[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック


私見-private opinion-

後藤勇-gotoisamu-

  最近の私見に戻る

2001年1月〜2001年6月

Independent。

宇多田ヒカルさんが自分の曲を、先日事件に巻き込まれて亡くなってしまった子供に捧げる、という記事を新聞で読んだ。

ライブの前日、考えた。
音楽家は社会や世界とどう関わっていけばいいのだろうか。
メディアで発言すること。社会運動に参加すること。そのことをテーマに音楽をつくること。
でも…

唄や音楽は、批判やメッセージの理を越える何かを持ち得る。
私には、宇多田ヒカルさんの「捧げる(dedicate)」という気持ちと態度が、わかる気がした。

一般化してしまったら、結局何もつかまえられなくなる。
寄り添う。 そのために、まず「個」になる。

(2001年6月23日、小肉まんじゅうって?)

ギター。

細めの弦をやめて、いつもの太さの弦を張った。

(2001年6月8日、亡くなってしまった子供たちの冥福を祈ります)

子供。

子供を連れてライブに来てくれるというお母さんからのメール。
それで、ふと自分の子供の頃のことを思いだした。

母が勤めていた会社の忘年会だったろうか、私も連れて行かれた。
手品が好きだった私は皿回しを披露して拍手をもらった。
でも、それ以外はどうも所在無く、母の背中の後ろに隠れていたような。
おじさんやおねえさんたちが話しかけてくるコトバに、どうしていいのかわからなかった。
何か上から見られているような、自分とは違う世界のような。
自分を守ろうとしていたような。
あのときのヘーンな気持ち。

子供は天真爛漫よりも、ちょっと人見知りするぐらいがいいのかも知れない。
いや、人見知りしてた私が、ちゃんとした大人になっているかどうかはわからないが(笑)。

(2001年6月7日、周の結婚)

児童公園。

うちの隣にある小さな公園の取り壊しが始まった。
道が出来るのである。
すでに気付いたときには、工事の柵で囲ってあって、もう中には入れなくなっていた。
小さい頃からお世話になった公園なので、ちょっと感傷的になる。

三角形のコンクリート製のすべり台には、よく駆け上った。
が、上までなかなか届かなかった。
先日、上れずに悔しそうな顔をする甥っ子を見てたら「そうだった…」ということを久しぶりに想い出した。

取り壊しは少しずつ進んでいる。
今日見たら、手すりはすべてバーナーで焼き切られてしまっていた。
無残であった。
見ていたくない。

そう願う子供に戻った一瞬。

(2001年6月4日、アライグマ凶暴)

通し。

いよいよライブで唄う曲が決まる。

で、閉め切った蒸し暑い部屋で、通して唄ってみる。
張り替えたばかりの弦は気持ちがいい。
グワーっといくところでもちゃんと鳴ってくれる。
ことばは、忘れる&間違える&呂律が回らないの三重苦。
汗が垂れてくる。
声は、今日は結構出る。裏声もまあまあ。
いつも思うのだが、こうして部屋で唄ってるように、ライブでも自由に唄えたらなぁ、と。
本番では、つい「守り」に入ってしまう時がある。
形のキレイさを優先してしまう。
違うのだ。それは。

練習すればするほど形が出来上がっていく。
でも練習しないと、私の唄はヒドイ(苦笑)。

せめぎ合いが消えない。

(2001年6月3日、祭のファッション)

曲順。

ライブで唄う曲を一通り書き出してみる。
あれも唄おう、これは今回はいいや…
曲を選んで並べるという作業はとても楽しい。
曲順は重要。
一曲々々がつながると、また別のイメージがふわっと浮かび上がることがある。
この曲の次にこれ、っていう流れは、唄い方にも、すごく影響する。
テンポとかリズムの跳ねとか、ヘタすると前の曲に引きずられるときもある。

ライブの40分間をどう使うか。
カンバスに色を置いていくような、一筆書きをするような。
まるで絵を描くような作業。

(2001年6月2日、伊藤ちゃんも愛読)

変化。

来るライブに向けて自宅練習。
ずいぶんと唄っていなかった唄を、久しぶりに唄ってみる。
自分でつくった曲であるにもかかわらず、コードを忘れている。
私の場合、こういうことはよくある。
でも、別のコードで唄ってみると、これがしっくりくることもある。

唄は唄っているうちにどんどん変わっていく。
自分では変えていないつもりでも、昔の録音を聴くと、ずいぶんテンポやことばが変わっていたりすることに気付く。
でも、纏う服が変わっても、その唄の出発点みたいなものは変わらない。

難しさと面白さ。

(2001年5月31日、食堂に一人)

練習。

The Hilltopsの練習に平田聡と一緒に参加した。
セッション曲を合わせたのだがイイ感じである。
はじめて生でアカペラというものを聴いたのだが、イイね。なかなか。
何人かの人間の声が響きあって、ひとつのものとして鳴らす、というのは、私はやったことがないので新鮮であった。
声の力というのはやっぱりスゴイ。

いろんな唄がある。
The Hilltopsの唄、平田聡の唄、後藤勇の唄。
みんな違うけれど、でも唄は唄。どこかで共鳴しあうはずである。

ライバル意識が目覚めた。

(2001年5月27日、プライドで混雑)

軽み。

ブラピを観た。Brad Pitt。
もちろん映画で(笑)。
女性に人気があって、ジーンズのCMに出てる俳優。という程度の知識しか無かったのだが、はじめてスクリーンで観てみて「チャーミングだなぁ」と思いました。
演技が軽くて、ユーモアがあって、で、嫌みが無い。
カッコイイというよりも、カワイイ。
こりゃモテるよなぁ。うん。

軽薄にならない「軽み」。
必要である。欲しい。

(2001年5月20日、トマト&そぼろ)

迷い。

ある。
最近は少なくなったが、年に何度かずーんとヘコむ。凹。
そういう周期がくると、なんとなくわかるので抗わないようにする。
渦に飲み込まれるままに、一度溺れる。
でも、時間が経つと渦は収まって、水面に顔が出るようになる。

どうしようもないことは、まだいいのだが。
自分で決めていい自由があるとき。
うーむ。

で、凹。

(2001年5月14日、心臓は正直)

宇宙。

母用のデイパックを買いに行く道すがらCD店に寄ると、偶然、元・憂歌団の「内田勘太郎トリオ」がインストアライブの最中。
いやー、この人のギターはスゴイ。
こういうのを「巧い」というのだな。
歌心があって、しかも生で聴くとタイム感が正確なのに驚く。
儲けた。

で、帰りにパソコン店で、欲しかったビョークのクリップ集DVDを中古で見つけ、買う。
クリス・カニンガムの壮絶な映像が目当てだったのだが、意外や音楽にやられた。
テクノとかエレクトロニカには、今ひとつ馴染めないでいるのだが、ビョークの場合は歌と音の組み合わせが素晴らしく美しい。
激情を隠さない歌と同じように、この機械音には不思議とクールさを感じない。
世界の大きさが、小さくもなく大きくもない。
かといって繊細さも大らかさも持ち合わせている。
不思議な宇宙。
新しいファンタジーのような表現。

(2001年5月13日、ビビンパ失敗)

風。

今日も自転車に乗って河原に向かう。
が、眠い。
で、到着するなりシロツメクサの上でしばし眠る。
少年野球の音がする。

起きて一時間ほどフリスビー。
投げるのも捕るのも大分上手くなってきた。
ディスクは、投げ上げる角度によって手前に落ちたり、頭の上を越えていったりする。
最高点に達して、落ちて戻ってくるときに風を孕むと、ふわりと浮き上がる。
また、大きく頭上を抜けていく。

「あーっ!」
と思ってから猛ダッシュ。
悔しい。
けど、楽しい(笑)。

(2001年5月5日、2kg減)

喚起。

河原でフリスビーの練習を終え、汗をかいたので、帰る途中、缶ジュースを飲もうと自動販売機を探していたら「ゆず」ドリンクを発見。
好きなのだ、柚子。
で、早速買う。
メーカーは「国破れて山河あり」でおなじみのサンガリア。
大阪じゃん(笑)。

一口飲んで、ふわっとよみがえるものがあった。
沖縄・竹富島。
強い日射しの中、港から民宿まで歩く。
おばちゃんが最初に出してくれた飲み物。
自家製のシークワーサー・ドリンク。
思わずおかわりした。
夏そのものを絞った味。

あぁ、また島の日射しに照り付けられたい。
この夏も気持ちいい汗をかきたい。

(2001年5月4日、ウクレレバンジョー三線)

待つ。

柱に背を持たれて
カフェラテの泡を気にしながら
そうして待つともなく待っている。
さほど苦痛ではない。
もう、慣れた。

(2001年5月1日、各階押し)

幅。

録画してあった矢野顕子さんのライブを観ました。
何か気になる存在だったのですが、あまり積極的に聴いてきませんでした。

ピアノの弾き語りで唄う奥田民夫や鈴木慶一のカバー。
そして、昨年夏に観に行った「Beautiful Songs」で聴いた表題曲。
年齢を重ねて、それを全部自分のものにして、唄にとても味わいが出てきた。

そして驚いたのが、ピアノの巧さ。
実に歌心のある、そして真に自由な演奏。
声も楽器もまるでひとつの唄を唄っているかのよう。
どうしてピアノからこんな音が出るのだろう。
昔の曲もカバー曲も、元がわからなくなるくらい変わってしまっているのだが、不思議と嫌みが無い。
たぶん、自分の中に鳴っている音を自然に出しているから、とても気持ちがいい。楽しい。

唄というのはその形ではなくて、それを立ち上げる気持ちの中に鳴るのだ。
だから、唄はある幅をもっている。
そして、その幅を広げるのは、音楽家の個性なのだろう。

(2001年4月28日、早くも蚊)

確認。

友人が作ったCDを聴いてみました。
前にも聴きかけて、途中で止めてしまったのですが、あらためて聴いていて、飾りが多いのだな、と気が付きました。
同時に鳴っている音がごちゃごちゃしている。
これは、アレンジ上の問題。

もうひとつ思ったのは、何と云えばいいのか、音に偽りがあるというと大げさですが、多分こういう音にしたいんだろうなぁ、という音とかけ離れているのです。
残念ながら、出したい音と鳴っている音がズレてしまってる。
どんな音楽に影響を受けてきたのかはよくわかるけど、どんな音楽を創り出したいのかが見えてこないのでした。

で、あわてて自分の音も聴き直してみました(笑)。
まぁ、自分のやってることだから客観的には判断できませんが、華やかさこそ無いけれど、やっぱり後藤の音だな、と。
本のレシピを見ながら真似る洒落た料理よりも、いつもの家庭料理のようなものですかね。

帰りたくなるところ。

(2001年4月26日、バスで行く)

等身大。

昨日、渋谷でリンドバーグのライブを観ました。
(詳しい感想文は、掲示板の発言No.10127)

意外に思うかも知れませんが、私はリンドバーグの唄が好きです。
弾き語りと自分のバンド・ムニャニで2回カバーして唄わせてもらった「花火」。
迷いの無い詞、唄、音楽。
たったそれだけのことすら偽って、飾ってしまうミュージシャンがどれだけ多いことか。
きちんと音楽を聴けば、その誠実さが伝わってくる。そういうバンドです。

そうは云っても、ライブとなると、もしかしたらワーワー、キャーキャーした感じだったりして、音楽自体を楽しめないと嫌だなぁ、と思っていたのですが、思い切って行ってみて正解。
バンドと観客がだんだんと自然にひとつになっていく感じは、とてもあたたかい。
信じられるバンド、リンドバーグ。
そして、信じられる人柄でまっすぐに歌い続ける渡瀬マキさん。

そう。背伸びしないでありのままでいいんだ。

(2001年4月19日、やっぱり唄うね(笑))

スポーツ。

しない。実に。
ところが突然「運動をしよう!」と思い立つ。ここのところ体調がすぐれず、太りすぎもあって(笑)。
で、何をやるか?
今考えているのは、フリスビー。
理由は無い。強いて云えば、飽きっぽい私でも遊び感覚でできそうなので。
調べてみたら、一人でもブーメランみたいに遊べるという。
うーむ。それはよい。
早速、ディスクを探しに出掛けたのだが、これが売ってない。
びっくりするほど無い。
流行って無いってのも、またこれ魅力(笑)。

あぁ、早く、云うことを聞かずに逃げていく円盤を追いかけて、心地よい汗をかきたい。
と思う春眠。

(2001年4月15日、須田帆布の集金鞄)

藤棚。

庭に藤がある。
この間まで、棚は隙間だらけで枝ぶりも寂しい感じだなぁ、と思って見ていたのだが、ちょっと桜の花に心を奪われているうちに、ぽうっと新芽が割れて房が伸び始めた。
毎年思うが、藤の房の伸びの速さといったら無い。

昔住んでいた家には藤は無かったが、近所の家の庭にあった藤棚から葉をちぎっては口にあてて、ブーブー音を鳴らして遊んでいた。
その頃に藤の花を見た記憶というのは無い。ホントに全く(笑)。

今になって、庭に藤を植えてくれた祖父母に感謝したい、という気持ちが芽生えている。
あと二十日ほどで咲き誇るこの花は、それほど美しい。

(2001年4月7日、藤色の長袖)

歌手。

録ってあったビデオで宇多田ヒカルのライブを観た。
特長である低域を使った孤独を疼かせる唄は、残念ながらスタジアムライブ向きではない。
それよりも、ロックっぽい派手な曲のほうがやはり映えてしまう。
できれば、小さな会場で、もっとシンプルなバンドで聴いてみたい。
新曲はイマイチだが、「100%幸せだったら、唄なんて生まれてこない」と云ったこの人は、間違いなく、作家としても歌手としても「唄」を生み出せる才を持っていると思う。

テレビで浜崎あゆみを観た。
最近、ちょっと引っかかっていたのだけれど、生放送で最近の曲と古い曲を続けて唄う姿を観ていて、それが何なのかおぼろげながらわかった気がした。
この人は、真剣に唄と向き合おうとしている。
それをロックと云ってしまうことにはまだためらいを感じるが、リフレインで張り上げた声は、アイドルとか歌謡曲とかJ-POPとかのそれではなかった。
確かに、何かを越えようとしている歌声に聞こえた。

自分のことばを持った歌手の唄は、なにかとても説得力がある。

(2001年3月30日、咳をする)

春。

とても不安定な季節。
花粉症のせいもあるけれど、何か自分と外との境がぼんやりとにじんでいくような。うとうととまどろんでしまう午睡。

鈴木祥子さんの「三月のせい」という唄に「それは三月のせい/そして体温は不安定」という詞があるけれど、実に所在無さを味わうこの季節の変わり目。

ぼうっと。

(2001年3月20日、メロディ)

ケンカ。

結構、する(笑)。
といっても、感情的なケンカはあんまりしない。
どちらかというと、意見が合わずに、議論が熱くなるというような感じのケンカが多い。
私は、ハッキリとものを云うことが多いので。
でも、相手をなじるような、足を引っ張るようなケンカはしたくない。
お互いにわかりあえて、納得できて、今まで以上のモノ、コト、カンケイが生まれてくることを期待しているのだ。

「ペダル」という唄をつくったとき、ちょうど湾岸戦争が始まった。
お互いに目指す山の頂上が一緒でも、選んだ道筋が違ってくると諍いが起こる。
でも、頂上は同じなんだということを知って、違う道行きも許しあえれば、お互いに一緒に居られる。
そういうことを唄った。

ケンカすると、お互いの同じところと違うところが見えてくる。
それで仲直りできる。

(2001年3月17日、おはぎ3ヶ)

新曲。

久しぶりに唄ができました。
ことばを、ずっと待っていた。文字じゃなくて、声の。

そう。声から生まれた音楽。

(2001年2月18日、山茶花に目白)

声。

その音は会話ではなくて、
新しい音楽のように長い時間を埋めてくれる。

会おう。

(2001年2月10日、電話線)

道徳。

ここ2、3年、ずっと思っていること。道徳が無くなってきていること。

さっきテレビで、荒れた成人式の模様を、人を刺すことをあたりまえと思っている暴走族の少年の話を、インターネット上での不特定多数との音楽ファイル交換の話題を採り上げていた。
日々起こるやるせない事件からすれば、小さなことなのかも知れないけど、ここまで身のまわりに道徳が無くなっていることに、軽いめまいをおぼえる。

夕方、立ち寄った店でラジオから流れてきた唄。イルカさんの唄。
中学生の頃、よく聴いていたその唄は、今聴くとあまりに直接的な歌詞で、少しためらいもあるのですが「人間だけが偉いんだ、なんてことだけは思わないで下さい。」ということばが表している心のもちようは、古くさい、と笑って捨ててしまってはいけない。
ごまかしてはいけない。

「人間だけが」までいかなくても「自分だけが」からでもいいから、少しずつ、少しずつ。

(2001年1月8日、一周年)

一年。

音楽を創作することと配給すること。この二つ。

自分が表現したいことを、唄や音楽でぴったりと表現すること。これは、ずっとテーマです。たぶん、ずーっと。

作品を配給することは、昨年、インターネットを通じてやってみて、少しずつわかってきました。
私がすべきことは、国道沿いに大きな店を構えることではない、と。
私の音楽を楽しんでくれる人と、きちんと出会えれば、それでいい。
私は、そのために「耳の穴」という表札を掲げたのでした。
商店を始めるつもりはありません。
しかし、出会うべき人と出会うためには、家の前まで細い道を繋げたり、道境に案内板を置くことも必要なのかも知れません。

商品は作らない。通りやすい道をつくる。
これが一年の計。

今年も、あなたと音楽との素晴らしい出会いがありますように。

(2001年1月1日、元日の深夜)


  最近の私見に戻る