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ワイズ出版≪日活1954-1971 映像を創造する侍たち≫より、西河克己監督の和田浩治さんの思い出です。

あくまでも和田浩治さん再評価を目的とした重要な資料としてここに紹介しますが、
関係者の方々よりご指摘をお受けした際にはすみやかに削除、訂正等を致します。

ヒデ坊の思い出

西河克己

 和田浩治が15歳でいきなり抜擢されて主役の座についたのは『無言の乱闘』であったが、実はその前に、赤木圭一郎の抜擢問題と深い関係があった。

 昭和34年『若い傾斜』の製作に当たり、当時映画担当重役であった江守常務と私との間で「首をかける、かけない」の大論争があった。『若い傾斜』の主役は、当時の日活ではB級スターの「S」が予定されていた。私は、それを嫌って無名の大部屋俳優の赤木圭一郎を使いたいと言った。

 江守常務は烈火の如く怒って「そんなにやりたいなら、西河君、首をかけてやれ!」とケンカ別れになった。

 やがて『若い傾斜』が完成して試写が行われたときに、江守常務は、「おい西河君、写真は面白くなかったが、凄いスターが生まれたなァ」と大声で言い放った。そして、「S」に予定されていた主演作品のすべてを、赤木圭一郎の主演に切り替えてしまった。

 私は江守常務の豹変ぶりに驚いたが、それをきっかけにして、新人俳優の売り込みがあると、江守常務はきまって「西河君に会わせろ、西河君がOKしたら、契約してもいいよ」という態度を固執するようになった。これには閉口した。
 その第一号が、和田浩治だったのである。

 当時はヒデ坊(本名ひでお)は15歳、身体も大きいが態度も大きかった。ただ当時大人気の石原裕次郎にどこか風貌が似ていること、物おじしない態度はいかにも日活らしく、得体の知れない面白さが感じられたので、私はOKを出した。

 和田浩治の最初の作品は、『無言の乱闘』(昭和34年)であった。私はこの題名が嫌で、度々会社に抗議したが聞き入れられなかった。この作品は準備段階では『練鑑ブルース』であった。

 この哀歌はもともと兵隊仲間で歌われていたものの替え歌で、いつの頃からか、有線放送や、盛り場の流しの間で流行しだした、詠み人知らずの歌であった。従って、レコード化される時も数社の競作として発表された。

 コロムビアは、当時、「堀威夫とスイングウェスト」のバンドボーイをしていた守屋浩の歌で売出した。そのレコードを携えて堀威夫氏が私の家を訪れ、今度の作品にはぜひ守屋の歌を使って欲しいと言った。それが縁で、私は銀座のジャズ喫茶「ACB(アシベ)」に行った。

 守屋浩は「スイングウェスト」のメンバーの楽器をバスから降ろしたりしていたが、私が行ったので、堀威夫氏は、守屋浩をステージに上げて、「練鑑ブルース」を歌わせた。

 私はその時、守屋浩が予想したより、スラリとした青年であったので、堀威夫氏に、歌もさることながら、姿もサマになっているので、画面に出してみたらと言った。「それは結構なお話で……」ということで、守屋浩は、次回作の『六三制愚連隊』から和田浩治の相棒として出演することになった。

 これが、和田浩治の作品には必ず守屋浩が出るというパターンを作ることになった。

 こうして、私は和田浩治主演の映画を連続して8本も作ることになり、『ギターを持った渡り鳥』の後をついて歩く『ランドセルを背負った渡り鳥』のようなシリーズを日活ダイヤモンドラインに乗せることが出来、役目を終えた。

 ヒデ坊(撮影所内ではそう呼ばれていた)の主演作品は、「小僧シリーズ」などどれも他愛のない劇画のルーツのようなものであったが、私は結構楽しみ乍ら作っていた。

 その中には、批評家から「日本映画史に残る珍名作」と書かれるものも生まれた。
『俺の故郷は大西部』(昭和35年)である。

 私が大変気に入ったのは、こう云う場合「珍迷作」と書かれるのが普通であるが、これは正しく「珍名作」と書かれていたので、私は大満足であった。私の作品には外に名作と呼ばれたものは全く無かったのである。

 ここに、その「珍名作」のストオリイを紹介すると、いわゆる『OK牧場の決斗』(57)のワイアット・アープの子孫と、クラントン一家の子孫とが、東京の銀座で出会い、富士の裾野の「O・Kawa牧場」で決闘するというもので、はじめの一巻はテキサス(史実はアリゾナ州)の場面で、勿論英語の会話であり、画面横に日本語の字幕スーパーが出るという趣向であった。

 バカバカしい話であるが、私は内心この作品が気に入っていて、ビデオが発売されないか心待ちにしているのだが、和田浩治が若くして亡くなったので、多分、私の希望は入れられないだろうと、諦めている。


西河 克己(にしかわ かつみ)
1918(大正7)年〜
映画監督。鳥取県八頭郡智頭町生まれ。1952年、松竹『伊豆の艶歌師』で監督デビュー。1954年日活に移り、『若い人』『青い山脈』『伊豆の踊子』『エデンの海』『帰郷』などの作品を監督。1969年日活退社後は、TVおよび東宝作品などで
活躍。そのかたわら日本大学芸術学部講師として教鞭をとる。

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