![]() |
僕が先生方にインタビューをしようと思い立ち、最初にうかがったのが向井先生でした。ブンブンの生徒さんに紹介していただき、その頃は文京区湯島にあったスタジオにレッスンの後おじゃましました。今でこそナショナルタップデイなどで親しくしていただいてますが、このインタビューをした時は初対面で、見ず知らずの僕に、いろいろ詳しくお話を聞かせてくれました。矢田茂率いるダンヤダダンサーズのメンバーになり、大阪の日劇にあたる北野劇場のダンシングチーム、梅田コマ劇場のミュージカルチーム、今のように大きくなる前の基盤を作ってた頃の劇団四季の踊りの指導を一人でこなし、近藤千恵先生とスタジオブンブンを20年以上守ってこられました。ブンブンの作品を見ると、いつも奇抜なアイディアで、初めて見る人はちょっとビックリします。それは向井先生が、ショーの世界で踊ってこられたので、身体にエンターテイメント精神が染み込んでいるためだということが、お話を聞いているうちにわかってきました。ステップの技術だけを追い求めてしまう僕たちの世代に失われている、立ち姿の美しさや、エレガントな色気、燕尾服を着た時のカッコ良さなど、ちょっとやそっとでは真似できないスタイルがあります。タップダンサーという枠を越えて、ショーダンサーとしての今日までの道のりは、とても興味深いものでした。 |
松本(スタジオに貼ってあるステップの名前が書いてある紙を見て)「あれステップの名前が書き出してあるんですね」
向井「昔教わった基本のステップの名前が書いてあるの。今大阪でやってる仲間の先生が『バカだな。お前コレ盗まれたらどうするんだ。これ財産だぞ。見えるとこ貼るなよ』って言うの。そんなみみっちいことねえ。でも僕が習ったのと今名前が違うものえ。」
松本「日本ではステップの名前あんまり使わないですよね?」
向井「使わない。だって言ったって覚えないよ、ステップのほうで頭いっぱいだから。だから1番2番3番4番っていうとやっと覚えるの。」
松本「それぞれスタジオ独自の番号でステップを認識していることが多いですよねえ。先生が最初に習った青木光先生という方もそうでしか?」
向井「そうね。それで僕がそこのタップの助教師になって初めて『このステップなんて名前だろう?』ってなったわけよ。それで青木先生は僕に教えるもの無くなっちゃったの。それで『お前悪いけど兄弟子が荻窪でスタジオ開いているからそこへ行って、ちょっとミリタリーだとかヒールステップだとか中級から高等のを習ってきてくれよ』って言われて。その先生は園部譲先生って言ってね、駒込かなんかでやってんのね。今は息子さんらしき人が継いでるの。その人は、あんまり表立ってという人じゃないの。ようするにスタジオの教える先生としたらけっこう良い先生だったのよ。アイディアとかステップとか、何か生み出す人だったの。その当時『銀座カンカン娘』が流行ってた頃でね、カンカン娘であんなステップやるのかってね。今考えればなんでもないよ、でも見てて良く見えるんだよね。さすが僕の先生の先輩だけあるわって思ったもんね。」
松本「先生が直接習った先生というのは、最初の青木先生と、その園部先生だけですか?」
向井「それから荻野幸久さんが、ちょうど亀戸にあって、そこへ行ったの。」
松本「荻野先生はどんな方でしたか?」
向井「人間的にはやさしいようで、ワンマンであり....。亀戸行ってね『どれくらいやってたのかね?』『だいたい2年半ぐらいじないかなと思いますけど』『じゃちょっと踏んでみて、テンポはどんなのかなあ?』『じゃあブルース調ぐらいのテンポでお願いします』って言ったら先生がピアノ弾くの。まあコードだけだろうけどね。こっちもレッスン振りみたいなもんだけどやって、なんか1分ぐらい踊らされたかなあ。『うん、いいよ。うち遊び来てればいい。月謝いらんよ』『あっそうですか。すみません』って月謝なしで半年ぐらい通ったかなあ。その後に矢田グループへ入っちゃったの」
松本「ダンサーとしては魅力ありましたか?」
向井「うん、その当時はね。だだしスタイルとしたら短足のくちだったよね。(笑)面長の顔で『俺は二枚目だ』という踊り手だった。まあオーバーだろうけど日本のアステアの線をねらってたわけよ。たとえば舞台の上に自動車引っぱりだして屋根の上でタップ踏んだりとか、それからまっ暗にしてね、火花を出すタップがあるのよ。タップマットの上に電極を引いて、その上に乗るとパチッとなるわけ。音と光りが同時にでるの。スゴイなっと思ったもんね。僕も一本立ちしてから真似しようとしたんだけどね、『やめろそれは、感電するから』って言われて、それらしくやったの。そこに立ったらライトが付くようにしたの。赤だ黄色だブルーだって。で踏んで明かりがつくだけって、なんか感動がないの。ちゃんと照明屋さんと相談したんだけど、火花はやめとけよってね。感電するわけないのに、やってる人がいるんだからさ。」
松本「それは何処でやったんですか?」
向井「メトロで。一本立ちしてからね。北野に入る前かな。ほんの半年か一年呼ばれて。もう大々的に宣伝されてさ。なんか話題になるものをといろんなことをやったのよ。十字架のところに張り付けられて、支えのしぎはずして、床スレスレまで倒れるようにして、ハッって感じでサッと暗転したらそこからパッと抜け出して悪魔の踊りやったのを覚えてるよ」
松本「向井好一は芸名なんですよね?何でですか?」
向井「生まれが向井町だから。で本名が田辺義一郎でしょ。固いじゃない。義をヨシと読めるでしょ。好むでもいいし。で一郎の一だけとって好一にしてさ。で向井好一って紙に書いて紙だなに置いてね。他のとあわせて3っつぐらい置いてさ。翌日になったら向井好一だけ残って、あと倒れてた。一枚だけ残ってたの。じゃこれにしちゃおうって。」
松本「先生は生まれは東京ですか?」
向井「川崎。おやじはその当時自転車屋。ただし今でいうアルバイトかな?琵琶をやってたの。琵琶の名前も持っていて人にも教えてたらしいのね。その当時NHKから車でもって迎えがきたっていうんだ、出演する為に。だから(芸人に)なるんだったらそこまでなれよって、ただし食えないから男だったらやめなさいって言うんだ。こっちもやるんだったらとことんやりたいって気持ちがあるじゃない。そしたら『お前は勘当だ』って、いちおう勘当されたの。ちょうどその時、矢田茂が『大阪来ないか?』って。『お願いしま〜す!』ってすっとんでいっちゃった。」
![]() |
|
|
松本「そこで食べれたわけですね、いちおうは?」
向井「食べれないよ。だってあの当時でサラリーマンが八千円ぐらいの給料の時に三千円ぐらいだもん。食事とか住まいは全部あっちだけど、いちおうこずかいとして三千円なのよ。その時に舞台シューズが二千七百円だもの。靴下買うのにも八十円均一でしょ。パンツ八十円、ランニング八十円でしょ。だからほんとに食えないよね。だから変な話たかり専門よ。先輩に『お風呂行きませんか?』って。先輩だから出してくれるじゃない。そして背中流すわけ。」
松本「そのダン矢田ダンサーズにはどれぐらいいたんですか?」
向井「2年半ぐらいかな。そこで足折っちゃってさ。トウシューズ履いてて、、、」
松本「???」
向井「甲出すためにさ。それでトウシューズ履いててさ。その当時大きいトウシューズなんかないじゃん。もう女物しかないから、かかとはみ出てるわけよ。それを強引に結わいてさ。それで昔の床はワックスで掃除するわけよ。クラブだからさ薄暗いじゃない。で左のピケターンをやってたわけ。何回目か知らないけどキュッとすべった。足が真横になっちゃったの。痛いと言うよりしびれちゃってんの。そのまんま骨接ぎさんへいってレントゲンとったらね、ちょうど竹を割ったような感じだった。『ちょっと我慢しろよ』って言われてギュ〜ともどしてギブスしてそれだけよ。それで『もう2度と踊れませんよ』って言われたんでさ、半分あきらめ、半分リハビリ、自分で。家の斜前にお風呂屋があったんで開店前に行って、そこでリハビリしてた。柔軟からバーレッスンまで。」
松本「その間は何をしてたんですか?」
向井「なんにもできないもん。ようするに本当に食わせてもらってたの。そのあと一回戻ったんだなあ、矢田茂のところに。帝劇に出たとき日活ファミリークラブというのがあって、そこへ半年ぐらい出たかな?その後、先輩と組んで地方まわり、キャバレー周りをしたの。グループの名前?忘れた。7人で、」
![]() |
|
|
松本「先生は俗にいう進駐軍キャンプ回りというのはやらなかったんですか?」
向井「やったよ、その当時。将校クラブだけまだあって。ダンスあり手品あり歌があってというようなショーなわけ。ダンスの場合2ケ所3ケ所かけもちで、それでいくらって決まるわけ。その時僕がいくらだったかなあ?4万円ぐらいだったのかな、1ヶ月。だけどその値段がこっちに通らない。マネージャーの方にいってるからわからない。こっちは仕事が毎日あったほうがいいわけだから。僕ら最高クリスマスで10ステージやったもの。10ステ−ジで10万ぐらいもらってるわけなのに。だけど月給制だから『ハイ、お手当』てさ。だから後で考えたら、わあマネージャー稼いだんだなってね。それだからチームがばらばらになっちゃった。たぶんチームとして1年やってないんじゃないかなあ。ある時このチームで北海道の千歳にある進駐軍のキャンプへ一日の仕事で行ったの。東京から来たっていうんで向こうのプロダクションが見に来たわけ。終わったらうちに出てくれないかって話しが来た。狸小路のなんとかって言うダンスホールだけど、そこに出たわけ。それが評判よくて一週間やってくれって。一週間やったら、そしたら『次は何処へ行ってくれ』『あっち行ってくれ』って。3ヶ月。一日のつもりが3ヶ月。それがあるところで『男はダメだ!』って言うんだよ。それで途中でメンバーの一人が女の子二人つれて旭川のほうへいっちゃった。残ったぼくらは四人かな。こっちとしたらプライド傷つけられたし『まず踊りを見てくれ!』って強引にやらせてもらったの。するとホステスたちが集まってきちゃうの、男性が出ると。お客さんほっぽり出して。お酒は売れない、ホステスは騒いじゃうわ、だから男性は出て欲しくないってね。だからマネージャーとしてしばらくやってたよ。本当のマネージャーは旭川に行っちゃったじゃない。」
松本「進駐軍のお客さんは良かったですか?」
向井「いいね!人を踊らすことがうまいの。たとえ下手でも『アンコール、アンコール』でしょ。だからもう一生懸命だよね、うけてると思っちゃうから。食い物はいいしさ。『ここが控え室です』って行くとテーブルの上に食べ物が山になってるんだもの。その当時チーズなんてないじゃない。チーズ食い放題だし、バナナ、その当時高かったもんねえ。いっくら食べてもいいっていうんだもん。ハムでもハムステーキってなやつで分厚いやつでしょ。だかわ終わったらみんなポッケに入れて帰るんだよね。見つかった場合『もっと持ってけ!』って感じだもん。」
松本「この頃チーム作って自分達で振付して、衣装作って、音はどうゆうふうにしてたんですか?」
向井「全部譜面。今は少なくても1曲10万ぐらい取られるけど、あの当時で1曲1万だもん、9ピースで。」
松本「そのチームの解散後は?」
向井「そのあと仲間がヌード劇場に出てたの、新宿セントラル劇場。『紹介するけど次の公演でない?頼まれてるんだけど』。話しのタネにヌード劇場もいいだろうって、それで出たわけよ。いちおうゲストだもんね。組んだ相手が僕と同じぐらいの、ヒール履いたら僕より大きいんだよね。でリフトがあるんだよ。痛い足の方に全部くるんだよね。それでさ、小人のマーちゃんというのがいたの。それとヌードさんと3人でコミックがあったの。それが新聞ダネになっちゃた。評判になっちゃたの。すぐに五反田のヌード劇場から『うちにも出てくれ!』って、それで五反田行って。そのあとにね蒲田ミュージックホール行って、そのあと川崎のセントラル劇場。だからヌード劇場まわってんの。その時川崎セントラルで寅さん(渥美清)が副座長やってたの。南利明、ハ波むとしが蒲田にいたの。その時に初めて芝居をやったの。ハ波ちゃんがケンカして顔あざだらけで出られないからって。はじめてヌード劇場のコントにでたわけ。それからね、名古屋に呼ばれたんだ。ミカドの前身であるスイングスター。メトロから比べたら3分の1ぐらいだったけど、いちおう舞台があるダンスホールで。そこでバレエの近藤玲子先生に舞台を見られて、OSミュージックホールの出演の話しがきて、大阪のね。それで大阪にいって、それが主役なのよ。牡丹灯籠の亡霊にみそめられちゃう役で。」
![]() |
![]() |
|
|
|
向井「そしたら隣が北野劇場があったの。そこの支配人が僕の舞台をみてうちへ来ないかって。それで北野ダンシングチームへ入ったの。そこで春のおどり、夏のおどり、秋のおどりって三大おどりやってるの。日劇と同じなの。作品によっては日劇の作品がそのままくるの。同じ東宝系だから。振付師もいっしょでしょ。その時日劇で羽鳥雅一(人気のあった日劇のダンサー)の役が僕のところにくるの。ハッキリいってズボンの長さがコレぐらいちがうの(向井先生のが長い)」
松本「衣装も使い回しなんですね?」
向井「そうなのよ!だいたい体系がいっしょだからって、そのまま衣装がくるの。」
松本「この頃北野劇場ではあまりタップやってなかったんですか?」
向井「その当時、年に2回か3回かなあ。それも今宝塚で教えている宅原浩一と僕と、それから今はもう辞めちゃったけど佐々木和夫って言ったかなあ?その3人がタップトリオっていってたの。タップっていったら、その3人しかやらないの。とにかく北野劇場で踊ってたことが、今プラスになってるわけ。日本物もやればスパニッシュもやるし、何でもやらされちゃったからね。それで北野劇場やっている間に梅田コマ劇場ができたの。同じ東宝系だからコマが出来た2年目ぐらいに合併しちゃったの。それで北野劇場つぶしちゃった、古いから。ほんとうは僕らのほうが2、3年後にコマに入ったんだけど、コマミュージカルチームの1期成になっちゃたの。そしてその後に新宿コマができるわけ。たまに合同公演があるの。梅田と新宿のね。こっちの連中全部行っちゃうのよ。僕残されちゃうのよ。なんで?ってね。そしたら芝居で使われたり、歌舞伎で使われたりね。」
![]() |
![]() |
|
|
|
![]() |
![]() |
|
|
|
松本「梅田コマの後は?」
向井「女房のおふくろがデモに巻き込まれて腰を痛めて動けなくなっちゃってね。それでうちの女房が大阪から面倒見るために東京帰っちゃって、2年ぐらい別居生活してたの。そのうちに娘が学校行くようになったら男親がいないとなんだから、それで戻ってこいって呼ばれちゃったの。そしたら女房のおやじがさ日本テレビの顧問の人知ってるっていうんで「俺が話してやるから。そしたら仕事なんかスッとくれるから」って。顧問なんて絶対ダメ。紹介はしてもらったよ。その顧問、つまり演出家ね、その人が元矢田ダンサーズにいたの。僕の入っていた時じゃないんだよね。前らしいの。それがもう味噌クソなのよ。しかも大阪人だっていう頭があるでしょ。」
松本「大阪人差別があったんですか?」
向井「あったの。『大阪の向井はこっち(東京)では通用しないんだ』ってね。それで『あんた兵隊もってるか?』て。兵隊って言われてちょっとピンとこなかったのね。ようするに自分達のチームはあるかって言うんだよ。作品を見せてくれって。一人で帰ってきたものあるわけないじゃない。だから『なんでもいいから、お金もいらないから、振付なり出演させてくれれば、自分の技術というものをみてもらえるから!』って言ったんだけれども、もう大阪をものすごく嫌ってるの。その当時ダンスのレベルは大阪のが上だったの。東京人がぜんぶ大阪にいって見て戻ってきてるんだから。だからものすごく敵対心もってたの、東京人は。それでしょうがない、仕事はないしさ。それで2ヶ月ぐらい遊んでたかな?そしたら山田卓が『遊んでるんだったら手伝ってよ』って、それが劇団四季なわけ。それで手伝ってたら演出している宮島晴彦というひとが『向井さん四季にはいらないかなあ』って。まだその当時ミュージカルなんてやってないけど『いずれそうなるから、今からでも教えてくれないかなあ?』てね。『それじゃよろしくお願いします』っていったら返事がなかなかこない。そしたらあそこはね、役者がぜんぶ株主なの。浅利慶太が劇団総会を開くわけ。上の連中、役者だとかがいて、『実はこういう話なんだけど、教師として呼んでいいか?』で話し合って、それで呼ばれた。レッスンやりながら舞台のほうもやって、それで十年ぐらいたったら『お前もけっこうの歳になったから研究所の副所長でもやらないか?』って。『なんでもやらせてもらいます』てね。ところが舞台の振付したり助手やったり、ようするに舞台関係やってたら机もらったって座る暇がないもの。着替えたら稽古場行ってさ、終わった、めし食った、はい公演の稽古だもん。寄れないもの。半年でクビになっちゃた。その時僕は課長待遇、研究所副所長だったの。そして教師であり演出部所属だったの。その時教えてるのは僕と、石井せつ子さんというモダンダンスの先生の二人だけだったの。それで石井せつ子さんがお腹大きくなっちゃって僕一人だもんねえ。半年ぐらい僕一人でもって全員のレッスンなの。僕は研究所の3期生から教えてるの。演出部、つまり裏方も全部レッスンするの。音響から舞台監督まで。なぜかって言ったら、裏方が装置の後ろについて音楽に合わせて移動する。8小節の間にここまで行くとか、それにはやっぱりレッスンしなくちゃいけないってね。」
松本「先生はいつ頃からタップを教えはじめたんですか?」
向井「なにしろね、四季を20年間休みなくずっとやっててね。いちおう研究所の所長にも言ったの『ミュージカルやるにはタップがね、今からレッスンしておいた方が良いから』って。『うん浅利さんに言っとくよ』全然ダメ、返事がないの。通ってないのよ。一人で全員レッスンしてて、ジャズばっかりじゃ疲れちゃうから『じゃあ今日のレッスンはタップでもやろうか?かならず勉強になるから、タップの基本だけでもやろう』って勝手にやたのが10期生から。そうするとね、上の連中が『最近なんかタップやってるみたいだけど、いやがる人がいるから....』どうのこうのって。とにかくずっと一人だけでもってレッスン全部受け持って、とうとう身体まいっちゃってさ、ギックリ腰になっちゃったの。それでもレッスン休まなかったもんね。もう座ってても教えてたもの。それでさ『浅利さん、自分のことばっか言うわけじゃないんだけど、ジャズでも何でも基本はクラシックなんで、僕はクラシックもやったけれども、本式には人に教える程自信はないから、クラシックの先生を呼んでね、基本をみっちりやった方が良いと思うんだけど』て言ったの。それでクラシックの先生を呼んだの。そしたらだんだんしっかりしてくるじゃない。そしたら反対にこんどはクラシックに力を入れ初めたの。そしてコーラスラインやなんかで外人を呼ぶって言うのね。呼んだらクラシックの先生、ジャズの先生、モダンの先生、タップの先生、歌と演劇、全部呼んじゃったらさ、金かかるでしょ。『向井さん、悪いけど休んでくれる?』って2年ぐらい休まされた。勝手なのよ、ハッキリ言って。それで2年ぐらいしてから浅利さんからまた電話がきたの。『実はね、リフトが全然ダメなんだよね、力ばかしでやってて、けが人は出るし。で古い連中に聞いたら、基本的なリフトは向井先生から教わったってこと聞いたんでね、悪いけどまた教えてくれないかなあ?』『いいですよ』ってさ。それで(近藤)千恵さんをつれて二人でいったの。二人で行ったってさ、もらうのは一人分だよね。アダジオするのに一人じゃできないもの。向こうはうちの生徒を使えばいいじゃないっていう頭があるじゃない。タイミングだからさ、身体痛めちゃうもの、こっちがさ。だから金銭的なことは2の次ぎの問題にして、千恵さんに手伝ってもらったの。そうすると生徒がいやがるのよ。シンドいもの。しかも男が少なくて、男性一人に対して女性が二人くらい付くでしょ。倍やらなきゃならないの。翌日もう足腰痛くてさ。ウォーキングが終わって、ちょっと踊りも終わった『ハイ、じゃリフト稽古しようか!』男性が誰もいなくなっちゃうの。それでリフトの稽古なくなっちゃうじゃない。そうすると上から文句言ってくるの。『こっちがやる気があったて、肝心な習う方の生徒がいなくなっちゃうんですよ』『言います』って言われた時にはまた増えるんだよね。でもまたスーといなくなる。そしたらリフトを教えてないっていうんでまたほされちゃったの。辞めてくれじゃないのよ。休んでくださいなの。でそのまんまだよ。だからいいクビだよね。それで千石でスタジオ持って、4〜5年やったかなあ。それからブンブンに来たの。ハッキリ言って営業面のためにタップを教えはじめたってって感じね。カルチャーなんか頼まれたり、よみうりのカルチャー、北千住の。ジャズで入ったけれども、スタジオが空いてるんで、ここでタップでもやってみようかなあって。タップなんかこんな下町じゃあつまらないよって言うの。やらせてみてください。ほんとはジャズよりタップのが疲れるし、技術的にもホントはレッスン料高いのよ。だけどジャズよりも安くやったの。こっちが頼みこんだから。ジャズが2クラスで5〜60人集まってたの。その時タップが15人ぐらいだもん。それがジャズダンスが下火になっちゃったら1レッスンめ20人、2レッスンめ3人なんてことになっちゃって。それで完全にタップっていう時間を作って。それじゃ子供狙ってみようって、作ったらあまり減りもせず、15〜6人でやってるけどね。だからジャズダンスが下火になってもタップのほうで維持してるからさ。そしたらまたジャズダンスのほうがまた戻ってきたからね。だからスタジオとしては、うちはつぶれてないの。」
松本「ブンブンの舞台はバラエティに富んでて、発想が奇抜ですよね?」
向井「うちの系統としたら、たとえ発表会であろうとお客さんに何か残るものをと。この間なんか『弁慶と牛若丸』だもの。ハッキリ言ってやらないよね、ジャズダンスの中でさ。踊りの中のコミックなんて範囲がせまいのね。やりすぎちゃうと馬鹿らしくなるしね。中途半端だと面白くないしさ。だからこっちはもう馬鹿になりきってさ。歌って踊ってたち回りして、いちおうショーミュージカル風にね。」
松本「先生は出たんですか?」
向井「弁慶で出てたの。化粧しちゃうと、できないこともできるんだよね。そんなにタップも踏んでないのに、出る前に足つっちゃってね。よわったな、これ舞台で動けなかったらどうしようって思ってたら両方の足つっちゃってさ。で出ちゃったら忘れちゃってさ。神経的にやられるの、いつも僕は。舞台人でもそういう人いるよ。亡くなった越路吹雪さんなんて『ちょっと手握らせて』って側にいる人の手握るのね。震えてるんだよ。あんだけの有名人が出る前にああなんだなあってね。そうじゃない人もいるよ。高島忠夫でしょ、それからね丸山明宏(今の美輪明宏)それから宝田明、あの連中は出る真際まで『ちょっと向井ちゃん、ほらほら、あそこでキスしてるよ。』客席を見ながらさ。客席の中にはオカマがいて後ろからおしりなでたりしてるの見えるわけじゃない。『向井ちゃん、見て見て。ほらやってる!』『ほんとだ』なんてね。そんでもって出番になると『アア〜〜〜』って歌って出て行くんだからね。」
松本「先生はタップダンサーというより、もっと広い意味でダンサーなんでしょうね。」
向井「気分はそうだろうね。」
松本「それとも芸人でしょうかね?」
向井「芸人まで徹しきれないんじゃないかな?僕は運もいいんだよね。オーディションも全然受けずに全部むこうから求められて出てるでしょ。」
松本「僕は昔のすてきなナイトクラブで踊ったことがあるということがすごく羨ましいですよ」
向井「普通ダンスホールで踊ってたって言うと暗いイメージがあるじゃない。ところがこのメトロの場合はプライドがあったの。ここで公演したらさ、東京から汽車賃使って重役連中が見に来るんだもん。重役から振付師から、東宝、松竹、宝塚のおえらが方も全部見に来るんだ。わざわざココヘ。『今日は菊田先生みえてるよ』とかさ『新派の大矢さんが来てるよ』とかね。その大御所の大矢さんに終わってから客席に呼ばれて「あんた背中の演技してるから、それ大事にしなさい」ってほめられたのが初めてなの。自分じゃ全然わからなかったけどね。コマ当時も上の方だったからいい思いはしてるよね。僕らはしなかったけど東宝系は先輩後輩が厳しいの。僕と松原貞夫らと4人ぐらいで一部屋もらってるわけよ。その下が6人ぐらいで一部屋もらうの。ちょっと奥いって8号室っていってたんだけどね、研究生が大部屋にいるわけ。その連中が「ちょっと4号室まで来て」て言われるともうビビっちゃってた。」
松本「よくダンサーの給料は安いっていいますけどコマの頃はどうでしたか?」
向井「あの当時ね、北野劇場に入ったのが、2万1千円。一日700円。サラリーマンが1万8千円。だからちょっと上よ。だけど休みないもの。ボーナスはないし。年間にしたらサラリーマンのがいいの。僕らの場合は舞台休んだら基本給だけ。月給が2万1千円だからその3分の1が基本給なの。その3文の1はくれるのよ。その3文の2が出演料なの。僕はそういうことなかったね。かならず舞台立たされてた。他の連中は、こんどの公演はちょっと芝居がかってて踊りが少ないっていうと、休まされちゃうの。10日ないし15日休んで、次ぎの稽古に入ってやっと稽古手当がプラスされるわけ。外部出演するとまたプラスされるの。僕がコマの一期生で2万1千円なら、2期生になると1万8千円になるの。その下は1万5千円、1万2千円に下がっていく。」
松本「先生はどういう踊りが一番好きですか?」
向井「スロー物のがいいね、僕は。ただチャカチャカ踊るんじゃなく、なんか内面的なものをだす踊りのが、踊り甲斐があるね。」
松本「近藤千恵先生のブンブンで教えはじめてからもうどれぐらいになるんですか?」
向井「もう15年ぐらいかなあ。振付し始めた頃はね、音楽聞きながらイメージで振りが出てくるじゃない。帳面に書くわけよ。寝る時まで頭からはなれないわけ。翌日になるとポヤ〜としてんの。で行くじゃない。寸法が合わない。自分の振りが受け入れてくれない。そうするとどんどん狂ってくるの。思うようにできないの。無理強いすると、出来た作品になんか無理があるんだよね。それからもう考えないことにしたの。レッスン曲でもそうよ。『じゃ次進もうか』って、それから音聞いて、パッと作る。だから翌日振り忘れるの。だから一番困るのがあそこで今裁縫している先生なの(近藤千恵先生のこと)。昨日はこういう振りでしたでしょって。」
松本「曲選びとかも大変じゃないですか?」
向井「曲選びが一番大変。しかも公演っていったら2時間もんでしょ。レッスン曲も使うけどね。それにしたって、この辺で息抜きの音楽使おうかなあ。で振りがあんまり息抜きでもしょうがないし。じゃこの辺で飽きないように日本物にしようかなってね。今回はスパニッシュにしようかなあとか。そんでストーリー物をやったのが、間違いの元で、今度はストーリー物をやらないとお客さん納得しなくなっちゃたの。踊りだけだと「今回はなんか重みがなかったわ」とかね。.......あっもう12時だよ。時間大丈夫?」
松本「終電なくなっちゃうわ。遅くまでありがとうございました。」
1995年8月10日 湯島のスタジオブンブンで。
|
|
|
|
|
矢田茂がリーダーのダンスグループ。主に昭和30年代に活躍。日劇や大きなナイトクラブなどに出演。 |
|
|
1950年12月に大阪ミナミにオープンしたグランドキャバレー。大きなダンスフロアがあり一流のショーがおこなわれていた。わざわざ東京からダンス関係者が観に来るほどだったらしい。 |
|
|
大阪梅田にあったヌード劇場。東京には日劇の5階に日劇ミュージックホールがあった。卑猥な温泉のストリップ小屋とは違い、トップレスのダンサーがいる大人のレビューを上演していた。 |
|
|
大阪の日劇ともいえる劇場。独自のダンシングチームを持ち、レビューや、歌謡ショーを上演していた。のちに梅田コマ劇場ができ北野劇場は取り壊された。 |
![]() |
|
|