沖縄飲んだくれ日記・・・久しぶりの更新は突然の最終章

 

 2008年1月11日、夜の9時の那覇空港到着ロビーは3連休を沖縄で楽しもうという観光客と、クリスマス休暇から戻ってきたとおぼしきアメリカさんとで混雑していた。その日の沖縄は春の陽気で、暖かいを通 り越して暑いと感じる程だった。  
「うーん久しぶりの沖縄だ」と伸びをして肩を2、3度回したのだが、何だか気持ちは焦っていた。「ひろさん、久しぶりにこれて良かったね」と嫁が笑顔で言うのだが、「うん」と僕は答えるのだが、体も心も弛まない。季節の時計を早回しした様な沖縄の陽気がそうさせるのではないのは分かっていた。認めたくはないが認めざる得ないある現実が、僕の心をかき乱していたからだ。    
  沖縄に来たという実感がわかないまま、タクシーで宿へ向かった。肌に感じるのは南国の空気で、タクシーの初乗りが420円で、運転手さんが濃い顔でかりゆしウエア姿で、ラジオのパーソナリティーはうちなーぐちで、トランクには三線がむき出しでつまれていて、宿までは何度通 ったか分からないくらい良く知った道で、国際通りの土産物屋の前には悪趣味な人形が立っていて、「そこのすーじー入って」なんて運転手さんに指示したりして・・・・・五感全てに感じるのは沖縄なんだけど、確かにここは那覇なんだけど、そうなんだけど、どうしようもなく寂しくなっていた。  

 夜の道路はすいていて、宿には15分程で着いた。宿は松山にある民宿月桃だった。暖かく迎えられ、『ゆんたく場』で宿の飼い犬と戯れる嫁の横で、僕は泡盛を頂いた。宿のオーナー夫婦と話しをしていると、少し心が落ち着いてきた。台風で濁った海の砂が沈殿していくように。僕はこの宿が好きなのだが、それは心の距離感覚があっているからだと思う。太陽と地球の距離が絶妙な様に、近すぎると砂漠の惑星に、逆に遠すぎると氷の星になってしまう様に。    
  泡盛グラス一杯と自家製梅酒一杯を頂いて、宿を出てタクシーを拾い、運転手に行きさきを告げた。違う場所が喉元まで出かかったのを押さえて「りゅうせき通 り、若狭の交差点手前のおきぎんを右に入って」と告げた。こんないい方を教えてくれたのもあの人だった。

 着いたのはセテール。ここは大阪から移住した乙女の心を持つ元乙女ことtakoさんが営むイカ焼き屋さん。もうすぐ三年になる。沖縄でイカ焼きという発想も凄かったが、成功させてしまったことにはもっと驚かされている。安くて美味しい食べ物と、素敵な店主と、居心地の良い空間があれば、何を売るかは問題ではないということだろう。雨後の竹の子の様に那覇界隈にイカ焼き屋が増えつつあるということを聞いたが、どうやらイカ焼きブームだと簡単に考えているふしがあり先行きが不安だ。そういう意味ではセテールは盤石だし、takoさんもライバルが出来て困ったなんて思いは微塵も無いようだ。
 それどころか「美味しいと喜んでくれればいい」、「イカ焼き業界として大きくなるのはいいことだ」と、まるで経営の達人の様な言葉がポンポンと出てくるから凄いものだ。takoさんには横山ノックの仮面 を被った松下幸之助が守護霊として憑いているのかもしれない。これからも「もー、うちの粉は原価かかってんだから〜」と泣き笑い顔でイカ焼きをプレスし続けることだろう。  
  そんなセテールのカウンターに座り、僕はイカ焼き玉子入りをあてにオリオンビールを飲んでいた。Tシャツに半袖のかりゆしを羽織った格好で。看板の電灯を落としたtakoさんは、僕がお土産にあげた551蓬莱の豚まんをひとつレンジで温めて笑顔でかぶりついていた。その嬉しそうな顔を見て、何だか分からないけどここはまさに沖縄だと思った。イカ焼きと豚まんの匂いの中で。  

 日付が変わった頃に、「昨日も夜更かししてしんどいねん」というtakoさんに地図を書いて貰い、二軒目の店に向かった。takoさんは「もーメチャメチャわかんにくいですからー」と嬉しそうに見送ってくれた。なんでtakoさんの声が弾んでいたかというと、いつも道に迷ってしまうtakoさんは迷い仲間が出来る思うだけでハッピーだったかもしれない。  
  教えて貰った通りタクシーでニューパラダイス通りの JALシティーの裏の駐車場まで行き、道とは思えない細い路地を入るねんいうtakoさんの言葉を思い起こしながら辺りを眺めると、まさにその言葉にぴったりの脇道が見つかった。takoさんの期待に沿えず、あっけなく目的のバーは見つかった。  バーの名前は土(つち)という。看板がなければまったくの民家だ。サッシの戸を開け玄関に足を踏み入れる瞬間にはタイムス取って下さいと言いそうになる位 に普通の民家の趣だった。あまりにも平凡な家ぶりにそのまま上がり込むのはためらわれたので、「こんばんわ」と宅配便の配達員みたいなよそいきの声で中にいるであろうマスターに呼びかけた。すぐに「はーい」と眠そうな声とともにバーのあるじが姿を現した。  

 バーの主の名前というか通称は吾有(ごう)さん。知り合ったというか、初めて会ったのはもう15年近くも前のこと。その時も吾有さんは梅田の路地裏のバーのマスターだった。その頃は2、3度いったきりで、吾有さんと会話らしい会話をした覚えは無く、店名どおりの店の外観と燃えるスルメが印象に残されていた。  
  それから何年後だろうか、ちょっとしたきっかけで再び顔を出すようになった。ちょうどその頃は僕が沖縄をちょくちょく訪れるようになった時期だった。ある夜バーのカウンターでバーボンを飲んでいると、吾有さんが別 のお客さん相手に興奮気味に沖縄の話しをしているのが聞こえてきた。そのころの僕といえば吾有さんと会話することなんてなく、へんな奴と思われ黙ってそこにいることをかろうじて容認されている存在だった。知らんふりして耳だけはその会話に集中させていた。  
  吾有さんの話しは、沖縄に旅行したさいに偶然すごく美味しいお店のとても素敵な大将に会った、という 内容だった。それは何処と尋ねる権利のない僕は、ただただ自分で探すための手がかりを聞き逃さないことしか出来なかった。そうして頭にインプットされた「ひがしまち」、「とんとんみー」、「しまちゃん」とまるで三題噺のお題のようなキーワードを頼りに、僕はあの店とあの人に出逢ったのだった。そしてあの人との今生の別 れを伝えてきたのも吾有さんだった。始まりと終わりの点を打ち、そしてその点を結んだ線の上にも常にいた・・・・吾有さんとはそんな存在なのだ。  
  そんな吾有さんは2003年に沖縄に移住した。そして場所は変われど、素敵なバーを生み出した。初めて座るカウンターでバーボンを飲んだ。一杯目にと決めていたお酒が品切れだったのは残念だったけど、そのおかげで新しいものを知ることもあるんだ。  

 

 翌日は南部に車を走らせた。昼は稲嶺にある玉家で沖縄すばを食べた。僕はテビチそばで嫁はソーキそばだった。あの人は沖縄そばにも詳しく、美味しい店を教えてくれた。そして時には一緒に食べにもいった。主食が煙草とお酒だったあの人は、そばも麺とスープをひとすすりするだけだった。あの人は丁寧にとったカツオ系のダシが好みで、僕の沖縄そばの嗜好も自然とそうなった。玉 屋は、前は通ったけど、2人では行けなかった店だった。  
  どんどん車を走らせる。玉泉洞を通過し、両側にサトウキビ畑が広がる緩やかにカーブしている道を突き当たり、左に曲がると沖縄独特の景色が現れる。それは畑の一画に整然と並ぶ石の家々。向こう側に逝ってしまった人が住む家々。そのひとつにあの人がねむっている。生きているときはほとんど眠らなかった分なのか、早過ぎる永遠の眠りについてしまった島ちゃんが。お墓には何本ものオリオンビールと泡盛が供えられ、線香立てには燃え尽きた煙草が立っていた。僕はちょっとだけお墓を掃除し、持ってきた泡盛の瓶からコップに注ぎ、瓶と一緒に供えた。嫁は線香を立て手を併せてお経を唱えてくれた。僕は嫁の後ろから手を合わせていた。お供え台には誰かが置いていった煙草とライターがあった。煙草に火を着けて立てた。直ぐに燃え尽きてしまったのでもう一本立てた。ただいま島ちゃん、と小さな声で呟いてみた。ただいま島ちゃん、ともう少し大きな声で呟いてみた。もう寂しくて泣きそうだった。季節外れの強い日差しの中で会う島ちゃんは、決して返事をしてくれなかった。こんな所じゃなくて、東町のとんとん味のカウンターで「よーヒロカズ おかえり」と顔をくしゃくしゃにして笑って迎えて欲しかった。いつもそこから僕の沖縄飲んだくれの旅は始まったのに。
 それがもう二度とかなわない夢であることを告げるように、鳥がピピピとさえずった。  

 

 これをもって沖縄のんだくれ紀行はお終いとする。人生にはいくつもの区切りはあるが、島ちゃんとの出会いとは本当に大きな転機だった。島ちゃんがいたこの5年間は僕の人生にとって本当に特別 な時間だった。ありがとう島ちゃん。いっぱいいっぱい愛をくれて。
 でも、あんな形でしか最後に会ってくれなかった島ちゃんにはこう言ってやりたい。島ちゃんのばかと。そして、そんな風にさせてしまった僕の馬鹿と。

 

 

 


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