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©Webmaster Akira Asakura.

■ Neurotique ■

 

  

 

デスクにあるマイクに顔を寄せ、赤いスイッチを押す。

「徳田さん。徳田重三さん。2番の診察室にどうぞ」

マイクを切った田村は何度も咳払いをした。まだ午前11時だというのに、早くも声が掠れる。外来の患者が日を追うごとに増えており、40歳半ばを過ぎた田村も最前線での重労働を強いられていた。

診察室のドアが開き、グレーの作業服姿の男がのそのそと入ってきた。初老で赤ら顔の彼が斜めに会釈をする。目の前の丸椅子に腰を下ろすやいなや、ガホゴホと咳き込んだ。

なんとなく嫌な予感を覚えながらも、問診票と白紙のカルテをデスクに広げる。

「お辛そうですね。どうしました?」

すると徳田氏が唸るように痰を切った。

「最近やたらと身体がだるいんです。微熱も続き、節々が痛みます。やる気も起きず、頭がボーっとします。尿のキレが悪く、妻を見るとグッタリします」

やっぱりそうか――とため息を漏らし、田村は相手を傷つけぬよう優しく微笑んだ。

「風邪です。あったかくして寝て下さい。お大事に」

カルテに「風邪」と書き込んで、徳田氏にクリアファイルを手渡す。そしてすぐさまマイクに顔を寄せた。

「鈴木さん。鈴木みちこさん。2番の診察室にどうぞ」

「ち、ちょっと先生。待ってください!」

徳田氏はあわてふためいて田村の二の腕を掴んだ。

「私はうつ病です。いや、不安神経症かも。とにかく大変なんです。治療をしてください。でないと会社が――」

「ほう。会社が、なんです?」

苦笑いを向けると、徳田氏は言葉を濁し、顔を背ける。一方の田村は、あくまで穏やかな口調で患者の説得をはじめた。

昨年の末から、中小企業を支援する特別処置法が施行された。つまり経営者が心身を病んでいると医者が認定した場合、代理人を選ぶための相当な期間だけ「借金の返済が猶予される」――というものである。これは労働者が病気で入院した場合、会社は勝手に解雇できない――という保護政策を企業体にも反映させたものだった。

それまでの景気対策といえば、金融庁を中心に行われてきたが、どれも官僚の自己満足でしかなかった。ところが厚生労働省が抜本的な医療改革を断行すると、やがて景気がめきめきと上向いた。病魔におそわれ、一度は人生をあきらめた国民たちが、次第に元気を取り戻す過程で、新しい幸福観と人生の喜びを手に入れた。この喜びこそが経済を活性化させ、かつての強い日本が戻ってきたのだ。

こうして国民が活力を取り戻す反面、制度を悪用する者が後を絶たず、どこの病院も患者で溢れ返るようになった。田村の所属するM大付属病院精神科にも、金策に困った経営者たちが押し寄せてくる――。

田村はどうにか徳田氏を追い払うと、次の患者の診察に移った。

――23歳のOL? どうせ便秘症か、はたまたカード破産のたぐいだろう……

苦笑いを浮かべながら自覚症状や家族構成などを聞きはじめた。

その刹那である。いきなり彼女が席を蹴った。

「チキショウ。ここにもいたか!」

目尻を吊り上げ、キンキン声で叫び、座っていた丸椅子を振り上げた。

「あたしを尋問しようとしても無駄よ! さてはアンタ、モサドの春日部支部員ね。いいえ、その田舎臭さはウズベクの旧KGBだ! アタシは負けない。北方領土バンザイ!」

田村は悲鳴をあげ、あわてて身を屈めた。勢いよく投げられた丸椅子が壁にぶち当たり、床で何度も跳ね上がる。

「ほ、本物。しかもパラノイアだ!」

咄嗟にデスクの非常スイッチを押す。奥の部屋から屈強な看護士たちが飛んできた。彼らは一斉に踊りかかり、暴れ続ける彼女を押し倒して羽交い絞めにした。

「おい! 彼女は本物なんだ。しかも日本では珍しいパラノイアなんだ。こんなことは滅多にあるもんじゃない。おもてなしの心で頼むぞ!」

貴重な症例の患者と出会うことは、これすなわち素晴らしい論文が書けるということである。医師の出世と成功のカギは患者の症状が握っている。

「このまま騒ぎ続けたらどうします?」

看護士は、奇声をあげながら大根足をバタつかせる彼女を、どうにか壁際の診察ベッドに押さえ込んだ。

「仕方ない。クロルプロマジンを少しだけ投与していいよ。ただ、ホンのちょっとだぞ」

 

夜八時すぎ、ようやく入院患者の回診を終えた田村は、研究室のソファーにドッカリと腰を下ろした。

目の前には、勝手に入室していた大腸製薬のMR(営業マン)がニヤけ顔で座っている。まだ三十前にもかかわらず、彼の頭髪はまるで作りかけのスズメの巣のように閑散としている。

「一週間前の中央薬事審議会で、第11製薬の『ムナシイ』が承認されましたよ」

彼はあざけるような笑みを浮かべ、コーヒーとヤニで黄ばんだ歯を剥いた。

『ムナシイ』とは『レボドパイヤン674』の隠喩である。末尾の数字を読むと『虚しい』と読めるので、他社のMRらはこう呼んでバカにしていた。

「先生もご承知のとおり、あの薬は従来の向精神薬『レボドパ』とまったく変わりません。それなのに薬価だけはやたらに高い。つまり厚生官僚と第11製薬の陰謀なのです」

「さもありなん」

田村は笑った。日本には昔からそういう薬が蔓延している。

なにしろ日本の承認制度はWHOや先進各国から「バカ承認」呼ばわりされており、毎年数兆円規模の健康保険料がたいして効果もない新薬に消えてゆくのだ。あげくに副作用情報は厚生官僚の手で次々と消されてゆく。

1970年代のクロロキン問題の時も、製薬課長は副作用情報を掴むと、自分だけ服用を止めて国民には情報を流さなかった。なぜなら薬害がバレたら、承認した責任を追及されるし、なによりも製薬会社からお小遣いが貰えなくなる。それはいまでもまったく変わらない。官僚にしてみれば、顔の見えない国民よりも、銀座のママや援助交際相手の機嫌の方が大切なのである。

「しかしですね、先生」

MRは薄く縮れた頭を撫でながら身を乗りだした。

「ウチの新薬『リッタリランB』はまったく違いますよ。ついに人類最大の敵であるうつ症を克服する時がやってきたのです」

MRは、池袋のバッタ屋で買ったという安物のショルダーバックから分厚い書類を取り出した。

「我々は神経芽細胞の分裂促進を統率できる薬効成分を発見しました。これにより破壊された部位の再生はもちろん、アポトーシスによる細胞死も防げるのです。つまり発見した成分は、ニューロン細胞膜上のサイトカインを受け取るレセプターに対してアンタゴニストとして機能することにより――」

露骨にレポートを朗読しはじめると、田村はウンザリしたようにうな垂れた。膝の上で爪の垢をはじいたり、薬指の匂いを嗅いだりして、MRが帰るのを心待ちにしていた。

「――ということで、『リッタリランB』も治験認可を受けました。そこでフェーズ・ワンから先生のところでお願いしたいのですが――先生?」

部屋の時計を眺めていた田村はあわてて向き直った。18分20秒――彼のつまらぬ朗読のせいで、それだけ貴重な休息時間が消え失せた。

「しかし分裂病の患者に――その――『タリラリラン』なんて与えたら、それこそタリラリラーンになっちゃうんじゃないの?」

田村が膝を叩いてバカ笑いをすると、MRはキョトンと目を丸くした。

「違います。『リッタリランB』です。BなんですB」

あまりに素っ気なく返され、すっかり気勢を殺がれた田村は、取り繕うかのように咳払いなどをした。

「はあ――。それで前臨床実験(動物実験)での毒性や副作用の報告は?」

「ありません。まったくありません」

「まったくないだと?」

田村はあからさまに嘲笑を浮かべた。まともなMRなら、間違ってもそんなことは言わぬものだ。前々からおかしいとは思っていたが、どうやらやはりバカである。

「馬鹿をいうな。話を聞けば、神経細胞を増殖させてニューロネットを広げるのだろ? それなら内臓器官を統率する自律神経に影響が出るのは当然だ。それだけじゃない。認識系や運動制御系にだって様々な干渉作用が起こって――」

「出ません。出ないのです。出ないから画期的なのです。素晴らしいのです」

MRは確信犯的にうなづいて、鞄から大きな白い箱と膨らんだ茶封筒を差し出した。

「これはアンプルの箱。そしてこれは当面の軍資金ということで」

テーブルに載せられた茶封筒に目を落とすと、その厚みから200万程度だと目測した。

「効果を比較するプラセボ(偽薬)はどうすんの? 厄介な計画管理は誰がするの?」

「それはすべて先生にお任せします」

MRはさらに茶封筒を出した。先のより少し厚いところから300万程度と知れた。合計500万――まあ、中小の大腸製薬にしてみれば、ひとまずこれが精一杯であろう――と田村はうなづいた。

その後、MRは「検討会」と称して夜の歓楽街へ行こうと誘って来たが、田村はいつものように辞退した。

うっとうしいMRをどうにか追い払った田村は、机の中からピルケースを取り出した。手の平に小さな錠剤を転がして、深いため息を漏らす。

――俺はなんで精神科医なんかになっちまったんだろう。もう二十年以上もやってるのに、薬がなければ自分さえコントロールできないってのに……。

たび重なる激務のせいで、多くの精神科医が病んでいた。田村もご多分に漏れず、軽い神経症と内臓疾患を併発し、数年前からいくつかの薬物の世話になっていた。その僅かばかりの副作用が、田村の夜のお楽しみを奪い去っていた――。

 

翌日の休診日、軽めの昼食を済ませた田村は、昨夜に大腸製薬が持ってきた新薬を抱えて特別棟へと向かった。

一度管理室に顔を出し、看護士と一緒に二枚の鉄格子をくぐる。全面がアイボリーに統一された通路を歩いてゆき、奥にある111号室の前で立ち止まった。

田村が覗き窓から中をみると、左隅にあるベッドの上で、若い男が元気よく飛び跳ねている。彼はいまだに名前すら分からぬ分裂病患者だ。二年ほど前、鉄道警察がわいせつ容疑で逮捕したのだが、所持品もほとんどなく、症状が進行していたため身元すら判明しなかったのである。

この病棟には、そんな患者が少なくない。だから新薬の治験を行う場合も、親族などと煩わしい合意契約を行わずに済んだ。はじめは良心が痛んだものの、部長に「あくまで患者を助けるためだ」と"呪文≠かけられ、いまではすっかりその気になってしまった。

「こんにちは」

田村がドアを開けると、男はベッドの上で跳ねながら笑顔を向けた。

「おう、母ちゃん。久しぶりだな。元気か?」

田村は慣れた様子でうなづいて見せる。彼は「ちょっと待ってろ」と言いながら、ニ、三度大きく跳ね上がった。

「よいしょ、よいしょ。ドッコン、ガッコン! よーし、しゅーりょー!」

彼はゆっくりと上半身を伸ばして大きな伸びをした。

「今日だけでも50メートルは掘ったぞ。そろそろ温泉にでもぶち当たるかな?」

ベッドの脇に腰を下ろした彼は、田村に向かって親指を立てた。田村も同じ仕草でそれに答える。

彼は自分をボーリングマシ−ンだと思い込んでおり、毎日せっせと石油や温泉を探して掘り進んでいる。なかなかアメリカンドリームな症状である。

しかし自身の記憶は断片的で健忘も激しい。会話も支離滅裂でつながりがない。ときおりなんの前触れもなく昏倒することもあるが、比較的大人しい部類の患者である。そして田村を実の母親だと思っている。

「仕事は順調そうだね。油はちゃんと注してるのかい? 固い岩盤には注意するんだよ」

田村はいつもの母親役を演じながら、彼の横に腰掛けた。そして僅かな隙を見るや、彼の首筋にガンタイプの注射器を押し当てた。

圧縮された薬剤が打ち込まれると、彼は小さく飛び上がった。そして違和感を覚える首筋に手をあてがい、わずかに湿り気を帯びた指先をまじまじと見つめる。次第にその目が、血に飢えた、野獣のそれになってゆく。

――まずい。興奮させたか!

あわてた田村は白衣のポケットを手繰り、鎮静剤を用意した。

だが次の瞬間、彼はニヤリと笑い、コテンと横向きに倒れた。

「はっ?」

予想もしていなかった反応に、田村は唖然とした。しかし急いで彼の顔を覗き込み、聴診器を当てる、特に異常は見当たらない。彼は幸せそうに頬を緩め、健やかな寝息まで立てはじめた。

 

それから三日後、田村は大腸製薬のMRを呼び出した。

鳥の巣頭のMRが飄々と現れると、すぐさま特別棟の111号室まで連れて行った。

「アレが新薬だと? ふざけるな。なんの効果もないばかりか、貴重な患者を失ったらどうしてくれる! もう三日も昏睡状態が続いているんだぞ。治験計画書では投薬量が10ミリとなっていたが、あえて3ミリに抑えて正解だった!」

田村はここぞとばかりに捲くし立てた。一方のMRは頑固にかぶりを振り続ける。

「さっきから言っているじゃないですか。それはいい兆候なのです。ニューロンネットワークの再構築化が進んでいる証拠です。間違いない。私は正しい。なにしろ私は主任に出世したんです。偉いのです」

「ふん。せいぜいいまのうちだけ主任風を吹かせておくんだな。会社がこの事実を知ったら、降格どころの騒ぎじゃ済まないぞ!」

憤然とした田村が病室のドアを開け放ったときである。まるでそれを待っていたかのように患者がムックリと起き上がった。

「おい。さっき髭面の看護士に聞いたが、俺は病気なのか? 俺はいつからここにいるんだ。癌か? エイズか? それとも直りかけのインキンタムシが再発したのか?」

田村は絶句した。

以前はギラギラと見開かれていた患者の目が、いまでは落ち着いた輝きを湛えている。

試しに問診をはじめてみると、彼は見事に、的確に答えてのける。あげくに自分の素性を語りはじめたのだ。急いで看護士に身元の確認をさせると、果たして家族が見つかった。

ひと通りの診察を終えた田村は、彼を一般病棟に移す手配を済ませてから、MRのニヤけた顔をまじまじと見据えた。

MRは勝ち誇ったように黄色い歯を剥き、馴れ馴れしくも田村の肩に手を回した。

「さあ先生、レポートを書きましょう。これから先生が書いたレポートは最も権威あるサイエンス誌を飾るのです。学会の寵児です。勲一等です。天然記念物です」

「ちょっと待ってくれ!」

田村はMRの手を払い退けたが、その顔は興奮で紅潮していた。

「本当に疾患で破壊された組織が回復されたのか? 他に効果はあるのか?」

「あります。もちろんあります」

MRは安物のショルダーバッグをゴソゴソとやると、また例の書類を取り出した。

「『リッタリラン』の効能は、それこそアスピリン並みに広範囲に及ぶものです。例えば『リッタリラン""』は、特に疲弊が激しいニューロン群だけを局所的に活性化させます。破損した部位には特有のアミロイドが沈下しますが、それを標的に薬効成分を誘導して――」

すると田村は話の途中でMRの胸倉を掴みあげ、ひとこと「寄越せ!」と叫んだ。

「し、しかし、Cはまだ一般毒性研究の段階でして、治験申請は当分――」

「やかましい!」

田村はMRの顔に向かってツバを飛ばした。

「いいから今夜中にワンケース持ってくるんだ。どうせ治験承認などは形式審査だけだ。それに――中薬審はもはや、お前ら製薬会社に買収されたも同然だろうが!」

田村は製薬事業のすべてを憎悪するように睨みつけた。しかしMRは満足げにニヤリと笑い、「じゃあ後で」と田村に会釈を向けた。

 

「素晴らしい! 実に愉快だ!」

夜の歓楽街で、田村は大腸製薬のMRとこの世の春を謳歌した。

――あれから田村はリッタリランを次々と手持ちの患者に投与してみた。すると自傷癖の女性が自分で赤チンを塗り、破瓜型の分裂病患者が看護士と一緒にクロスワードパズルを楽しむようになった。

効果の程度はまちまちであるが、なにしろ副作用がまったくないというのには驚いた。要は壊れた部分を自分の組織で補うため、従来のように強引で、強烈で、せっかちな薬理作用を必要としないのである。

それを充分に確かめた田村は、効果が緩い「C」を自分に試してみた。

数日間ほど頭がボンヤリして便秘がちになったが、4日目の朝、田村に顕著な変化が現れた。さながら青春時代のようにスッキリと目覚め、身体の底から鋭気が溢れてきたのだ。朝食が驚くほど旨く感じるし、小鳥の囀りがトルコ行進曲に聞こえ、世界が自分の活躍を待っている気がしてならない。

なによりも嬉しかったのは、減退していた男性機能の復活である。ひとまずキッチンで妻を押し倒し、ウヒウヒと額に汗すると、すっぴんでスルメのような妻を相手に目的が果たせた。

「良美を抱けた! これこそ現代科学の大勝利である。奇跡である! こうなりゃヤギでも駄菓子屋の婆さんでも持ってこい!」

田村は喜びのあまり、大腸製薬から渡された軍資金を元手に、毎晩のごとく夜の街へと繰り出した。なにしろ一度は諦めた「夜の青春」が戻ってくると、田村は歓喜に咽び泣き、中年男の浅ましさを剥きだしにした。長いこと妻に無駄撃ちしてきた分を取り戻そうと、若い娘を相手にして、金に物を言わせて自分もヒイヒイ言った。

やがて金がなくなれば、試験薬を大学関係者らに単位10万で売りつける。

薬がなくなれば、大腸製薬に「落としちゃったからもう一箱」と言えば簡単に手に入った。なにしろ田村は治験の責任者である。いくら中薬審が買収されているとはいえ、国民の手前、治験報告書は必要不可欠なのである。

ともかく田村は、小心者で愚図なMRを丸め込んで薬の横流しをはじめた。

学内はもちろん、噂を聞きつけた芸能人や知識階級はこぞって『リッタリラン』に高値をつけ、奪い合いが始まった。仕事の浮き沈みが激しい彼らは、多かれ少なかれ精神を傷つけている。とはいえ彼らが真っ先に注目したのはあくまで回春作用であった。血管拡張剤のように循環器系に負担がなく、ごく自然に"絶倫"になれることから、いまや上流階級の秘密クラブではリッタリランは欠かせない存在になった。

こうなるとさすがにMRは顔を青くした。

「こんなことが他社に漏れたら申請手続きが潰されてしまいます。そうなれば会社はクビ。横領で訴えられます。被告です。絶対絶命です。私の命運と毛根が尽きてしまいます!」

行きつけの高級クラブで、MRは悲鳴を上げた。すでに上機嫌になっていた田村は「バカ言うな」とMRの鳥の巣頭を撫でまわす。

「君はそういうところが青いんだ。いいかね、こうなったら適当なバイヤーを使って闇ルートで大いに売らせるんだ。会社の製薬部門にも金を握らせて、適当な分量をゴマかして製造させろ。とにかく派手にバラ撒いちまうんだ。そうすれば市場でまったく別のドラッグとして認識される。いつの時代も、新しいドラッグはそうして生まれた。その一方で、立派な医薬品として活躍しているものが多くある」

MRはふんふんとうなづいた。

「そう言えば昔、先輩からそんな話を聞いたことがあります。さすがは先生。生き字引。イボ痔持ち」

二人はクラブを後にすると、夜の歓楽街で「ニューロン万歳! タリラリラーン!」と星空を仰いだ。

 

それから一年後、田村の仕事はリッタリランの処方箋を書くだけとなり、診察が必要な患者はほとんどいなくなった。

すっかり暇を持てあました田村は、待ち合いロビーから新聞を持ってきて、診察室でゆったりと広げた。

『遂に逮捕者:リッタリランの粗悪品「ポコペン」を密売していた中国人5人を逮捕。麻薬取締法改正に伴い「ポコペン」も検挙対象になったが、逮捕者はこれがはじめて』

田村は思わず大笑いした。

そもそも「ポコペン」はリッタリランそのものである。しかしやり手のバイヤーがさらにアッパー効果をつけたため、すっかり別物として定着したのだ。このお陰で田村の横流しはすっかり隠蔽された。アッパーデザインの方法を流したのは、もちろん鳥の巣頭のMRである。彼自身はとんでもないバカだが、金で優秀な開発担当を釣るという智恵を働かせてみせた。

『これも新薬効果?! 国際経済指標で、日本はアメリカ・EUを抜いて独走!』

驚異的な速さで承認されたリッタリランは、瞬く間に医薬品市場を席巻した。

その波及効果は壮絶であり、高い薬価にもかかわらず、国民はこぞってこれを手に入れた。特に受験生やサラリーマンには「C」が売れた。勉強で疲弊したニューロンを活性化させるために、成績が飛躍的に上がるからである。その場合、絶倫効果が副作用になり、わいせつ犯の検挙数と腹上死の数がうなぎ登りになった。青少年の腹上死は社会問題となり、各教育委員会はリッタリランの販売中止を求めたが、運動を推進していた委員らが次々と援助交際を告発され、うやむやにされた。彼らに援交を持ちかけたのは、他ならぬ製薬会社の法務担当であり、教育関係者特有のエゲツない欲望を掻き立てるだけで事が済んだ。

「こんちわ」

ノックもせず、いきなり大腸製薬のMRが顔をだした。

彼はレーザー治療で漂白した白い歯を剥き、最新技術で植毛した黒髪を自慢げに撫で上げてみせた。

「おい、これを見ろよ。もう尋常じゃなくなってるぞ」

田村はゲラゲラと笑いながら新聞広告を指さした。

「うわぁ! 『青汁浣腸ダイエット』に『なまこエステ』っすか。こりゃあ、痩せるどころかヤツれそう――」

ニヤケ顔を浮かべ、丸椅子に腰を下ろしたMRは、左手首を飾る純金製のオメガをクルリと回した。

「そうそう。いま女子高生やOLは『ハミ毛ファッション』でキャーキャーです。鼻毛用エクステなんかが飛ぶように売れてるそうです。脱毛時代は終りました。ムダ毛万歳。ハミ出てなんぼ」

「いい加減に気がついてもよさそうだけどな。これがただの躁状態だってことに――」

田村は首の周りを撫でながら苦笑いを零した。

リッタリランの効果は絶大だったが、脳細胞の増殖という恩恵を人間は使いこなせなかった。次々と思いつきでムダなものを製造し、値札を貼った結果、バカみたいな特需が続いている。それはまさに20世紀末のバブル好景気と同じであり、正当な価値がない「思い込み景気」はいずれ破綻する。そうなれば、また暗いうつ病時代に逆戻りである。

それに気づいた田村はすぐにリッタリランの服用を止めた。

一方、服用を続けた連中は極度の躁病態に陥り、自分を天才だと思い、西から昇ったお日様が東へ沈むと言い出した。それがエリート層だったからたまらない。くだらぬ「げーじつか」や「ひょーろんか」を重用し、まともな人間をすっかり駆逐したのだ。政治と経済は、すべて躁病のインテリゲンチャに支配され、それが意味不明の特需を支えている。もし彼らを数珠繋ぎにして日本海溝に沈めることが出来れば、日本も正気を取り戻せるのであろうが――。

そんな渦中でも、この大腸製薬のMRは、一度もリッタリランに手を出そうとしなかった。彼は見るからに凡庸で愚鈍な人間だったが、薬の力を借りずとも適当に人生を楽しめるタイプのようである。田村や世間のエリートたちが狂って行く姿を見て、なんと彼は腹を抱えて笑い転げていたのである。それで田村はようやく気がついた。知識層やエリートたちがこぞって小バカにしているこんなタイプの人間こそ、実は世の中を仕切っているのかも知れない――と痛感させられた。

その彼が、シャネルのスーツケースから水色の箱と茶色い封筒を取り出した。

「先週、第11製薬が抗躁剤『ヤルキネー・ベータ』を発売しました。ヤツらもバカじゃなかったですね。極秘のうちに『リッタリラン』の次世代薬を研究していたようです」

「なんだ、その腰くだけな薬は?」

「ええ。要はうつ状態を起こして躁状態と相殺するというものです。特定のニューロンの再吸収ポンプとレセプターを特殊なアンタゴニストで機能不全にします。するとニューロンの活性が抑えられ――」

「分かったよ。ゴタクはもういい。それでお前さんトコのはどんなんだ?」

「ウチのはレベルが違います。断然違うのです。月とスッポン。ブタに新宿三丁目」

MRは未開封のパッケージを開梱して、小さなアンプルを取り出した。ついでに書類も取り出した。

「これは増えすぎた脳細胞を駆除します。細胞自殺を誘発させるサイトカイン系のデータ蛋白がニューロンに指令を送ります。すると核酸内でエンドヌクレアーゼが起動して――つまり細胞はたちまちバラバラ死体です。猟奇です。捜査二課の出動です」

「な、なんだと!」

これにはさすがの田村も血相を変え、席を蹴り、両腕をわなわなと奮わせた。

「お、お、お前ら製薬会社は、今度は脳細胞を片っ端からブチ殺すというのか! そんな非人道的なことが許されるとでも――」

「大丈夫です。そもそも人間は脳細胞の数パーセントしか使用してません。半分壊しても大丈夫。お釣りが来ます。タバコが買えます。これは見ものだ。ぜひ壊しましょう。やりましょう。ひひひひ」

「き、き、貴様ぁあぁぁあぁぁぁ!」

ついに怒り心頭に達した田村は、白衣の裾を翻し、MRの身体に踊りかかった。MRが「うひっ?!」ともんどり打つと、二人はくんずほぐれつ床上を転げまわる。

「そこまで製薬会社の好きにさせてたまるか! 俺は人間だ! みんなも人間だ! 妻は――多分、オメガ星人だが、お前の好きにはさせんぞ!」

「ちょっと先生! 毛は、毛は抜かんで下さい! 後生です。堪忍です!」

「じゃかましい! 俺は医者だ。みんなを守る義務があるんだ。むひょおぉおぉ! それ、千切っては投げ、千切っては投げ!」

その時である。いきなり診察室のドアが開いた。

ある青年を筆頭に、数名の若者らが闖入してくると、彼らは転げまわる田村とMRの仲裁に入った。

 その青年の顔を見た途端、田村の怒りはいっぺんに吹き飛んだ。「どうも」と頭を掻いている相手は、分裂病のボーリング男だった。その後ろにいる連中を見ても、スパイ妄想女やクロスワード男など、いずれも特別棟にいた患者である。彼らはいずれもリッタリランのお陰で社会復帰を果たしていたはずだ。

ボーリング男が、唖然とする田村とMRを座らせると、さっそく来訪の理由を告げた。

「ボクら、先生の治療には感謝してます。けど、いざ社会に戻ってみたら、あの狂乱振りにはとてもついてゆけません。あれなら病室での静かな暮らしの方がマシです。お願いです。元の暮らしに戻してください。でないと頭がおかしくなりそうなんです。あんなのは人間の暮らしじゃない!」

田村はポカンと口を開き、MRは椅子からズリ落ちた。

「ま、待ちたまえ。もうすぐ新薬が承認させる。つまりもうすぐ社会は沈静化するのであり……」

そう言って宥めてみたが、一同は申し合わせたかのようにかぶりを振った。

「もういいんです。沈静化したところで社会はマトモにはなりません。そもそも私たちが自分の中に逃避したのも、社会が尋常じゃなかったからです。どっちに転んでも暮らし辛いことには変わりません。さあ、私たちを元の病室に戻して下さい」

一同にズイと詰め寄られ、田村は思わずたじろいだ。それでも田村は「せっかく治ったのだから」と懸命に説得を続けたが、彼らが応じる気配は微塵もない。それどころか、回答を延ばし続ける田村に対して、一同の視線が鋭くなった。スパイ妄想女は唇を血が滲むほど噛み締め、クロスワード男がキシャーと奇声をあげる。

「先生、やばいです。あげましょう。この『フヌケソコノK』を。それで元の鞘に納まります。多分、きっと、もしかすると、ひょっとして――」

すっかり怯えたMRは、田村の袖にしがみついた。

田村は深々と嘆息を漏らすと、仕方なしにデスクの中から注射器を取り出した。そして大きな失望感を覚えながら、順番に試験薬を注射してゆく。

リッタリランは愚かな薬ではあったが、彼らに対しては正しい効能を発揮したはずだった。しかし社会自体が狂ってしまえば、せっかく取り戻した「正常」が無用の長物になってしまった。医師として、これほど虚しいことはない。

田村はアンプルを装填し直して、最後にボーリング男の首筋にあてがった。

「俺はまた君のお母さんになるのか――」

「お母さん? ボクはそんなことを言ってたのですか?」

薬剤が打ち込まれると、彼は眉を顰め、首筋を撫で回した。

「それで君は幸せになれるのかね?」

机上に注射器を置いた田村は、彼の検診をはじめた。

「――分かりません」

そう言って彼はうつむいた。田村は彼の顎先に手を伸ばし、口腔内を覗き込んだ。

ひとまず診察を終えると、彼が続けた。

「結局、社会は先に狂ったもん勝ちなんです。私たちはすっかり出遅れました。今度は躁病ではなく、分裂病が蔓延する時を待ちます。この調子なら、あと一、二年の我慢でしょう」

彼は冗談のつもりで笑ったが、田村とMRは顔を見合わせ、ゆっくりとうなづいた。

 

― 了 ―