●食品の安全と安心;安心とは快感である。

昨今,食品の安全と「安心」という表現が多用されている。たとえば,「同じ有機栽培のコメでも生産者の顔写真が貼ってあれば安心だ。」,「完全無農薬栽培のタバコだから安心だ。」,「米国産の牛肉が国産牛に擬装されていたのでは安心して買えない。」などである。このように,安心は安全の上位概念としても下位概念としても別概念としても使われている。私はこれら安心の概念の共通項を「気持ちがよいこと」だと考えている。

【03/01/05】

最近,「安全と安心」という表現がやたら目に付く。以前は,単に「食品の安全性」という表現だったが,牛肉擬装事件以降この表現が多用されているように思える。

同じ有機栽培のコメでも生産者の顔写真とコメントが貼ってあれば安心だという。消費者は,有機栽培という記載だけでは安心せず,それを担保する何らかの付加情報があってはじめて安心感を得る。つまり安全な食品があり,これに対する何らかの付加的な情報によって消費者がそれを安全と確信することが安心になる。この例では,安心は安全の上位概念になる。

しかし,安心を安全であることの認識と考えれば,たとえ安全ではなくとも安心は得られる。「完全無農薬栽培の健康によいタバコ」がこの典型である。これほど極端でなくとも「有機栽培の珈琲」もこの類である。コーヒーがいかに多くの発癌物質を含んでいるか知っていれば,「有機栽培の珈琲」は「無農薬栽培のタバコ」と同程度の噴飯物と気付くだろう。もともと「無農薬だから安全」も妄想に過ぎない。普通の食品が含む発癌物質は農薬の発癌性を最大限見積もってもその4桁以上大きい。

安全が客観的な状態,安心がその評価なら感情的な安心客観的な安全性より下位の概念であることは明かである。しかし,「有機栽培の珈琲」のように,たとえ客観的に見て安全でなくとも消費者は安心し,その一方で,「農薬を基準通り使用した農産物」のようにたとえ客観的に安全であっても消費者の安心は得られない。

米国産の牛肉が国産牛に擬装されていたとの報道を聞いて,ある消費者は「これでは安心して買えない」といっていた。米国産の牛肉を国産牛と偽っても直接安全性にはかかわらないが,それでは「安心して」買えない。この場合の安心とは安全性ではなく「値段に見合う価値」という問題だろう。この例では安心と安全とは別概念になる。

以上3つの例に示した安心の概念の共通項は何だろう。私はそれを「気持ちがよいこと」だと思う。快・不快の快である。日本人は幼児的な快不快原則を大人になっても持ち続けることを良しとする希有な国民性を有している。そして,その感情は原始的であるがゆえに強い。正義(安全)より快不快(安心)を優先させることに何のためらいもない。

安心は便利な概念でもある。なにしろ,安心は快感であり,個人的な感情であるから理由を客観的に示す必要がない。かくして,安心という不思議な概念が育てた「消費者ニーズ」という妖怪が日本を席巻し,怪しげな「無農薬野菜」の氾濫を招いている。

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