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ムービーマガジン1980年8月号掲載の、日活映画評論の第一人者である渡辺武信氏の和田浩治論です。

あくまでも和田浩治さん再評価を目的とした重要な資料としてここに紹介しますが、
関係者の方々よりご指摘をお受けした際にはすみやかに削除、訂正等を致します。

少年スターから男の哀愁へ
和田浩治の20年――

渡辺武信


 59年暮、『無言の乱斗』という少年鑑別所を舞台にした比較的地味な映画で、まだあどけない顔立ちの少年がいきなり主演でデビューした。新人にしてはいい度胸だな、と思っていたらアッという間に日活アクションのローテーションを支える主演スターとなり、地味などころか、子どもながら鉄拳や拳銃をふるってギャングをやっつけるという、今風に言えばギンギンの大活躍を始めた。それが和田浩治である。

 アクション映画で埋めつくされていた60年当時の日活には、ダイヤモンド・ラインと称する主演スターのローテーションがあって、和田浩治はその中で石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎に続く第四のスターとして量産体制の一角を支えたのである。しかし熱狂的な日活ファンであったぼくが、映画館へ行くお目あては裕次郎、旭、圭一郎にあり、この第四の男の吸引力は正直に言って稀薄だった。当時大学生だったぼくが、15歳の少年に心情を託しきれなかったのは当然であろう。じゃあ見なかったのか、というとそんなことはないので、なにしろ封切日の毎週土曜日には新宿日活へ行くのが習慣になっていたし、和田浩治の映画はお目当てのスターの作品と組み合わせになっているから、否応なく見ちゃうわけで、見れば見たで、言わばオマケみたいな楽しさがあり、捨てたものではない。

 ほんのガキがギャングに立ち向うヒーローになるというのは馬鹿馬鹿しくも荒唐無稽である。しかし日活アクションは裕次郎や旭の映画にしても、もともと荒唐無稽なところがあるので、和田浩治の映画はその側面を拡大して見せる効果があった。和田浩治の作品群は言わば裕次郎や旭の作品のパロディとなることによって、日活アクションの内部に批評的距離を生じさせたのである。しかもこのパロディが、はじめからパロディでございます、という顔つきでアチャラカに堕さなかったのが良かった。初期の和田浩治の作品群はルーティンどおりながら、きっちりつくられていて、それが裕次郎や旭の同巧異曲の作品と併映されると、おのずから対照の妙が生まれてくる。こうなると、そのおもしろさは、たんなるオマケ以上の独特のものになってくる。

 今でも覚えているのは60年の暮に裕次郎の『闘牛に賭ける男』と組合せて封切られた『俺の故郷は大西部』のことだ。裕次郎の方はヨーロッパ各地にロケした舛田利雄の華麗な大作で、かなりおもしろかったが、その後で1880―TEXASという字幕の下で和田浩治の和製西部劇が始まり、日本の富士の裾野の「大川牧場」(もちろんOK牧場のパロディ)で決闘が始まるとなると、その対照の妙からくるおかしさは絶品であった。しかし、この作品などはつくる方でもかなりパロディを意識しはじめていて、日本風の悪しきアチャラカに陥る寸前にあった。そして意識せざるパロディとしての強みは、意識されると同時に形骸化しはじめる。15歳の少年がギャングに立ち向うことは馬鹿馬鹿しい、とつくる側が意識すれば、それまでのっていた観客も白けはじめるのである。かと言って、一度笑ってしまったものをまた、シリアスにつくりなおすわけにはいかない。こうして和田浩治少年の主演時代はほぼ61年までの2年間で終る。

 今にして思えば和田浩治のアクション映画は日活アクションの黄金時代、いや60年前後という日本映画の一つの黄金時代の象徴であった。なにしろ60年代と言えば新東宝、大映が健在の上、第二東映というものがあって6社7系統が毎週2本立全プロを組み、日本映画界が548本という空前絶後の製作本数を記録した年である。(ちなみに79年の日本の劇映画製作本数は335本。しかしその内大手4社は120本に過ぎない。)こうした量産体制を維持するために一人でも多くの"アクション・スター"を必要とした日活は、一人の少年を強引にスターに仕立て上げようとし、ある程度の成功を収めたのである。こうした背景を考えると、和田浩治という俳優にとって、その短かった少年スター時代が幸せであったかどうかは解らない。しかし当時の彼のあどけなくも颯爽としたアクションには時代の活気を背負った独特の魅力があって懐しく思い出される。

 しかし和田浩治の本来の魅力はおそらくこれらの少年アクション物と別のところにある。少年アクション時代にも既に『峠を渡る若い風』(61)という青春映画の佳作の中で、彼の資質の一端が示されている。この映画で和田浩治の演じる学生はアルバイト先の工場が倒産したため、給料の代りにもらった製品の下着を行商して歩く内に、旅まわりの芸人や香具師と道づれになる。和田浩治はそうした牧歌的な世界の中での奇術師の娘との淡い恋を、アクション映画における彼とはまったく異なるイメージでナイーヴに表現していた。

 少年アクション物の消えた後、とくに64年以降の和田浩治は、アクション映画、任侠映画に弟分のような役でつきあったり、どうでもいいような青春映画に顔を出したりし続けていたが、その中でも時々、あ、これは良いなと思わせる役がいくつかあった。たとえばその一つは『河内カルメン』(66)で温泉を掘ろうとする野心を抱き、幼な友達のヒロインと謀って金持の老人に近づくが、逆に丸めこまれてしまう田舎の若旦那風の青年などは、彼のナイーヴな一面が生かされた役で好演だったと思う。

 日活アクションの末期、彼は『夜の最前線』シリーズなどで久々の主演をし、あの少年もこんなにふてぶてしくなったのか、と感慨をもよおさせたが、それよりも同じ頃、『女番長・野良猫ロック』(70)で組織のバッジが欲しいために幼な友達のボクサーに八百長を強制するチンピラの役が実に良かった。この頃になると彼の容貌には、かつてのあどけなさを残しながらもそこに年輪とも言うべき疲労感が加わり、それが、権力に憧れて自分を捨てようとし、かつ捨てきれない青年の暗い屈折した感情のせめぎあいにふさわしいかげりとなっていた。

 こうして和田浩治のキャリアを追ってくると、彼は陽性のヒーローであるより、内向的な屈折したアンチ・ヒーローとして本来の持味を見せているようだ。最近でまだ記憶に新しいのは『新仁義なき戦い・組長最後の日』(76)における彼の演技である。彼の演じる若いやくざが、功名を焦って自分の妻の義兄である敵方の幹部を殺そうとし、不自由な足が災いして車にはねられて死んでしまう時の哀切感は余人を持って換え難いもので、この場合も、成人した彼の中にいまだに残っている"疲労した少年"の残像がパセティクな喚起力を持っていた。

 彼がスクリーンで体臭のように発散しつつある屈折感は、あるいはかつての少年スターの栄光の座から立ち去らざるを得なかった彼自身の屈折感と、どこかで重なりあっているかも知れないが、そうだとしても和田浩治という俳優はそれをスクリーンの上の独特の存在感に変えることによって、したたかに生き続けているようである。


渡辺 武信(わたなべ たけのぶ)
1938(昭和13)年〜
建築家・詩人・評論家。神奈川県横浜市生まれ。東京大学建築学科卒業後、同大学院修士・博士課程修了。大学院在学中の1969年に渡辺武信設計室を設立(後に法人化)。現在に至る。
映画関係著書に、『映画的神話の再興』(未来社、1979年)、『日活アクションの華麗な世界(上中下)』(未来社、1981・1982年)、『銀幕のインテリア』(読売新聞社、1997年)

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