私の「20世紀の化学物質-人間が造り出しだ毒物゙」

昨年,NHK教育の人間講座において神奈川大学常石敬一教授の「20世紀の化学物質-人間が造り出しだ毒物゙」と題する番組があった。内容は,砒素,塩素,青酸,水銀,DDT,サリンといった古典的な毒物の話で,サリドマイド,AF2,チクロ,ベンツピレン,DES,フロンといった本当の化学物質の話はないうえ,浅薄で間違いも多かった。NHKのレベルの低さは,このように有機化学も毒物学も全くの素人である経済学部教授に化学物質の毒性の講義をさせたことにも現れている。

00/02/13作成】

昨年(1999年),7月から9月にNHK教育の人間講座において神奈川大学経営学部教授常石敬一氏の「20世紀の化学物質」と題する番組があった。副題は「人間が造り出しだ毒物゙」である。

主題と副題から想像される内容は「20世紀に合成され,何らかの毒物学的な問題点があり,しかもその後の法規制毒性試験のあり方に影響を与えた重要な有機合成化学物質に関し,その解説とそれらの毒性への対応」である。多少の化学知識があれば,サリドマイド,麻薬,覚せい剤,シンナー,AF2チクロ,タール系色素,サリン,タブン,ドリン類,DDT,リンデン,ホルムアルデヒド,ベンゼン,ベンツピレンDES(ジエチルスチルベストロール),ダイオキシン,PCBフロントリブチルスズ,トリフェニルスズなどがすぐ頭に浮かぶ。無機化合物ではあるが水銀やカドミウムについても入れるべきかもしれない。

ところが,実際の講義内容は予想とは大きく異なる。以下に個々の講義の表題を記載する。セミコロン以降は私の付け足した解説である。

  • 現代の踏絵・化学物質;ゴミ問題
  • 化学のブレークスルー 19世紀の開花;コールタールと染料工業
  • 砒素化合物(1)薬としての砒素;サルバルサン
  • 砒素化合物(2)猛毒の作用メカニズムATP,タイでの地下水ひ素汚染
  • 窒素化合物 無から有を生み出す「錬金術」;アンモニア合成
  • 塩素化合物(1)水道水の殺菌、漂白剤;塩素ガス
  • 塩素化合物(2)合成ゴム、合成殺虫剤DDTDDT,選択毒性
  • 青酸化合物 生命の起源;青酸,アクリル,核酸
  • リン化合物 マッチから神経ガスまで;サリン,DDVP
  • 水銀 米の増産、蛍光燈;無機水銀,有機水銀,水俣病
  • ダイオキシンとPCB 予期せぬ毒性;ダイオキシン,PCB
  • 新しいアプローチPLMSDSPRTR

これらのどこが20世紀で,どこが有機合成化学物質で,どこが人間の造りだした毒物なのだろう。これらの表題から考えられる講義の題名は「無機化学特論」あるいは「文科系の学生のための身近な元素のお話」である。おそらく,東京都立大学理学部物理学科出身の常石経済学部教授は教養部の学生時代に化学として無機化学を選択し有機化学は全く勉強しなかったのであろう。毒物学についてずぶの素人であることも講義を聴けば一目瞭然である。

素人であるため基本的な誤りも多い。ポリアクリロニトリルを青酸化合物といっている。シアンイオンとシアノ基の区別が出来ていないためである。専門であるはずの神経ガスについてもコリン作動性シナプスがどこにあるのかわかっていない。DDTに関してだけでも,哺乳類での代謝,ハマダラカの防除法,発癌性の評価など多くの誤りがある。用語にも誤用が多い。

選択毒性の話では「たとえば,虫を1 kgあたり1gで殺せる殺虫剤がヒトに対しては1 kgあたり100 gの毒性であれば100倍という高い選択性になる」という議論があった。LD501000μg/g(通常はこう書く)ならそれは殺虫剤にはならない。少なくとも2桁,通常3桁以上低くなければならない。50 kgあたり5kgなら,砂を食べさせてもヒトは死ぬ。100倍は選択毒性として高いとはいえない。細かいことだと思われるかもしれないが,最低限の毒物学の知識があればこのような誤りは決して犯さない。

そもそも化学物質の概念がかなりずれている。間違いではないが,食塩や金属水銀や亜砒酸やアンモニアや塩素ガスを普通は化学物質とはいわない。窒素化合物や塩素化合物などという分類もいまどき意味はない。

要するに,NHKから化学物質の毒性についての話をしてくれと依頼されたが,知ってる毒といえば砒素,塩素,青酸,水銀ぐらいで,あとはサリンと聞きかじりのダイオキシンの知識だけ,それで,毒とは何の関係もない染料工業とアンモニア合成を苦し紛れに付け加えたといったところだろうか。ダイオキシンを除けば30年前でも全く同じ話を出来たはずである。もちろん,昔話としてである。人間と社会とサイエンスの議論も文科系の人間が頭で考えたものにすぎない。

もし,私がNHK人間講座で「20世紀の化学物質」と題する12回の講義をするとしたら以下のような内容となるであろう。私なら,毒性を主体に考えこれに関連する化合物について用途分類の形で解説する。農薬であれば野外で使われることから環境に対する影響こそ本質といえる。急性毒性にも慢性毒性にも関連する農薬があるが,これは本質とはいえない。

主題「真 20世紀の化学物質
副題「そのリスクとベネフィットとコントロール

  • はじめに 化学物質とは;化学物質と毒の定義,安全性と毒性と毒性試験
  • 毒と薬 量の重要性ADME,自然毒とそれから生まれた医薬
  • 急性毒性 毒ガス;吸入・経口・経皮毒性,サリン,AChE阻害と急性遅発性神経毒性
  • 発癌性と変異原性 食品添加物の安全性AF2,タール系色素,チクロ
  • 発癌物質 一次発癌物質と二次発癌物質とプロモーター;サッカリン
  • 催奇形性 サリドマイドの悲劇;それとベトちゃんドクちゃん問題への疑問
  • 薬物依存性 覚せい剤と麻薬;ヘロイン,モルヒネ
  • 免疫毒性 皮膚感作性とアレルギー;揮発性化学物質とシックハウス症候群,ゴムの加硫促進剤
  • 内分泌攪乱化学物質 人と野生生物への影響DES,可塑剤,トリブチルスズ
  • 化学物質と環境1 農薬とその環境動態;稲作用除草剤,カーバメート剤,有機りん剤
  • 化学物質と環境2 難分解性化学物質とフロン;ダイオキシン,PCB,ベンツピレン,フロン
  • おわりに 化学物質の功罪と今後の規制のありかた;ハーモナイゼーション,安全性を評価することの重要性(化学物質を正しく怖がろう)

さて,みなさんは常石教授の講義と私の講義のどちらが化学物質と個人と社会との関わりを論じるのに相応しいと考えられるであろうか。もちろん,常石教授の講義でも正しいこともいっている。しかし,路傍のケミストである私でなくとも,たとえば横浜国立大学の中西準子教授であれば1桁以上優れた講義が出来るだろう。

私が常石経済学部教授を知ったのは松本サリン事件のときである。農薬からサリンが容易に合成できるとの妄言で捜査を混乱させ,結果として当時被疑者であった河野氏を長期間苦しめた人物の一人として記憶している。

しかし,文科系であることからNHKと波長が合い受けも良いのであろう。過去錚々たる学者が登場した人間講座に,有機化学も毒物学も素人同然でありながら講師として名を連ねている。もちろん,これは文科系の秀才に牛耳られているNHKの問題であることはいうまでもない。

  

【付記】以下もご参照下さい。
サリン事件に登場した「毒ガスの専門家」常石敬一教授を嗤う。
02/11/02
1994
6月の松本サリン事件でマスコミに登場した神奈川大学経済経営学部常石敬一教授は,最初に有機リン系の農薬が原因で神経ガスが発生したといった。しかし,常石教授がそういえたのは,彼に高校生レベルの化学知識すらなかったからである。ところが,不幸な偶然として「神経ガス」だけは正しく,これによってサリンが農薬から簡単に合成できるとの常石教授の妄想があたかも真実のごとく流布され,河野義行氏が長期間容疑者にされる一因となってしまった。私は常石教授の一連の発言が初動捜査を混乱させなければ,地下鉄サリン事件は防げ,多くの無辜の市民が犠牲にならなくても済んだと考えている。しかし,NHKはいまだにこの「農薬からサリンを合成したという小説を読んだ」だけの「ただのえーかっこしー」を毒ガスの専門家と考えているようだ。

 

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