そして問題行為は改善されないまま深刻化する。口で言っても分からない、罰をしようにも禁止されている、追い出そうにも義務教育だからできない。結果教師の感情は鬱積し、一部では粛正やら愛の鞭やらの名の元に単なる暴力が始まる。よしんば教師が鬱積した感情に堪えたとしても、それで子供が更正するわけでもなく、学校の秩序は崩壊し、問題はさらに上の学年に持ち越されて一層深刻化する。一方で他の生徒の安全や学習権を守るために出席停止措置を行えば、教育の放棄だ、と責められる。
 高校へきてやっと義務教育が終了するので、教師はここぞとばかりに停学・退学処分の権利を行使する。教師も周りも「あんな生徒では退学になってもしかたない」の一言。子供にしてみれば、小さいうちに悪いことは悪いとしかられておくのと、高校になって停学・退学処分になるのとどちらが「しかたなかった」と思えるであろうか。答えはあまりに明白である。
 しつけとはいわば人権の侵害である。しかししつけのような小さな人権の侵害までも必要以上に害悪視することは、後になってより深刻な人権侵害を招くだけなのである。自らを滅ぼすような問題の芽を小さいうちに摘んでやることは、子供の将来を考えればとるに足らない人権侵害である。そのために必要な軽微な体罰を、教師のみならず親にまでも封印させるような体罰禁止法は、永久に教師の体罰を根絶できないばかりか逆に体罰の必要性を高めているのである。体罰を根絶するつもりが体罰を助長する。子どもを尊重するつもりが子どもを侵害する。体罰根絶論を振りかざす人たちは、この矛盾に気付いているのだろうか。

2.5.4. 家庭のしつけに対する学校体罰禁止の影響
 2.5.3でも少し触れたが、ここでは家庭のしつけに学校体罰禁止がどのような影響を及ぼしているかもう少し掘り下げて考えていきたい。
 当然のことながら学校教育法11条但し書きは教師による体罰を禁止したものであり、家庭の体罰は禁止していない。民法822条で親権としての懲戒が認められているが体罰が禁止されていないことからも分かるとおり、親は子どもに対して体罰を行ってよいのである。とすれば学校教育法11条但し書きは家庭の体罰に影響など与えるはずがないではないかと思われるかもしれない。単純に考えればそうであろう。そこでこの点をもう少し詳しく見ていくことにしよう。
 終戦後の1947年に学校教育法11条によって教師の体罰禁止が確認されて以来、いくつかの通達によって体罰の定義がより細かくなっていくと同時に、学校体罰禁止が妥当であることをを示すために後付けの理論が数多く作られてきた。曰く体罰は心に消えない傷を残す、曰く体罰は非人道的行為、体罰は基本的人権を侵害している、体罰は暴力に他ならない、etc, etc... 
 これらいわゆるデメリットは一瞥しても分かるとおり、そのほとんどは学校体罰に限定されたものではない。ここに大きな問題がある。つまり、これらデメリットは家庭体罰にもあてはまりうるため、事情のよく分からない親は体罰批判の波に巻き込まれて家庭の体罰を躊躇してしまう。学校での体罰禁止があたかも普遍の真理のように親の教育に影響を及ぼしてしまうのである。
 この結果教師だけでなく親も体罰を自粛してしまい、学校だけでなく社会全体として適切な体罰を行う能力が低下する。必要なときにも体罰を行わず、かといって他の方法で解決させるわけでもないから子どもの問題行動は悪化する。またひとたび体罰を行えば経験不足ゆえに虐待としかいえないような行為になってしまう。そのような家庭教育を受けた子どもが将来親となって適切な体罰を行使できるとは期待しようもない。現代の日本では家庭の虐待や養護施設の体罰が問題になっているそうだが、このような傾向が戦後から3世代ほど続けばそれらの問題が噴出するのも納得が行く。
 法で禁止されているのが体罰反対の根拠なら、家庭や養護施設の体罰に反対する理由はないはずである。しかし学校体罰に反対する学者の中に、家庭や養護施設での体罰を積極的に推進している人はどれだけいるだろうか?恐らく学校体罰に対する理論を学校外の体罰に当てはめる学者がほとんどであろう。少なくとも「学校で体罰が行えない分、学校外ではしっかり行おう」と主張する学説は聞いたことがない。このような状況では、法で禁止されていないからといって家庭や養護施設、地域社会で安全な体罰の議論や経験を積む満足な機会が与えられるはずがない。

2.5.5. 十分な議論がされないまま11条但し書きができたことの悪影響
 日本の体罰禁止は綿密な議論を経たものではない。
 学校教育法制定以前に十分な検討の期間が与えられていれば、家庭等の体罰においても活発な議論が繰り広げられ、たとえ学校体罰が禁止されていようとも家庭体罰は適切に進歩していく余地はあったかもしれない。しかし学校体罰禁止についてはそのような議論が十分になされたとはとてもいえず、加えてそれに覆い被さるように、制定から一年も経たないうちに体罰が厳密に定義され、体罰禁止を理論的に正当化しようとする試みが非常に精力的に行われてきた。戦後の復興に懸命だった国民に、それらを詳しく検討して覆そうとする余裕がなかったことは想像に難くない。そうこうしている間に、11条但し書きの及ばない家庭等の体罰に於てさえも、適切な体罰を行うための議論や訓練が十分になされない土壌ができあがってしまっているといえる。

2.5.5. 判例に現れた体罰禁止の影響〜安東中事件〜
 体罰かそうでないかの違いはあくまで手法上の違いに過ぎず、それをもって教育上よくないことかそうでないかは言い難いものである。それを教育上よくないことと決めつけて禁止してしまった学校教育法11条但し書きだが、その影響は裁判所の判断にも顕われているようだ。体罰なので違法行為だが、非罰者の問題行動の悪質さなどを考慮して賠償は形だけ、とでも言いたげな興味深い判決があるので紹介したい。HPでも紹介しているいわゆる安東中事件(1988(昭和63)年2月4日静岡地裁判決)である。
 この事件は障害児に対する生徒のいじめに対し、3人の教師が体罰を行ったものとして損害賠償が求められたものである。この判決では請求50万円に対し賠償金5万円が認められたが、原告と被告市の費用の各10分の1を被告市が、原告と被告市の費用の残り及び被告3教師の各費用を原告が負担するものとされている。訴訟費用がどれくらかかるかhub99が知る由もないが、少なくとも原告被告併せて6万を下るものではないだろうと考えると、賠償金5万を考慮しても被告は賠償金以上の出費を課されているのである(訴訟費用の理屈はよく知らない上で申し上げていることを予めご了承いただきたい。明らかな間違いがあればご指摘いただきたい)。得られた賠償金が請求より遥かに少ない上に訴訟費用の大部分を負担させられ、原告としては全く割に合わない裁判ではないだろうか。これから判断するに、体罰であるというだけでは原因によっては裁判所でさえ形式的な非しか認めないように思える。
 なおこの判決については、まだ専門家の批評を読んでいないため、個人的な考えに過ぎないことを付記しておく。

2.5.5. 11条にある「体罰」を再定義しても問題は解決しない
 仮に「単なる教師の不満のはけ口としての行為、もしくは場に応じた妥当な懲戒でなく、かつその懲戒によって子供の受けた精神的衝撃を緩和させるためのアフターケアがなされない行為」を再定義によって学校教育法11条に示されている「体罰」の定義とすれば、確かに体罰は不当な行為と言えるようになるだろう。しかしこれにも大きな問題が残る。この再定義された体罰は辞書で定義されている体罰と表記上同じであるため、同音異義語の特質にもれず混同して使われてしまうのである。この状態では理性によって制御された妥当な体罰もやはり11条但し書きを根拠に不当に批判されてしまい、また一方体罰でない懲戒に対しては、11条但し書きを根拠に批判することに多くの人が抵抗を感じるだろう。例えば罰として明らかに不当であるような長時間の説諭を行うことは、上記の再定義の体罰に相当するだろうが、だからといってそれを「体罰だ」と批判しようとする人は少ないと思うのである。11条但し書きにいう体罰と我々のイメージする体罰が一致しない限りはこの問題は解決しないので、再定義によって現状が改善する見込みはないと思われる。したがってたとえ11条但し書きはが形骸化しているといえども、このような点を考えれば11条但し書きは積極的に排除される必要がある。

2.5.6. 体罰禁止の強制は曲芸の強制
 これまで見てきたように、体罰禁止は実際の現場で事実上意味を持たない。そこで、ここでは「実際の現場で意味を持たない足枷行為」という意味で体罰禁止を曲芸と表現している。「体罰封印は子供のため」とか言いながら、実は体罰封印は教師の曲芸披露でしかないと言える。子供は曲芸のダシにされているに過ぎない。
 例えば、外からカギの掛けられた部屋から脱出する曲芸。曲芸としては褒められるものの、曲芸ではなく単に部屋から出るという作業をこなすだけだったら、わざわざ外からカギをかけることは効率を無視した愚行である。部屋から出るというごく単純な行為をわざわざ難しくして賞賛されるのは、曲芸の世界だけである。意味のない体罰禁止という足枷をつけて子どもを教育し、賞賛を求めるのは、教育が曲芸に成り下がっていることを示しているといえる。
 また、曲芸を行えば曲芸のダシは当然通常よりも粗雑に扱われる。例えばカールを放り投げて口でキャッチする曲芸では、普通に食べるよりもカールは粗末に扱われる。曲芸の場合、主体はネタでなく演技者であるからだ。失敗して床に落ちて踏みつぶされても曲芸だから許されるのである。うまくいけば演技者は賞賛されるが、カールにとっては別段得なわけでもなんでもない。失敗しても「難しいことをやっているんだからしかたない」と周りが正当化してくれる。普通に食べていれば、落ちるカールの数はずっと少なくなるはずである。これらカールを子どもに置き換えて考えていただきたい。
 使うべきでない所で体罰を使うことが非難されるように、試みるべきでない所で体罰以外の手法を試みることは本来非難されるべきである。ところが体罰の代替手段としての行為はなぜか勇気ある決断だの教育者の鏡だの言って褒められる。やはり体罰はすべからく危険という先入観のなせるわざなのだろう。

2.5.7. おまけ
 体罰禁止法である学校教育法11条の弊害については挙げてもきりがないですが、最後にYahooに投稿していた時期に指摘した弊害を以下に箇条書きで再記します。上の主張とだぶる部分が多いと思いますが、あしからずご了承ください。

1. 他の法は不十分であるという錯覚を助長している。これは「体罰は違法」という言葉に安住し、他の法をよく勉強していないから起こるのだろう。実際「体罰は違法」を根拠にしなければ予防/断罪できない不当行為が現在存在するのだろうか。

2. 他の懲戒が多少きつめに行われても、体罰を行うよりはましであるという錯覚を助長している。このため体罰以外の懲戒で不当な処分を受けた生徒は周りの関心を買いにくく、泣き寝入りしてしまうことが多くなる。余談だが、体罰より他の懲戒の方が絶対的に適切であるという理論を証明できた人を今までに見たことがない。

3. 体罰が禁止されることで有用な体罰も禁止される。このことは他の懲戒の濫用に直結し、結果的に2の「体罰でさえなければ善である」「多少きつくてもしょうがない。体罰よりはまし」という錯覚に通じる。吟味された肉体的懲戒が教師の選択肢に含まれることで、それらの問題は軽減される。

4. 教師が手を出せないのをいいことに生徒をつけあがらせている。「殴ってみろよ」なんてつけあがる生徒を出したこと自体、「体罰は全て禁止」の大いなる失態。他の法に対する知識をつけた後に学校教育法11条を撤廃するか、肉体的懲戒が全て禁止されてはいないことを証明し、その理論の浸透を世代単位で待つか、方法はいくつかあろうがこの問題の解決には時間がかかるだろう。

5. 違法とされているので議論されず、いざ発動してしまった時に単なる暴力行為となりやすい。現在体罰が問題となっているのは、体罰禁止が徹底されていないからではなく、むしろ体罰禁止によって体罰が悪質化してきたことによるのであろう。

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