
●NHKは「農薬などの化学物質」という表現の誤りに本当に気付かないのだろうか。化学物質とは物質を分子で構成されるものという側面から見た場合の表現である。分子構造で規定されているタンパク質,アミノ酸などは化学物質といえる。しかし,印刷インキといった機能で定義されている混合物を化学物質と表現することはない。単一物質であっても,赤色染料を化学物質ということはあり得ない。風邪薬や胃腸薬などの化学物質という表現が成立しないように,農薬も化学物質とはいえない。では,NHKが農薬を化学物質と記載する意図はなにか。
【99/12/23】
広辞苑などの一般的な辞書に記載されている化学物質の定義は明確である。つまり,化学物質とは物質を分子で構成されるものという側面から見た場合のいい方である。要するに化合物名をつけることができれば化学物質といえる。天然物であろうと合成品であろうと,分子で構成されない物質など存在しないからすべての物質が化学物質であることは疑いようがない。人体が種々の化学物質で構成される有機体であることなど説明の必要すらあるまい。
分子構造で規定されている物質が化学物質であることは疑いようがない。DDT,テトロドトキシン(フグ毒),タウリンといえばその化学構造式を書くことができる。類縁化合物を含むピレトリン(除虫菊の殺虫成分),オーキシンなども化学物質といえる。
分子構造が完全には特定されなくとも,化学構造を規定するような名称を有するものは化学物質である。タンパク質,炭水化物,脂肪,DNAなどの表現は分子構造から規定されており,化学物質としての名称にほかならない。「牛肉はタンパク質という化学物質を含み,これらは加水分解すればアミノ酸という化学物質ができる。アミノ酸とはグリシン,アラニン,リジン,オルニチン,ロイシン,イソロイシンなどで,分子中にアミノ基とカルボキシル基を有する化学物質のことである。」という文章には何の疑問も差し挟む余地はない。
逆に,多くの化学物質から構成され一定の機能を発揮するように構成されたものについては化学物質といわない。パソコンや自動車などの化学物質といえばおかしい。RAM包埋用樹脂,ニッケル水素蓄電池用電解質,ディスプレイ用液晶,エンジンオイル,ブレーキオイル,冷却用クーラント,窓洗浄用洗剤液,ガソリン,排気ガスなどを化学物質と表現するのも誤りである。これらは,化学構造ではなく機能などで規定された混合物だからだ。このうち,ガソリンについて若干説明する。ガソリン,灯油,軽油,重油などを化学物質となぜいえないのか。それは,原油の留分,つまり製法で定義されており,化学構造で定義されていないためである。安山岩や花崗岩などの化学物質といえないのと似ている。しかし,ガソリンに含まれる炭化水素はある程度特定される。そのため,ガソリンを化学物質というのも完全な誤りともいえない。
香水,うがい薬,ハンドソープ(手洗い用洗剤),外壁用塗料,印刷インキなどの化学物質というのもおかしい。これらもエンジンオイルと同様に一定の機能を与えるために物質を混ぜた物である。印刷インキであれば,染料や顔料に有機溶媒や界面活性剤や安定剤を加えたものである。染料や顔料がもっとも重要な成分であるが,染料とは布などを染めるという性能を規定しており化学構造を規定していない。「赤色染料という化学物質」といえないことはいうまでもない。
さて,NHKの「農薬などの化学物質」という表現がなぜ誤りになるのかという本論に入ろう。
まず,農薬とその活性本体を混同してはいけない。上述の染料や顔料と印刷インキの関係である。農薬とは正しくは20%水和剤や5%粒剤といった製剤をいう。活性本体に溶媒や界面活性剤や安定剤などを加えた製剤が農薬なのである。したがって,農薬とは一定の機能を与えるために物質を混ぜた物で,印刷インキやハンドソープと同様に化学物質はいえない。
農薬をその活性本体の意味で用いているとしても誤りである。農薬(ここからはその活性本体の意味で用いる)とは機能を規定している。顔料や染料というのと同じである。分子構造をなんら規定していない。殺虫活性を有する化合物に限定しても極めて多種類の化学物質がある。「殺虫活性を有するもの」とは「ヒトに対して毒となりうるもの」と同じ表現である。「ヒトに対して毒となりうるもの」の一般的化学構造など存在し得ない。代表的な殺虫剤というのも妄想にすぎない。
NHKは,農薬とは「人体や自然に悪影響を与えることを特徴とする,ある特定の化学構造を有する一連の化合物群」と漠然と考えているようである。それゆえに,農薬を化学物質と表現しているのであろう。NHKが文科系の人間によって牛耳られていることによって生じた誤りの1つといえる。文科系の人間は内容を具体的に吟味することなく機械的に空論を重ねていく傾向が強い。
一度,農薬批判を繰り返す「専門家」に医薬品と天然物と農薬の化学式を100個ほど並べて正しく分類できるかテストしてみるとよい。有機合成化学者であった私は,このようなテストで及第点を取ることができる。しかし,それは個々の化合物について知識があり,化学構造を記憶しているためである。農薬としての一般的な部分構造などあり得ない。水虫用軟膏の殺菌成分の構造式と作物用殺菌剤の殺菌成分の構造式は知識で判別するしかない。
もし,農薬を化学物質といえるなら,風邪薬や胃腸薬などの化学物質という表現も成立するはずである。化学調味料や食品添加物という化学物質ともいえるはずである。NHKが農薬だけを無理やり化学物質というのには明確な意図がある。
最近,NHKは「化学物質」に新たな意味付けを与えた。「人間や生物にとって異質で得体の知れないもの」,さらにわかりやすくいえば「けがれ」である。そして,農薬をその「けがれ」に含めようと考えている。「農薬などの化学物質」という誤った表現を使い続ける真意はここにある。
インデックス 目次 要約 トップ