朝日新聞2001年6月1日,
「魚の焼けこげ、発がん性に関係ない? 研究会で発表へ」;【01/06/04】
朝日新聞の6月1日付「魚の焼けこげ、発がん性に関係ない? 研究会で発表へ」という記事につき論評する。この記事をみると,ラットで発癌性のある物質でもヒトでは発癌性がない,あるいはその逆もあるのではないかと誤解する素人もいるのではないかと思ったからである。なお,論評はasahi.comにある記事に依拠した。
日本では化学物質の安全性試験の一環として,旧厚生省が労働安全衛生法で定めた方法に準拠して「微生物を用いた復帰変異原性試験」を行うことが多い。この試験は,あるアミノ酸が存在する培地でなければ死んでしまうように作られた細菌が,変異原性物質が存在すると元の健全な細菌に戻りそのアミノ酸がなくても生きていけるようになる現象を利用して被検物質の変異原性を評価する試験である。
具体的には,ヒスチジン要求性のサルモネラ菌4菌株(塩基対置換型2菌株とフレームシフト型2菌株)およびトリプトファン要求性の大腸菌1菌株(塩基対置換型,ただし,サルモネラ菌とは異なる塩基対)を用い,数回分裂できるだけの限定されたアミノ酸しか含まない培地に濃度を変えて被検物質を加え,できたコロニー(菌叢)数を数え,濃度が増えるに従ってその数が増えれば陽性と判定する。5菌株はそれぞれ特性が異なっており,その組合せで検出できる変異原物質に対する感受性を高めている。
本来のエームス試験(Ames test)はカリフォルニア大学バークレー校の生化学部教授であったB. N. Ames博士がサルモネラ菌を用いて開発した手法で,本邦で実施されている試験はこれに大腸菌を加えた改良法である。そのため,厳密には本邦の試験をエームス試験といわない。また,変異原性試験には実際の生物(いわゆる,ビボあるいはインビボ)を用いた高次試験である小核試験などもある。変異原性試験の中で最も簡単な試験管レベル(いわゆる,ビトロあるいはインビトロ)の試験がエームス試験である。
エームス試験(以下,微生物復帰変異原性試験の意味で用いる)は発癌性試験や高次の変異原性試験の予備試験あるいはスクリーニング試験と位置づけられる。つまり,エームス試験で陽性であれば発癌性のおそれがあると考えるのだが,さほど簡単ではない。エームス試験にはフォールスポジティブ(false positive),つまりエームス試験で陽性であっても実際には発癌性のない化合物も多く,逆にフォールスネガティブ,いわゆる非変異発癌の例も多い。エームス試験の結果は,農薬などの高度な安全性試験を実施する物質の場合は単なる参考に過ぎないが,歯磨きや入れ歯安定剤や喫漱剤やシャンプーや化粧品などに使われる化学品などのように,ごく簡単な安全性試験しか実施されない物質の場合は重要である。この試験により身近な化学品から強変異原性物質を排除できることは日用品の安全性を向上させている。
本来のエームス試験は,被検物質そのものの変異原性を調べる試験であるが,化合物の中にはベンツピレンのように動物の体内で代謝活性化されて変異原性物質に変化するものがある。そのため,現在のエームス試験はこれらの化合物についても評価できるように改良されている。
具体的には,バルビタールを投与して酵素誘導したラットの肝臓を摘出し,これを磨砕して遠心分離した上澄液,いわゆるS9を用いる。S9は遠心分離の際の分画を示し,Sはスベドベリの意味である。S9にはチトクロームP-450などに代表される肝臓の酸化酵素系が含まれており,これにこれらの酵素を働かせるための補酵素やエネルギー源などを加えたものをS9mixという。化合物をS9mixとインキュベートしたのち培地に加えることにより,代謝物の影響も考慮した試験を代謝活性化法といい,+S9と略記する。代謝活性化を行わない試験は-S9という。
従来より,代謝活性化の際にラットの肝臓ではなくヒトの肝臓を用いれば,エームス試験の精度を更に上げることが出来るのではないかというアイデアはあり,ヒトの臓器器官を入手しやすい欧米ではいくつかの報告があったと記憶している。今回の発表は日本で比較的大規模に実施された点が新しいと思われる。
たしかに,ヒトの酵素系を用いる方が試験方法として優れていることは確かである。しかし,S9mixを用いたインビトロでの代謝試験の結果は,実際のラットでの代謝試験の結果と通常大きく異なる。その理由は,吸収と移行のファクターが無視されていることや,酸化酵素系に限られ抱合が考慮されていないことなどである。ビトロ試験の目的は,生成する可能性のある代謝物をあらかじめ把握することにあるのだが,実際の試験では検出されない代謝物も多く,また,その生成比は全く異なるといってよい。これは,+S9試験でも実際の代謝による寄与のごく一部しか反映していないことを意味する。
また,ヒトの肝臓を用いることは確かに改良ではあるのだが,もともとエームス試験は単細胞の微生物を用いた発癌性試験の予備試験にすぎないことに注意する必要がある。ラット由来のS9を用いたら陽性になったが,ヒトの+S9では陰性になったので,ラットには発癌性だがヒトでは発癌性はないなどという議論は論理の飛躍以外の何物でもない。また,ラットの+S9とヒトの+S9で結果を直接比較することに意味はない。両方の-S9との比較を比較しなければならない。その際,定量性に乏しいことに十分注意する必要がある。
仮に,-S9で陰性であった化合物が,ラットの+S9では強陽性であり,ヒトの+S9では弱陽性であった場合,次の研究はその化合物をS9mixをとインキュベートして,出来た酸化体を分析することにある。その中に本当の変異原物質が存在するからである。そして,その本当の変異原物質についてヒトでの生成量を考察するという次の段階に進む。
逆に,-S9で強陽性であった化合物が,ラットの+S9では陽性であり,ヒトの+S9では陰性であった場合は,ヒトの代謝酵素系が変異原性物質を分解したことになる。この場合は,本当にヒトではその物質を迅速に分解し排泄するかどうかを考察する必要があるだろう。
さて,恐ろしく長い前置きを終えて記事の論評に移ろう。
表題の「魚の焼けこげ、発がん性に関係ない?」はあまりに大きすぎる論理の飛躍である。ほとんど「カビの生えた餅を食べていると結核にならない。」といったレベルの議論である。
「エームス試験で、ラットの細胞のかわりにヒトの細胞を使うと、結果が大きく異なる」は読者に誤解を与えることを意図した欺瞞である。もちろん,正しくは「肝臓」あるいは「肝臓由来の代謝酵素系」だが,わかりやすさを意図したとはとても思えない。
他の記載事項の誤りなどは敢えて論評しない。ただ,上述の議論を踏まえてヒトはラットの1/150などという数値が具体的にはどのように計算されたかをじっくり考えていただきたい。
かなり専門的な記載に走ったが,エームス試験は毒性試験としては最も簡単な部類に属する。しかし,朝日新聞の科学担当記者のレベルでは皆目理解できなかったようである。無理もない。いまだにベトちゃんドクちゃんをダイオキシンの犠牲者と考えている程度の連中には手に余る。
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