日本郵船株式会社(NYK)
1,勃興期
幕末、土佐藩は外国から武器弾薬を購入する為に土佐開成館を設置し後藤象二郎に
認められ長崎次いで大阪留守居役になったのが岩崎弥太郎でした。
彼は明治3年土佐藩の藩船3隻で廻漕業を始め、明治4年の廃藩置県により独立して九
十九商会を経営する事になりました。明治6年に三菱商会と改名し、明治7年に東京日本
橋に本拠を移し三菱蒸気船会社と改称しました。所有船11隻と、三菱商会が炭鉱、銅山、
樟脳、生糸事業を保有していました。
明治7年英米船社と郵便蒸気船会社が断った台湾出兵を全社を挙げて協力し大蔵卿
大隈重信、内務卿大久保利通の信用を得て、明治8年大久保は海運業を政府の保護・
管轄下で保護・育成する事を主張し、東京丸など13隻を三菱に無償で下付して郵便蒸気
船会社を解散させて持ち船18隻を三菱に交付し、運航助成金として毎年25万円を支給す
る事を決めました。明治8年政府の依頼によりPM(pacificMaileLine)社独占の横浜ー上
海定期航路に参入し9ヵ月後PM社から81万ドルで航路を買い取りPM社は日本沿岸か
ら撤退しました。ところが、明治9年P&O(Penisular&orientalSteam)社が上海航路に参
入。弥太郎は荷為替金融を考え出し6ヵ月後に撤退させる事に成功しました。明治10年に
西南戦争が勃発し、半年に44隻を投入し300万の御用船収入を得て三菱の海運事業は
最盛期を迎えました。
明治15年政府は有事に商船から直ちに軍艦になる汽船を整備すると言う理由で半官半
民の「共同運輸会社」を設立しました。民間協力者には三井物産社長益田孝、大倉商事社
長大倉喜三郎、川崎造船社長川崎正蔵、第一銀行頭取渋沢栄一らが名を連ね、明治16年
から営業を開始した。明治17年には三菱の主要航路に重複して開設し、汽船24隻、帆船1
5隻となり三菱との激しい競争が展開されました。明治18年1月西郷従道農商務卿は両社に
対して競争停止を命じ、その直後に岩崎弥太郎が急死し、跡を継いだ弥之助は合併を決断し、
共同運輸の社長に森岡昌純が就任しあまりの経営内容の酷さに驚き合併を主張し資本金三
菱500万・共同600万計1,100万の日本郵船会社創立規約を政府に提出し、明治18年9
月に認可され運航船舶58隻(68,000トン)の日本最大の海運会社日本郵船会社が発足
しました。三菱は海運関係の資産を全て新会社に譲渡し515人が移籍しました。
2,発展期
社内取り纏め役として中心になったのが慶応義塾を卒業し岩崎弥太郎にスカウトされた吉川
泰次郎でした。明治26年7月に商法会社編の施工にあたってモデル会社の指定を受けて10
月14日に伊藤博文邸で伊藤自ら議長を務めて新定款の審議が行われ、12月に日本郵船株式
会社と改名しました。明治27年森岡社長が退任し、社長となるも急死し、明治28年11月近藤
廉平が3代目社長に就任しました。
日本近海の航路は固めた物の遠洋航路には手も足も出ず、日本の貿易貨物積載率は明治
26年の段階で日本船8%、英国船57%、仏船13%、独逸船14%、米国船6%でした。船会
社の指定権は外国商館にあるので日本船が割り込むのは厳しかったようです。
明治24年印度人の豪商タタ商会のR.D.タタが来日しP&O社の運賃が非常に高く、是非日本
の船会社に綿花輸出の為に航路を解説して欲しいと要望、明治26年にはJ.G.Nタタ代表が来日
し渋沢、森岡の3者会談によってP&O、オーストリアロイド、イタリア郵船の三社同盟の独占を打
破する為に日印共同で航路を開設する事に合意し、8月に大阪商工会議所で鐘ヶ淵紡績社長
朝吹英次以下紡績会社代表が印綿運送契約が調印されタタ商会が傭船2隻、郵船が2隻で3週
1回の定期航路が明治26年11月広島丸が神戸港を出港し香港、シンガポール経由ボンベイ行
きの初の遠洋航路が開設されました。両者は値下げ競争を開始し、渋沢が紡績会社取りまとめ、
2年後に英国政府が斡旋に乗り出し郵船が同盟に加わることで決着しました。明治26年から印
度との貿易量は5年間で4倍に伸び、日本の紡績業が急成長をしたのがわかります。
明治27年6月陸軍参謀次長川上操六中将から呼び出しがあり副社長の近藤が出頭すると「1
週間以内に10隻を宇品に集めて貸してもらいたい」と朝鮮出兵の要請をした。5日間で山城丸以
下10隻を宇品に終結させ8月に清国に宣戦布告され、船はほとんど徴用されてしまい急遽9隻を
自前で購入し、14隻を政府が購入し郵船に運行させました。明治28年4月北洋出師の降伏によ
り海上戦闘は終結しました。郵船は374万円の戦時利得金を得て、船腹量は68隻13万5千トン
に増加しました。日清戦争の教訓を下に明治28年末に「航海奨励法」「造船奨励法」「特定航路助
成法」が提出され明治29年3月に公布、10月に施工されました。明治31年に英国の技術指導の
下で常陸丸が進水し、明治32年3月に船舶法が定められ外国船に国内廻漕荷物の積み込みが
禁止され積載比率は明治27年は10%、明治33年は31%となり大正になって57%となりました。
明治海運会最大の出来事は明治29年の欧米豪3大航路同時開設を郵船が行った事でしょう。
定期航路開設には大型高速な船を何隻も揃えなければいけません。5千トン、14ノット以上の
大型高速船を欧州航路は往復180日かかるので月2便で12隻,米国航路は往復88日かかるの
で3隻、豪州航路もほぼ同じとすると1隻80万として合計18隻で1,400万の投資が必要になります。
さらに船の運航を維持し、客と荷物を集める為に世界中に拠点を設置しなければならず、明治29
年6月に2,200万円に増資をする等して資金を捻出しました。
3月15日横浜から土佐丸が出港し神戸、下関、香港、コロンボ、ボンベイ、ポートサイド、ロンドン、
アントワープ航路が開設され明治29年5月22日日本船として始めてロンドンに入港しました。ロンド
ンでは揚荷だけで、アントワープで欧州の荷物を積み込みそのまま帰航すると言う方式で定期同盟
は一切文句をつけられず、明治30年にはミドルスブローとサザンプトン寄港が認められ、明治32年
欧州往航同盟に加入しロンドンでの積荷権を獲得し、明治35年には上海に寄港して欧州復航同盟
にも加入が認められました。
8月1日神戸港から三池丸が横浜、ホノルル経由シアトルへ出港しました。サンフランシスコが拠点
のPM社とO&O社(Occidental&OrientalS.SCo)の存在に対抗する為グレート・ノーザン鉄道(現BN
SF)と貨客連絡契約を結び東海岸への輸送確実性を得て、サンフランシスコ航路よりも1日航海日数
が短いシアトル航路開設が決定されました。三池丸がシアトルに入港したのは8月31日でした。
10月3日山城丸が横浜を出港し神戸、門司、長崎、香港、木曜島、タウンスビル、ブリスベーン、シ
ドニー航路が開設され、移民の評判が非常に良かったので明治31年英国に発注した春日丸以下3
隻を投入しましたが、白豪政策により移民が禁止され、ノースジャーマンロイド社とチャイナ・ナビゲー
ション社との競争になり日露戦争で就航船が徴用され一時休止に追い込まれました。
明治37年2月10日に日露戦争が勃発し所有船舶は徴用されてしまったので定期航路維持の為に、
欧州航路は英オーシャン汽船、バクナル兄弟商会と契約を結び4週1回デ航路を維持し、米国航路は
神奈川丸1隻で、豪州航路は一時休止、ボンベイ航路は同盟相手3社に委託しなんとか航路を維持し、
不定期航路の運賃は大幅に向上したが定期航路の運賃は一切変えませんでした。合計73隻26万ト
ンが徴用されましたが、信濃丸が仮想巡洋艦として使用され明治38年5月27日早朝露西亜艦隊を
五島列島西方で発見し歴史に名を残しました。
大阪商船株式会社(OSK)
明治始めの瀬戸内海の船舶は110隻、船主は70社もありましたが、明治15年頃から合同して一
大汽船会社を作るべきとの意見が出て、明治15年末に住友本家総支配人の廣瀬宰平がこの構想
を取り上げ、明治17年4月に大阪商工会議所で臨時株主総会が開かれ大阪商船が設立されました。
住友吉左衛門、大阪露油の田中市兵衛、関西貿易の金沢仁兵衛、ニチメンの杉村正太郎、兼松の
兼松房次郎の他中小の船主が参加し資本金は120万、頭取は廣瀬宰平でした。
明治31年田中市兵衛社長は逓信省鉄道局長中橋徳五郎を社長に迎え、中橋は台湾総督児玉源
太郎と会談して台湾航路の補助金増額と新航路開設を要求し神戸基隆、神戸高雄、淡水香港航路
が台湾総督府命令航路として開設され英ダグラス汽船がほぼ独占していた台湾航路を奪い取る事
に成功しました。日清戦争により長江の航行権を得ましたが、英バターフィールド&スワイヤー社と
ジャーデイン・マジソン社招商局の3社同盟に対して明治30年10月に上海漢口、漢口宣昌航路が
開設され寄港地全てに陸上施設を整備し英国船社を圧倒するのに成功しましたが、明治36年に
郵船が進出してきたので大阪商船、日本郵船、湖南汽船、大東汽船が出資した日清汽船に引き
継がれました。 明治41年4月シカゴ・ミルウオ−キー&セントポール鉄道と連絡貨物運送契約を結
び明治42年7月たこま丸がシアトル近郊タコマ港に向けて出港しました。新造船6隻の資金650万円
調達の為に銀行に融資を申し込んだが断られ、社債発行を積極的に推進していた野村徳七商店(現
野村證券)が直ちにこの話に飛びつき銀行が慌てて融資を決断しました。
大正2年にはボンベイ航路同盟に加入しボンベイ線を開設しました。保有船舶は109隻17万6千トン
となり、大正3年11月に大阪商船を瀬戸内海の内航汽船会社から外航海運会社に育て上げた中橋は
社長を堀啓次郎に譲りました。
大正3年WW1が勃発し日本は世界第3位の商船隊を保持する事になり大正7年の休戦時には日本
郵船44万トン、大阪商船30万トンの船腹を保有する事となりました。タコマ航路は運賃収入が19倍
に激増しタイタニック号事件大正4年に米国船員法が改正されPM社は撤退し(大正14年ダラースティ
ームシップ社に吸収され、昭和13年にAPL(AmericanPresidentLine)となる)たので新造船をシアトル
航路に入れ余った船でサンフランシスコ航路を開始し、ボンベイ航路はオーストリア・ロイドとイタリア郵
船が同盟を脱退したので8隻を使用し航路の運営にあたることになりました。さらに豪州航路ではノース
ジャーマンロイドとイースタン&オーストラリアン社が航路を維持できなくなり大正5年10月16日南京丸
がアデレードに向けて出港しました。大正5年12月笠戸丸が横浜を出港し神戸、長崎、香港、シンガポ
ール、モーリシャス、ダーバン、ケープタウン、リオデジャネイロ、ブエノスアイレス、の南米航路が開設さ
れ昭和48年の日本丸まで640隻22,400人の移民を運び、復路はニューオリンズでコーヒー豆を復荷と
して運びました。大正4年欧州航路同盟加入を申請し大正7年4月にボンベイマルセイユ線をを開始し、
9月からは横浜マルセイユ線となりました。地中海の代理店はMM社(仏蘭西郵船、現CMACGM)が引き
受け、大正7年12月横浜ロンドン線を開設し大正8年1月22日に欧州航路同盟加入が認められました。
三井物産船舶部→三井船舶株式会社(M-Line)
大蔵省租税正の渋沢栄一が三井の社員と相談して明治三年に廻漕会社という半官半民の海運会社
を設立し、明治4年に郵便蒸気船会社に名前を変えました。当時国内最大の海運会社だったのですが、
明治7年の台湾出兵により三菱汽船に追い抜かれ、解散に追い込まれてしまいました。
元幕臣益田孝が三井物産を創設したのは明治9年でした。米穀の商いから三池炭の販売に乗り出し
上海に目を付け明治9年9月に三池石炭売捌方条例書を政府と結び三池炭の独占販売権を入手し三池
炭鉱の払い下げを受ける明治22年までに取得した輸送用船舶は9隻6千トンでした。
日清戦争では7隻を御用船として出し、20隻の外国船を傭船しました。日本郵船が三菱出身者が支配
しているのを見て明治29年に三井物産は定款に海運業を加え、明治36年に門司港に船舶部が置かれ
明治37年4に神戸港に移転しました。
明治39年に第三代船舶部長として川村貞次郎が就任し、上司の山本条次郎(後満鉄総裁)に中古船
ばっかりでは立ち遅れる、建造費の安い今の内に新造船を作るべきと主張し、明治41年に金華山丸型
が英国に発注されました。また大正7年には船舶部の組織を改変し、大正8年10月に船舶部の会議で
上司小田柿捨次郎から「三井の営業として社内荷物に限らず、世界を相手にしてもらいたい」との告示
を受けることに成功し船舶部の地位を固める事に成功しました。
大正5年6月に自前の造船所を作る建議をし、大正6年10月に社長三井源左衛門と談判し了承を取り
付け、三井の名を出すと地価が高騰するので川村造船所として進められ、大正7年に岡山県玉野市に
玉造船所を設置しました。この造船所は昭和12年に三井物産から独立しました。
大正9年に神戸海運集会所を設立し、欧米のようにココで海運関係の商談をすれば合理的と考えま
したが、上手く行かず海運紛争の仲裁、海運取引の標準契約書の販売、業界の情報機関となり、昭和8
年日本海運集会所となりました。
その他に大正7年三池に船員養成学校を設置し、同年日米船鉄交換契約を結び鋼材2,240tと実際
船の2重量t(実際に積めるトン数)を交換する契約が成立しました。
大正14年にディーゼル船赤城山丸を建造してニューヨーク航路に投入、昭和2年にバンコク航路を、
昭和6年にフイリピン定期航路を、続けてニューヨーク、マドラス、イラン、ボンベイ定期航路を開設し不定
期船から定期航路に乗り出していきました。各国で工業化が進み製品輸送が増加し、昭和5年には定期
航路の比率を75%にまで向上しました。
昭和8年から船腹にMITUILineと白書し、昭和10年から船体を緑に塗装するようになりグリーン・ボート
とよばれました。
川崎汽船株式会社(K-Line)
明治6年駅逓頭前島密の推薦で郵便蒸気船会社の社長に川崎正蔵が就任しましたが、三菱との死闘の
末解散し、明治11年大蔵次官の松方正義の支援を受け川崎築地造船所を開設し西洋型帆船を建造し
明治14年に兵庫造船所を設置しました。明治20年に官営兵庫造船所が払い下げられ川崎造船所となり
明治29年に株式会社化し松方正義の息子幸次郎を社長に迎えました。
明治37年から再び海運業に復帰し、明治39年から遠洋航海を開始し、大正3年にWW1が勃発した事
により大量のストックボート建造に踏み切りました。大正7年11月に戦争は終結し、船舶が過剰になり
建造中のストックボートを活用して大正8年4月5日に川崎芳太郎を社長にして川崎汽船株式会社が設立
されました。開業時の運航船舶は27隻24万tでした。
鈴木商店の金子直吉が中心となりWW1後の不況対策として余剰船舶を出し合って海運会社をつくる
話し合いが進められ、川崎造船所、川崎汽船、鈴木商店、浅野造船所、浦賀ドック、橋本汽船等が集まり
大正8年7月に国際汽船が設立され社長は川崎芳太郎、本社は川崎汽船社内に設置されました。川崎
汽船,川崎造船所、国際汽船の3社大正10年に「K-Line」の旗印の下三社一団となって運用される事
になりました。100隻80万tの船団で、代理店業務は鈴木商店に委託されました。
大正12年4月に台湾銀行が破綻し鈴木商店が倒産し、代理店機能が停止しました。川崎造船の主要
銀行であった十五銀行も臨時休業に追い込まれ、兵庫工場は川崎車両として独立し、松方社長所有の
美術品コレクションも売却され、整理のメドをつけた後の昭和3年に松方は社長を辞めました。国際汽船も
川崎造船所の破綻の余波を受けて銀行の管理下に置かれ、「K-Line」は以後川崎汽船の単独配船となり、
昭和7年に32隻20万tに減少し、北太平洋航路と豪州航路に絞って運行を継続しました。
その後造船所再建の為に川崎汽船を売却しようとしましたが、条件が合わなくて断念され、アフリカ、ボ
ンペイ、南米航路と次々に遠洋定期航路を開設できる経営状態にまでになりました。
山下汽船合名会社→山下汽船株式会社(Y-Line)
戦前日本最大の不定期船会社オーナーで有力な相場師である通称「泥亀」こと山下亀三郎は、愛媛県
喜佐方村河内(現吉田町)の庄屋四男として慶應3年4月9日に産まれました。十五歳で上京して明治法
律学校(現明治大学)に通うが、一年半で中退し、その後転々と職を変えた末横浜でマンガン鉱の販売を
していた池田文次郎商店に就職しましたが倒産してしまいました。そこで独立して石炭の販売をはじめ、
商売が軌道に乗った明治35年に喜佐丸を購入して海運業に乗り出しました。国内の産業が軽工業
から重工業へと発達するにつれ、石炭や船舶の需要が増すようになり、日露戦争で急成長を遂げました。
やがて明治44年に山下汽船合名会社を設立して神戸・ロンドン・シドニーと世界に支店をおきました。
WW1の勃発により 大正6年に株式会社になり、野村徳七商店等と同時期ににボルネオ島の天然ゴム
農園事業に進出して、三井物産船舶部から独立した内田信也の内田汽船、勝田銀次郎の勝田汽船ら
ともに「船成り金」として大成功を収めました。
WW1後の反動不況で大借金を抱えて破綻し自殺寸前まで追いこまれてしまいます。しかし、多くの企
業が倒産する中でしぶとく生き残ることに成功しました。その秘密はナント同業他社の株を「カラ売り」して
いたのです。それも順次積み増していたので、船舶事業の損失より売り建ち玉の利益が大幅に上回ってい
たそうです。宴会の名人として有名となり情報を早く仕入れられたので「早耳の山下」と言われました。
昭和十九年十二月十三日、七十八歳で没。
同郷の友人秋山真人海軍中将(日露戦争の海軍戦略を事実上一人で作成・運営した)が晩年を彼の
別荘で過ごしたのは有名です。また東京にモスクを建設したり、昭和16年山水学園(現桐朋学園)を設立
するなど社会基盤整備にもお金を使いました。彼は部下の使い方がうまく、社員に巨額の報酬を与えており,
「アクの強い、生意気な男こそ役に立つ。大いに使いこなせ」と言い放つだけの度量を持った彼の性格と共に
優秀な人材が多く集って来て山下学校と言われた理由でしょう。
東洋汽船株式会社(TKK)
浅野総一郎は、嘉永元年(1848年)3月10日、富山県藪田村(現氷見市)に、医者の長男として生まれました。
父と姉夫婦が相次いで病死、遺された母と弟を抱え、15歳の総一郎は奮起し商売を始め、明治維新の頃に
は新潟県、富山県、石川県に事業を拡大しますが維新後の時代の変化について行けずに倒産しました。
24歳で上京し、砂糖を入れた冷水を売る「冷やっこい屋」を始めます。次に味噌や菓子、寿司などの包みに
使われていた竹の皮に着目します。この商売が軌道に乗ると、薪、炭そして石炭と手を広げていき、明治7年
には石炭販売が好調なことから、石炭専業に切り替えました。
明治8年火事により家が全焼し、全財産を失いました。横浜市営瓦斯局で毎日排出される燃料炭の残骸コ
ークスの処理に困っていたことに着目、東京深川の官営セメント工場の技師鈴木儀六を訪ね研究を依頼します。
早速瓦斯局と交渉し安値で数千トンのコークスを買い取り、大きな利益を得ました。明治11年横浜瓦斯局は、
廃物のコールタールの販売を委託してきました。当時コレラの流行で不足していた消毒用の石炭酸として再利
用し成功を収めました。 明治9年第一国立銀行頭取で抄紙会社(現王子製紙)社長渋沢栄一と出会い、
深川セメント工場の払い下げ、磐城炭坑の開発、に支援をもらいました。明治19年には日の出丸を購入し浅野
廻漕店を設立して海運業に乗りだし、同郷の先輩安田銀行頭取安田善次郎の支援を受けて明治29年に東洋
汽船が設立されました。渋沢の助言によりサンフランシスコ航路開設に向てアメリカへ渡り、サザンパシフィック
鉄道ハンティントン社長と交渉して東洋汽船、PM社、英WSL社(WhiteStarline)3社共同配船で話を纏め、次に
イギリスへ渡り汽船3隻を発注してヨーロッパ各地を巡り、横浜港に帰ってきたのは明治30年4月のでした。
明治31年12月〜32年2月に日本丸、香港丸、亜米利加丸の3隻香港−横浜−ホノルルーサンフランシスコ航
路に就航しました。 当時日本では、大型船は沖合に停泊し艀によって荷役を行う「沖懸り」が一般的でした。
ホノルルでもバンクーバーでも艀はなく、ロシアやドイツでは数千トンの荷役を1日程度で完了するのを目撃し、
ロンドンではテームズ川の両岸に2万トン級の船が停泊している姿に衝撃を受けました。日本の港湾が欧米に
比べて大きく立ち遅れていることを痛感した浅野は、ただちに東京〜横浜間の遠浅な海岸大型船が着岸でき
る港湾機能を有する工業用地を造成する計画を立て海岸を実地調査し、明治41年に「鶴見埋立組合」を組織し、
神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出します。この計画は、埋立面積5000万平
方メートル、延長4100メートルの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども
完備して理想的な一大工業用地を建設するといった壮大なものでした。明治44年この区域内で既に認められ
ていた2件の埋立許可の埋立権を買収し、明治45年3月新規に約70万8000坪の埋立を出願し、合計約150万
坪の埋立地造成計画としました。大正2年には県の免許が下り、着工されました。埋め立て用ポンプ船の国産化、
近代工業用地として不可欠な電力確保のため電力事業、セメントの原料輸送や製品輸送の為の鉄道業に精力
的に取り組んでいき、埋立事業は15年の年月をかけて昭和3年に完成し、浅野埋立と呼ばれるようになります。
完成後、浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の
中核となっていきます。
日露戦争で東洋汽船は6隻(32,000t)が徴用され日本丸型3隻は仮装巡洋艦となりインド洋で露西亜艦隊の
牽制を行い、亜米利加丸は信濃丸と共に東シナ海での哨戒を行っています。ロセッタ丸ロヒラ丸は病院船として
使用されました。明治37年9月日露戦争中にPM社のコリア型(10,000t)、モンゴリア型(13,000t)に対抗して1万
2千トン18ノットの貨客船3隻を三菱長崎に発注し、安田銀行の全面的支援により明治41年に誕生したのが天洋
丸型客船です。ところが明治41年に日米紳士協定が結ばれ、移民が禁止され乗客が激減してPM社が撤退し、
ユニオンパシフィック鉄道とウエスタンパシフィック鉄道と協定を結び綿花を大量輸送し、さらに南米西岸航路に
移民が移動し繰越損失は明治43年に一掃しました。
明治39年浅野惣一郎は東西石油会社を設立して保土谷に精製工場を建設しました。その後、南北石油会社に
合併され、原油を輸入精製するためにカリフォルニアのグラシオサ石油会社等との輸入石油輸送契約のために
東洋汽船が油槽船の建造を計画しました。欧米で油槽船の新造を計画しましたが3隻を英国で購入し、2隻を三菱
長崎造船所へ発注しました。相洋丸、武洋丸、常洋丸は英国で購入され、ボイラ-は石油焚きでした。三菱長崎へ
発注された2隻のうち1隻は原油輸入関税の引上げのため解約され紀洋丸のみが竣工し、日本初の大型油槽船
船隊が誕生して原油輸送に活躍しました。
WW1でにより業績が向上し、開戦前には無配当だったのが開戦後には5割配当ができました。がWW1が終
結し、大正11年米国船舶院がダーラー・ラインに1万4千トン型戦時標準客船5隻を与えてサンフランシスコー日
本航路を開きました。東洋汽船は赤字となり新造船で対抗しようと計画しましたが、安田善次郎が暗殺され、関
東大震災とそれによる金融不安により渋沢栄一が仲介役となって大正14年4月日本郵船にサンフランシスコ航路
が営業譲渡されました。浅野惣一郎は昭和5年(1930年)11月9日82歳の生涯を閉じます。