学校教育における体罰の是非

実物はリンクのURLミスが多いので、やむを得ず複製しました。訂正版ではリンク先は可能な限り訂正し、無理だったものには*マークを付記してあります。
実物は
http://www2.sipeb.aoyama.ac.jp/~helper1/tuesday4/project/d/yoshikawa/index.htmlにあります。

学校教育における体罰は法律で明確に禁止されているにもかかわらず、学校現場や保護者の間で容認するムードが依然根づいている。家庭で子供をしつけるためにしかったりする勇気が無く、学校にしつけを頼もうとする親が多いことや、学校の職場に管理主義体制があることが背景にある。しかし、一方で教育委員会は、体罰をする教師の取り締まりを厳しく行うようになってきた。そのため、近年体罰をしたことによって処分を受ける教師の数が年毎に増えている、という事実がある。こうしたなかで、体罰に対しての受け止め方はさまざまである。

*学校教員の体罰の状況
「学校教員の体罰・わいせつ行為の状況」(http:/village.infoweb.ne.jp/~child/taibatsu.htm)によると、「1996年度中に体罰が理由で懲戒や諭旨免職、訓告などの処分を受けた公立の小・中・高校などの教員は、599人(うち、監督責任206人)と、1977年度の調査開始以来最高だった前年度に比べ、163人、37.4%上回ったことが1997年11月20日、文部省のまとめで分かった。」

*法に定められた「体罰禁止」
体罰に対してさまざまな受け止め方があるが、実際はいくつかの法律によって明確に禁止されている。「体罰に関する法令・通達・判例」(http://www.win.or.jp/~northern/Rightsnow/t-lawsf.htm)にそのいくつかが書かれている。「学校教育法第11条:校長及び教員は、教育上必要があると認められる時は、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」「通達:懲戒の程度:身体に対する侵害、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当する。」 その具体例として、「通達:生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」にいくつか挙げられている。例えば、用便に行かせなかったり、食事時間が過ぎても教室に止めておくことは体罰である。また、授業時間中、怠けたり、騒いだからと行って生徒を教室外に出すことは許されない。盗みの場合などその生徒や証人を尋問することは良いが、自白や供述を強制してはならない。などである。

*人権派の体罰禁止支持
「人権派」はこの体罰禁止を当然支持しているがその理論は時として体罰肯定派を納得させにくいものである。「体罰禁止した後をどうするか」(http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9610/paper/1007/seiron.htm)に「「人権派」の教育論には、その前提として、「教師が子供に手を出すことは絶対に許されないが子供が教師に手を出すことはある程度やむを得ない、それらは彼等の自己主張であり、また彼等は発達の途上にある未熟な人格なのであるから」という暗黙の考えが存在するのではないか、ということである。そんなことはない。教師が体罰を行わず、徹底的に話し合い、子供に「人権教育」を行うことこそが重要であるという返答がはじめから用意されていることは目に見えている。つまり、「天使のような、白紙の子供たちを教師の体罰や管理教育がいじめや非行に追いやるのである」という牧歌的な人間観がその背後にはある。…およそ現在において事例の観察や実験から出発したすべての人間観は、人間存在はそんなに牧歌的なものではないことを示している。人間はその攻撃性や性欲や所有欲動を、その大脳皮質の前頭葉に刷りこまれた文化、つまり躾、教育、倫理、宗教及び刑罰法規とその適用の経験などによって抑制することを学ぶことによって、初めて他者によって耐忍しうる程度の存在になるのである。人間の場合、多種の動物のようには生得の攻撃抑制のしくみが作動しないから、抑制のしくみを後天的に叩き込まれていない青少年は、「野獣のような」という表現さえ、動物に失礼であるような存在になりうるのである。つまり、教室では授業妨害やいじめを繰り返すグループが、制止する教師の前に顔を突き出して、「殴ってみろよ、教育委員会か新聞に言いつけておまえはクビだ」と嘲笑して、教師の膝頭を蹴り上げる−−というような事態さえ生じうるし、現に生じているのである。」

こういった人権派の理論とは逆に、「教師も人間だ。手を挙げてしまうことはある」という考え方をとる人もいる。しかし、それへの反論として、「体罰か暴力か」(*http://www2.odn.ne.jp/~cab71900/a/kyoik/kyoik04.html)にはこうある。「「教師とて人間である。」「理性を失うことがあっても不思議ではない。」「子供のことを思えばこそ、つい手が出てしまうのだ。」という教師を擁護する議論に同意する必要はない。教師は教育の専門家であるべきだ。そしてプロならば、容易に体罰や暴力に訴えるようなことはしないはずだ。教師にも生徒にも痛みが大きい割には効果が上がらない方法だから。」

*どんな規則でも守るべきか?
学校教育において体罰は、生徒が校則を破ったときにしばしば使用される。しかし、この校則の中にはスカート丈や髪型の規定などといったその存在自体が疑問視されるものがある。それらを守らなかったからといって体罰をするのはとても不合理なことである。生徒側としても「何故自分は処罰されなくてはならないのか」理解できないどころか、逆に教師に対して反感を覚える。どんな法であれ、そこに方が存在する限り守ることは大切である、という人もいるがそれでは決して民主主義的な教育はなされないだろう。「体罰の方法」(*http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/corporral.htm)には、「道徳教育の目標は「道徳的自律」である。自己決定権を持つ人間に必要な判断能力を身につけさせることである。この場合「他人に危害を加えない限り自己のものについては自己決定権がある」ということを身につけることが目標となる。ところが「規則には従うべきだ」という目標しか持たない日本の学校で行われている道徳教育は自律を目標としていないという点で方法論的に間違っている。」とある。

*体罰肯定の背景
しかしながら、現場や保護者の間に体罰肯定のムードは依然根づいている。学校での体罰肯定の土壌はどのあたりからできたのだろうか。「体罰肯定の背景」(*http://www.aisnet.ne.jp/~npark/taibatu/heikei.htm)に詳しく書かれている。これによると、学校の体罰肯定に拍車をかけたのが昭和56年の「水戸五中事件」である。中2男子が女性教師に殴打されて死亡した。第1審では体罰は否定され有罪となったが、第2では、「生徒の好ましからざる行状についてたしなめたり、警告したり、叱責したりするときに、単なる身体的接触よりもやや強度の外形的刺激を生徒の身体に与えることが、注意事項のゆるがせにできない重要さを生徒に意識させると共に、教師の生活指導における毅然たる姿勢・考え方ないしは教育的熱意を相手方に感得させることになって、教育上寛容な注意喚起行為ないしは覚醒行為として機能し、効果があることも明らかである。」という判決趣旨、そして「教師の懲戒権の枠内の行為であり違法性は阻却される」として無罪となった。この判決は、学校教育法第11条で体罰は禁止されているが、体罰の中にも「許される体罰」があるという見解を示している。その見解は校内暴力が話題の中、学校にすんなりと浸透していき、「法律でも体罰は認められた」「体罰は熱意」という生徒を管理する手段としての世論形成にこの判決は手伝ったといえるだろう。

*体罰は逆効果
先に述べたように、生徒は体罰を受けたとしても、その訳をしっかりは理解できず釈然としないことが多い。そうなると、教師による体罰は問題解決どころか、実は「力の理論」を生徒に教えているようなものではないだろうか。生徒はやはり最後には暴力が勝つと無意識のうちに信じるようになり、みずからも暴力に走るようになるのである。これが「アメリカでのある調査によると「体罰は逆効果」と出た」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/katakori/b/btaibatu.html)によって証明されている。「時事通信社08月15日09時41('97)の報道によると、アメリカでのある調査では「体罰は逆効果」との結果が出たとのことです。「アメリカのニューハンプシャー大学のマレー・ストラウス教授(社会学)は、6−9歳の子供を持つアメリカの母親807人から聞き取り調査を行った。その結果、過去1週間に体罰を与えた母親は44%で、体罰を多く受けた子供ほど乱暴、うそをつく、いうことを聞かないなど"反社会的行為"が多いことが判明した」とのことです。」

*教師が体罰を与えるのは
しかし、教師側が体罰を与えざるをえない状況に身を置いているということも考慮しなければならない。「子供を体罰から守るために」(*http://www4.justnet.ne.jp/~takagish/opinion/iitai007.htm)は、管理主義の教育現場を批判している。管理主義の下ではとにかく生徒を厳しいぐらいに統制する教師が有能とみなされる傾向にある。民主的な教師に対して、生徒に迎合的な駄目教師、管理能力の無い教師などとマイナスのレッテルを貼りたがる。たいして体罰教師は、厳しさの中に愛情がある教師、生徒ににらみの聞く優秀な教師ということになる。このような状況を改善するためには、保護者が民主的な手法で教育に取り組んでいる教師を評価する雰囲気を作るべきである。実際教師の側からもそうした動きは見られていて、インターネット上でも「すべての教職員のみなさんへのよびかけ」(http://www.yo.rim.or.jp/~kunihiko/subeteno.htm)などのように現場からの改善の動きも見られている。しかし、生徒の立場として体罰を受けたことにより反省をすることができ、その教師の指導に感銘を受けたという人もいる。「体罰」(http://www1.odn.ne.jp/~caa14650/talk2.htm )でも作者が学生時代の体罰経験を振り返り自分にプラスになったと語っている。また、学校では教師は子供の親の代わりとなって躾をするべきでその際の一定限度内の体罰は容認されるべきという見方をとっている。

これまで見てきたように、インターネット上での体罰の是非に関する議論では圧倒的に「体罰反対派」が大勢を占めている。反対派の理論はどれも納得させるものだが、現場ではただの理論に過ぎずやはり理想に過ぎなくなってしまう。体罰禁止を受け入れる基礎となる民主的な職場が必ず必要となる。だから、はじめから「体罰禁止」だけを推し進めるのではなく、その基礎からしっかりと固めていく必要がある。


フレームバージョンになっていない場合はこちらもお試しください。


[PR]人気!男性用ムダ毛撃退ジェル:剛毛お悩み解決!効果を実感してください