昭和39年2月26日、東京都北区駒込の片桐産婦人科で、産声を上げたことは自分では覚えてない。父、松本光弘、母、明美。父は駆け出しの芸人、母はモダンバレエの先生。二人は日本大学芸術学部演劇学科で知り合う。そんな人前に出る事に慣れてる親に反して、家で電車のおもちゃで遊んでるほうが好きだった。やがて父は「ほんじゃまあの帽子」という芸で人気が出てきて、早野凡平という芸名が世間に知れ渡る。そうすると突然「芸能人の息子」という役が自分に課せられる。何度となく週刊誌のグラビアなどに「絵に書いたような幸せ家族」を演じさせられる。母がモダンバレエの先生の為いつも稽古場で遊んでいた。生徒だったお姉さん達に囲まれて育ったので子供の時からレオタード姿には免疫ができた。その頃はカセットテープはまだ無くポータブルレコードプレイヤーを使っていた。レコードを変えるのは僕の仕事だった。母は大きな幼稚園のホールで教えていた。そこには学芸会用の舞台があって、紐を引っ張ると開閉する幕があった。それを開け閉めするのが好きで、劇場などに行くと緞帳が開いたり閉ったりするのを見るのが大好きな緞帳つうになっていた。そんな僕にお父さんは木で小さな劇場の模型を作ってくれた。それに自分の好きなタオルや布を垂らして緞帳開け閉めゴッコを堪能していた。やがてボール紙などでセットを作ったりして、舞台装置に興味を持つようになる。(踊りは女々しいイメージがあり、自分がやりたいとはまだ思っていなかった。)
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緞帳、装置オタクの息子に、お母さんは新宿コマ劇場の話をした。そこには3段になるまわり舞台があって、赤い半円型の絞り緞帳がある事を教えてくれた。僕はその劇場が見たくて、何でもいいから連れていってくれとたのんだ。その時ちょうど上演していたのが宝塚歌劇だった。これがマズかった。ハマったのだ。コマ劇場の舞台機構を見れた喜びと共に、レビューという豪華な装置と衣装と踊りがみれる舞台芸術に出会ってしまったのだ。稽古場で育った僕は、この宝塚のケバイお姉さん達になんの抵抗感もなかった。小学6年で僕は日劇、SKDも鑑賞する一人前のレビュー少年になってしまった。12歳の誕生日の時一人で新幹線に乗って兵庫まで宝塚を見に行ったこともある。学校で趣味の合う友だちはいなかった。(なぜか僕のまわりの女子にもズカファンはいなかったなあ。)中学に入っても、お父さんが作ってくれた劇場模型で遊んでいた。グレードアップして豆電球の照明がついて、大階段などの装置を沢山作って、宝塚の実況録音盤のレコードに合わせて場面転換を楽しんでいた。映画館で「ザッツエンターテイメント」を見て以来、古いミュージカル熱も同時進行していた。高校に入学した頃、レビュー熱も少し冷めてきて、思春期らしき事もいちおう一通り済ましておく。この頃、おじいちゃんがクレデンザという蓄音機の最高級品を買う。それを聞いて、蓄音機が欲しくなり、入学祝いに卓上型のを買ってもらった。それからSPレコードコレクション熱に火が付く。ジャズから流行歌まで昼飯代を削ってまでレコードを買った。これによっていろんな古い曲を覚えた事は今役立っている。高校時代も趣味の合う友だちはいなかった。高3になり進路を決めなくてはならなくなり、なんとなく舞台関係かなと思い一浪して日大芸術学部映画学科演技コースへ入学。そこでミュージカル研究会へ入る。これはお母さんたちが作ったクラブで、20数年後に息子が入った事になる。学科のほうよりクラブ活動に熱中して、結局3年目に中退しました。
日大を中退した後、しばらく中古レコード屋でアルバイトをしていた。貯まったお金でアメリカへ行き、1年ぐらいスタンリーカーン氏にレッスンを受けていたのもこの頃です。そして帰国してまたお金貯めて、今度は留学しようとしました。とりあえず語学学校に入って勉強していました。そんな時お母さんから電話があり、「お父さんがガンであと2が月の命だ」という事でした。帰国して2ヶ月でほんとにお父さんは他界してしまいました。さてとりあえず日本にいなくてはと思い、仕事さがし。僕のやりたい事が何処にもない。僕がやりたいのは芝居じゃない。ミュージカルじゃない。レビューであった。しかし宝塚は女性だけ、日劇は解散状態。男でレビューをやってるところはなかった。そんな僕の望みに一番近いところが東京ディズニーランドだったんです。ここではタップを活かすことはできませんでしたがショーができました。パレードとステージで毎日ゲストと接して、エンターテイメントがどういうものであるかを多く学ばせてもらいました。そして素晴らしい仲間と出会いました。僕はディズニーに入った後から自分の人生を楽しみ始めたと思っています。ハンドクラップにつながったのも、穴田氏に出会ったのも、好きな人ができたのもこの夢と魔法の王国のおかげでした。
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