2.1. 体罰批判に反論

ここでは体罰反対の理由としてよく挙げられる以下のような主張に反論します。つれづれなるままに書いているので一部重複している主張があるかもしれませんが、あらかじめご了承下さい。なお、この2.1は体罰を否定しつつも他の懲戒を容認する論への反論が多いですが、懲戒全体を否定し話し合いを過剰に神聖視する論に対する反論も一部含まれています。
2.1.1. 体罰は子どもの人権を侵害する
2.1.2. 体罰は将来に精神的な傷を残す
2.1.3. 体罰は感情的に行われがちである
2.1.4. 体罰をしなくても話せば分かる
2.1.5. 体罰でなくても他の懲戒を用いればよい
2.1.6. 体罰をしても効果があるとは限らない
2.1.7. 体罰は公平に行われない
2.1.8. 体罰は教師の負担を増加させる
2.1.9. 体罰は暴力に他ならない
2.1.10. 体罰では根本的解決にならない
2.1.11. 体罰は人に暴力をふるうことを肯定する教育である
2.1.12. 暴力は暴力しか生まない
2.1.13. まとめ
「体罰は法で禁止されている」については次章で反論します。
*ここに挙げたもの以外に体罰の弊害を思い付いた方、反論に反論される方は、掲示板の方にその旨書き込みをお願いします。


2.1.1. 「体罰は子供の人権を侵害する」に反論
 体罰以外の懲戒も子供の人権を不当に侵害しうるという事実を忘れてはならない。自由プールで危険行為をした子供の尻を叩くことも、プールから追い出して遊泳を全面禁止することも同様に人権を侵害している。さらにこの場合、尻を叩く罰は子供がその後プールで遊ぶ権利を保証しているが、プールから追い出す罰はプールで遊ぶ権利を剥奪している。1回目は厳重注意で済ますとして、再違反者に与える罰として後者の遊泳禁止は前者に較べて不当な人権侵害と言われても仕方がないだろう。しかし4回5回と度重なる違反者に対しては、後者が選択されることも止むを得ない(ちなみに管理者は、小学校の自由プールでの危険行為の場合1回目は厳重注意、2回目は尻を叩く、3回目は三日間の遊泳禁止といった段階的な罰が妥当だと考える)。このように、人権侵害としての懲戒が不当か不当でないかは被罰者の問題行動の度合いによって左右されるものであるので、侵害の度合いが高いからと言って一概に不当なものであるとは言えないのである。
 このことは、体罰以外の懲戒も同様に人権を侵害していることを示している。というより懲戒は人権を侵害することで機能するので、全ての懲戒は人権を侵害しているのである。人権を根拠に体罰を全否定する場合、体罰と他の懲戒がペアで否定されるのが妥当であり、それをせずに体罰のみを禁止するのは片手落ちである。また2.4で触れるように、諸法を徹底させれば人権侵害の度合いが高い体罰を否定することができるので、「体罰禁止」の存在意義は、人権侵害の度合いが低い(「人権の制限」として合法とされうる範囲の)体罰を否定するだけになる。結果的に、より人権侵害の度合いが高い懲戒が選択されがちであるので、「体罰全面禁止」はむしろそれ自体が不当な人権侵害と言えよう。
 また体罰を選択せずに無意味に話し合いで解決しようとすることは、授業中に行えば他の生徒の教育を受ける権利を侵害する。話し合いで解決する姿勢は全ての懲戒に代わりうる有効な教育手段であるが、あらゆる点においてそれが善であると考えるのは正しくない。
 法で禁止されていることを行われない権利という観点から基本的人権の侵害を主張することも可能ではあろうが、2.2で触れる「体罰禁止の穴」によってこれも妥当な主張ではなくなる。

2.1.2. 「体罰は将来に精神的な傷を残す」に反論
 体罰だから将来に禍根を残すのだろうか。否。精神的な傷が残るのは、単に教師の不満のはけ口としての行為であるからか、もしくは場に応じた妥当な行為でなく、またその行為によって子供の受けた精神的衝撃を緩和させるためのアフターケアがなされないからであろう。体罰に限らずどんな行為でもその危険性は等しく存在する。よってこれを体罰に限定することは正しくない。これが体罰に反対する理由であるならば、体罰反対論者は全ての教育現場の行為に反対するはずである。要は体罰反対を正当化させるための後付け理由に過ぎない。
 一方、体罰以外の懲戒も同様に子供の将来に精神的な傷を残しうるとした上で、体罰の方がより精神的な傷を残しやすいと言えるだろうか。「死ね」とか「ふざけるな」などの暴言が十分に精神的ショックを与えうることを考えても、体罰以外の懲戒も同様に将来にわたる精神的な傷を残しうることは疑いようがない。

2.1.3. 「体罰は感情的に行われがちである」に反論
 これもまた固定観念のなすわざであろうか。別に体罰が特別感情的に行われるわけではない。カッとなって手が出る、カッとなって傷つける言葉を口走る。体罰であろうがなかろうが、感情的になるときはなる。
 尻を叩いたり手の甲を叩いたりといった軽微な体罰は、感情的に行われる方がむしろ困難なことは明白である。そういった理性でコントロールされた体罰まで固定観念によって否定してしまうことこそ、感情的な理論ではないだろうか。むしろ感情的に行われる行為を否定して、コントロールされた行為は積極的に用いるべきだと管理者は考える。

2.1.4. 「体罰をしなくても話せば分かる」に反論
 そういう場合もあるという話。話せば分かるのに一方的に与えられる行為は体罰に限らずある。話して納得させるべき場面で体罰に頼ることが批判されるべきであって、体罰そのものを批判する理由にならない。
 「話せば分かる」という主張が全てのケースにあてはまるかは、幼児が危険行為をした時に自分がどう反応するかを考えてみればすぐ分かる。幼児が危険性を理屈で分かるまでの当面の危険性を回避するためには、結局は「とにかくダメ」という押し付けに終わるはずである。そもそも子どもにとって、理屈が後からついてくるなんてことは日常茶飯事ではないだろうか。プールサイドで走り回ることの危険性を6才児にひしひしと説いて、もし理屈で納得させられなかったら、我々は子どもがプールサイドを走ることさえ止められないのだろうか。そんなことであったら、子どもはいつまでたってもプールで遊ばせてもらえない。小学校入学時程度では、論理的思考はまだまだ弱いのだから。
 また体罰の場合、体罰をされたという事実だけで法や大衆が後押ししてくれる傾向にあるので生徒もより理不尽に感じやすいのであろう。逆に停学や退学の場合、それそのものが批判の対象ではなく生徒の起こした非行に対して妥当な処分であるかどうかで批判の対象になるか否かが決定される暗黙の了解となっているので、停学・退学させられたからといって闇雲に訴えていたのでは生徒はかえって恥をかく。

2.1.5. 「体罰でなくても他の懲戒を用いればよい」に反論
 体罰よりも他の教育行為の方が優れているのなら正論であろうが、そうではないので全く余計なお世話というものである。「優れたものであっても体罰はダメ」「少しぐらいきつい罰でも体罰よりはマシ」といった固定的な考え方は、場に応じて適切な教育的行為が選択されるという教育活動の原則に反している。また「場に応じていなくても体罰よりはよい選択」という誤解は教師の選択能力をマヒさせるだけでなく、我々一般人の教育に対する監視の目をもマヒさせてしまう。以前自由プールでの危険行為に対して「尻を叩くくらいなら遊泳禁止にすればいいのだ」という意見を聞いたが、体罰でなければ優れた懲戒であるという思い込みは実に危険だと思わせる好例であった。
 体罰と他の懲戒に上下関係はない。懲戒の中の二者の関係は、並列の関係であり右手と左手の関係である。そして右手と左手の役割が分担されているように、体罰と他の懲戒の役割もそれぞれの性質を考慮した上で場に応じて使い分けられるべきなのである。

2.1.6. 「体罰をしても効果があるとは限らない」に反論
 よく「体罰をしても生徒が改心するとは思えない」とか「体罰をしても効果があるとは限らない」とかいう意見を聞くのだが、他の懲戒も効果があるとは限らない。よってこれを理由に体罰に反対する人は漢字の書き取りや反省文などにも反対するべきである。またじっくり話して納得させるべきという意見も、じっくり話したからといって納得に結びつくとは限らないという点は、体罰に効果があるとは限らないという点と何ら変わりがない。
 使い方によって効果が出なかったり出なかったりするわけである。体罰だから効果がないわけではない。

2.1.7. 「体罰は公平に行われない」に反論
 体罰を負担と思う子供と思わない子供がいることが根拠なのだそうだが、罰掃除を負担に思う子もいるし、そうでない子もいる。説教を負担に思う子もいるし、そうでない子もいる。50分間机を前に座らされていることを負担と思う子もいるし思わない子もいる。朝8時に登校することを負担に思う子もいるし思わない子もいる。体罰反対論者の観点でいけば、あらゆる教育行為は公平に行われないのである。
 不公平は全てにおいて存在し、その度合いが明らかに不当であると判断される時のみ本来非難の対象となるべきである。体罰は不当行為ばかりが積極的に大衆に公開されているので、特別不公平さの度合いが高いように錯覚させられている。そのため不公平を根拠にする体罰反対論者は、体罰でなければ考慮されないような小さな不公平でも体罰であればめざとく見つけてここぞとばかりに非難し、「見よ、体罰はすべからく不公平ではないか」と主張するのである。

2.1.8. 「体罰は教師の負担を増加させる」に反論
 子供が問題行動を起こした時、教師は瞬時に多くの選択を迫られる。まず第一に教師が介入するか、黙認するか、他の子供、つまり子供同士の解決力に任せるか、他の教師に相談するかなどが決定される。教師が介入する場合、注意か話し合いか懲戒か、などが決定される。懲戒の場合、具体的にどのような懲戒を行うかが決定される。これらの判断が被罰者の年齢、性格、問題行動の性質、再犯であるか否か等さまざまな要因を考慮して瞬時に下されなければならない。体罰が懲戒の選択肢に加わったところで教師の負担は増加しない。むしろ懲戒が細かな段階を持つことで、より妥当な懲戒が選択されやすくなり、逆に教師の負担は軽減するのである。

2.1.9. 「体罰は暴力に他ならない」に反論
 「体罰という名の暴力」という言葉は「体罰は暴力である」ということではなく、「体罰の中にも暴力と判定されるものがある」ということを言っているに過ぎない。
 あらゆる体罰が暴力であるような世界では、あらゆる注意叱責は脅迫であるという非常に滑稽な事態に陥る。
 また、親の懲戒権は民法822条で認められているものの、体罰禁止は明記されていない。とすれば、体罰が懲戒に含まれることを考えると、子に対する親の暴力は野放しであるということになってしまう。これもまた滑稽だ。

2.1.10. 「体罰では根本的解決にならない」に反論

 例えば、退学や停学は体罰ではないが、それらは根本的解決になっているのだろうか。校長による訓戒が根本的解決になっているだろうか。根本的解決になるとはいえないという理由で体罰を否定するのであれば、あらゆる懲戒を否定するべきである。
 また、じっくり話し合うことだけで根本的解決になるのだろうか。無邪気にカッターナイフで友達を切る真似をしている児童に、じっくり話し合って論理的に危険性を納得させるだろうか。第一理解させられなかったら一時的解決にすらならないではないか。一方的に禁止される中で、子どもたちはなぜそれが禁止されているのか、機会あるごとに、長い期間をかけて考える。それで納得できる時は本心から禁止行為をしないようになるし、禁止が妥当でないと思ったらやっぱり禁止されていてもやってしまうかもしれないし、禁止は不当だと訴えるかもしれない。そういう時にこそじっくり話し合って根本的解決を目指せばよい。
 根本的解決にならない指導を否定したら、幼児期・児童期は混沌に陥るのではないだろうかと懸念する。あらゆる段階で根本的解決を目指す必要は何もないのだ。
 体罰効果の一時性に関連して、アメリカの行動主義心理学者スキナーが罰の効果に関して述べている部分があるので、こちらに掲載します。(訳すのが面倒なので今のところ英語のみです。あしからずご了承下さい)

2.1.11. 「体罰は人に暴力をふるうことを肯定する教育である」に反論
 子どもに体罰を行うと、子どもは「悪いことをする人がいたら殴ってもいいんだ」と考え、暴力を肯定するようになってしまうという意見がある。体罰は、気に入らない相手に暴力をふるうことを肯定する教育である、という批判である。
 では退学は、集団に適応できない人間を排除することを肯定する教育だろうか?年齢によるクラス分けは、人間を年齢によって格付けするのを肯定しているだろうか?死刑制度は、ルールを守らない人間を殺すことを肯定しているだろうか?不登校の子に「無理に学校に来なくてもいいんだよ」と言うことは、嫌なことから目を背けてやりたいことしかやらないことを肯定しているのだろうか?大人がタバコを吸うことは、未成年の時期からタバコを吸うことを肯定しているのだろうか?いじめられている子に病院や警察に行くことを薦めるのは、人生の苦境から苦しみから安易に逃げ出すことを肯定しているのだろうか?
 体罰は人に暴力をふるうことを肯定する教育であるという主張を含めて、これらは全て範化と極論に過ぎない。
 後にも触れるように、体罰が効果的な時と効果的でない時がある。手法や度合いによって反省の度合いも異なる。それらを認識せずに闇雲に体罰を行っていれば、「人が悪いことをしたら殴っていいんだ」などと言う子どもに何も言えなくなるのは当然である。どんな時にどんな体罰をどんな度合いでするのが効果的か、個人が考えるのはもちろんのこと、一定度の社会的な同意を形成することはさらに有用であろう。

2.1.12. 「暴力は暴力しか生まない」に反論 (2001/11/01追加)
 第2時世界大戦においてのアメリカ軍の広島・長崎への原爆投下は、20世紀最大の暴力のひとつと言える。この原爆を含めた米軍の攻撃は日本軍の戦意を失わせ、結果的に敗戦へと導いた。暴力が暴力しか生まないのであれば、史実にあるような敗戦と戦後の復興は理論上有り得ないのである。
 第2時大戦においてアメリカが日本に説得を続けていたら、我々日本人は平和の素晴らしさを理解して戦争をやめ、反省して今日のような平和的国家になったというのであろうか。聞く耳を持たない日本軍に対して呑気に説得が行われる横で、さらに多くの戦闘が行われ、アジアにより多くの血が流れたであろうことは想像に難くない。これは、言葉だけで学級崩壊を解決しようとして膠着状態に陥っている現状にも通じるところがあろう。
 なお、原爆や空襲で日本を極限まで痛めつけた米軍は、戦後一転して復興政策を行った。憎きアメリカの寛大な援助に助けられながら、我々は何十年もかけて考え、平和の意味を理解してきた。もし原爆や空襲だけでその後放って置かれたら、現在のような復興はもちろん、平和の意味を考え理解する余裕もなかったであろうし、アメリカに対する思いも憎しみの方が強かったに違いない。正当な力となるかならないかは、その後のアフターケアにかかっているともいえる。体罰その他の懲戒に関しても、それに付随して穏やかな説諭等適切なケアがとられる必要がある。それによって児童生徒も懲戒を受けた意味をより深く理解することができるであろう。懲戒に際して必要と考えられる配慮については2.6で述べる。

2.1.13. まとめ
「基本的人権に反している」「心に深い傷を残す」「懲戒を実行したからって心が入れ代わるとは限らない」etc.これらは全ての懲戒に共通である。体罰反対論者は体罰の害を他の懲戒の害よりも上位に位置付けるためにいろいろな理論を持ち出すが、主張すればするほど逆に「体罰と他の懲戒は並列関係である」という結論を証明してしまうのである。
 なぜ体罰反対論者は体罰のみに反対するのだろうか。いろいろ原因はあるだろうが、1つは弊害が視覚的に認識しやすいから。1つは「教師の悪事なら何でも体罰と呼んでしまえ」的な回路が出来上がってしまっているから。もう1つは法で禁止されているせいで体罰の方がより危険であるように錯覚しているからだと思われる。体罰反対論者はあれも体罰これも体罰とあらゆる教師の悪事を詰め込んでおいて、「それみろ体罰は悪だ」と言う。そうでもしないと体罰が危険であることを証明できないからである。「体罰が危険である」という仮説は「体罰が違法である」というふうに間接的にしか証明できない。逆に言えば、体罰反対論者は「体罰が危険であるから体罰は違法になった」という仮説を全く証明できていないのである。
 「でも禁止されている以上は法を守るべきである」という問題が残るわけだが、それについては次でまとめて反論する。

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