
●なぜ,文科系の人間には自然を機械的に捉える傾向が強いのだろう。文科系の人間は,自然を機械的に捉えているため,農薬に関する話などを内容を吟味せず頭にため込み,これから空論を重ねて「心地よさ」だけを基準とする概念的結論を出す傾向が強い。「無農薬や非遺伝子組換えだから安全」との議論も,ほんとうは快不快原則で考えながらそれを善悪に擬装して単純でわかりやすい基準を作りそれを押しつけたものといえる。
【00/01/16,00/01/17改】
東京タワーの展望台から同じ大きさの木の玉と鉄の玉を落としたら,どちらが先に地上に届くか。文科系の人間はほぼ同じと答える。理科系の人間なら途中の鉄骨にあたるからどちらが先になるかわからないと答える。
これは私の作り話だが,私の知る限り文科系の人間の方が概念的で機械的である。あるホームページで,ある昆虫館で市販の野菜を食べさせて蝶を全滅させてしまったという話を読んだ。これを見て,文科系の人間なら野菜には農薬が残留しているので危険なのだと考える。理科系の人間ならどんな野菜をどんな蝶に食べさせたのかと考えこの話は作り話だと結論する。
アゲハチョウがキャベツを食べるはずがない。昆虫館の目玉のオオゴマダラがホウレンソウを食べてくれたらこんなに楽なことはない。結局,野菜を食べさせることができるのはモンシロチョウとスジグロシロチョウぐらいである。しかも,彼らもそう簡単には死なない。もともと,殺虫剤が残留していたら虫が死ぬだろうとの考えも素人の発想である。殺虫剤には食毒と接触毒がある。残留で虫が死ぬのは食毒に限られる。接触毒作用だけのピレスロイドの残留しているキャベツではモンシロチョウは死なない。最も外側の葉を除き内側の葉には残留そのものがない。
しかし,文科系の人間は内容を考え,真偽を判断するという習慣も発想もない。こんな話を未消化のまま頭にため込んでは,よく言えば「総合的な判断」だけをする。そして,進歩的とされる知識人の最後の結論はいつも決まっている。「はたして私たちに無農薬野菜を食べる資格があるのだろうか。」である。
数年前にNHKが「アインシュタイン・ロマン」なる番組を放送していた。この番組の最終回でも,アインシュタインの憑依した浄瑠璃人形は同じような結論に達していた。まさに,NHKに勤める文科系の秀才たちが自然科学者アインシュタインに抱いたロマンである。彼らは,アインシュタインにも自分らと同じように考えて悩んで欲しかったのだろう。しかし,思考実験と機械的推論とは異なる。アインシュタインなら,ベトナムに投下されたダイオキシンの総量と散布面積から土壌中の濃度を計算し,その値を各国の測定値と比較することから始めるに違いない。これだけで,奇形児の話には注意が必要だと考えるだろう。
立花隆氏が1997年11月に週刊現代に書いた環境ホルモンの評論も文科系の秀才にありがちな例である。一般書から聞きかじった断片的知識を何ら内容を吟味することなく機械的に頭にため込みそれに勝手な推論を組み合わせて素人の中では真っ先に発表しただけである。個々の事項の真偽など全く考察されていない。立花氏がテレビで「理科系は機械的だ」という発言をしているのも興味深い。
有吉佐和子女史の「複合汚染」という歴史的著作がある。ときに,「沈黙の春」と比べられるが,科学の目で事象を捉え考察するとの基本的発想からはむしろ対極的である。「中性洗剤はゴキブリが死ぬので危険である」に代表される理科系の人間には理解しがたい発想も,「有吉女史には勧善懲悪的な単純で機械的な思考しかできない」との前提で読み直すと理解できる。しかし,善悪で判断するなら問題は少ない。問題は善悪を快不快にすり替えることにある。快不快が基準であれば思考を停止させることができ,理由を論理的に説明する必要がなくなる。
「無農薬だから安全」という典型的な機械的思考がある。考える習慣を身につけていないものは単純な判断基準を求める。しかし,無農薬野菜を買い求める主婦達は本当に無農薬は安全だと考えているのだろうか。同じ値段のモヤシなら「無農薬栽培」と書いてあった方が気持ちが良いというのが本当の判断基準ではないか。
最近の遺伝子組換え作物の議論も,ほんとうは快不快で考えながら表向きには善悪(安全性)を論じている典型例である。NHKなどのマスコミに属する文科系の秀才達は,断片的な情報を機械的に組み合わせて「遺伝子組換え作物は何となく気持ちが悪い」との結論を得る。文科系の人間に安全性を定量的に評価するという発想はない。この結果は快不快のイメージでしかない。しかし,もちろんこれが報道される場合には安全性の問題という擬装が施される。視聴者はこの報道の擬装を無意識に剥ぎ取り「遺伝子組換え作物は気持ちが悪いものだ」との結論を正しく理解する。日本人は幼児的な快不快原則を大人になっても持ち続けることを良しとする希有な国民性を有している。そして,その感情は原始的であるがゆえに強い。正義(安全性)より快不快(食べるのは何となく気持ちが悪い)を優先させることに何らためらいはない。そして,いったん得た「気持ちが悪い」という感情はいかに正しい「正義の論理」を並べられても容易に消すことはできない。
欧州も遺伝子組換え作物に反対ではないかというかもしれない。しかし,欧州での論議は明らかに日本のそれと異なる。多分に国家戦略的である。
昨年,ポケモンが米国で大ヒットした。ある評論家はどの国でも子供は同じだとコメントしていたが,これは大間違いである。東アジア圏でいまも子供に圧倒的な人気を誇るのは藤子・F・不二雄氏のドラえもんである。しかし,ドラえもんは欧米では決してヒットしえない。幼児的な快不快原則を大人になっても持ち続けることを良しとするのは東アジア圏に限られるためである。
快不快原則での判断そのものは,もちろん誤りではない。善悪に偽装し,単純でわかりやすい基準を作ってそれを押しつけるNHKに代表される文科系の論理が問題なのである。
著者注)ドラえもんの議論はマンガコラムニスト夏目房之介氏の見解を参考にした。
【00/01/17】遺伝子組換え作物部分を一部加筆
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