
江戸時代−町火消しの誕生−
消防団の起源は江戸時代にあるようです。「定火消し」や「大名火消し」などの常設の消防もありましたが、城や武家地重点で、一般の町家のためにはなりませんでした。そこで、町人の町家は町人の手で守るといい発想から1717年(享保3年)、南町奉行大岡越前守忠相が「町火消し」を作り、2年後には江戸城下にいろは48組を編成し、本格的な町火消し制度を発足させました。町火消しは当初、町家の子弟や奉公人で組織されていました。しかし、屋根の上に登ったり、重いものを持ったりしての機敏な行動には向いていませんでした。そこで、それらに向いている身軽な者として、鳶職の者をこれに充て、普段は土木や建築などの生業に就き、火災が発生すれば消防に早変わりするという今の消防団のスタイルそのものでした。こうして作られた町火消しは、お互い組の名誉をかけて働くようになり、纏をかかげて功を競い合いました。はじめは出動も町屋の火災だけに限られていましたが、徐々に功績が認められ、武家屋敷や城内の火災にも出場していきました。
この時代の相模原市域は相模国高座郡のうちの18の村(相原、橋本、小山、清兵衛新田、矢部新田、上矢部、淵野辺、鵜野森、上鶴間、大島、上九沢、下九沢、田名、上溝、当麻、下溝、磯部、新戸)に分かれていました。どの村も畑ばかりで、江戸の町のように町火消しなどは無く、各村では15歳から40歳迄の男子を「若衆」と称して、消防や祭典等の村の公共の事に当たっていました。しかし、有効な消手段など無く、一度出火すると周囲の家々に次々と延焼し、多くの被害が出ていたようです。
この時代の消火方法は、水道が発達しておらず、水利が充分ではなかった為、竜吐水という木製の大型水鉄砲のような消火器具もありましたが、火消しを火や熱から保護するために使われる事が多く、掛矢や鳶口などで隣接する建物を壊して延焼を防ぐ破壊消防が主流でした。

江戸町火消しを今に伝える江戸消防記念会の皆さん

龍吐水と玄蕃桶
この桶で龍吐水に水を入れ、火消しに水をかけて熱から守った
明治、大正時代−町火消しから消防組へ−
明治に入り、1870年(明治3年)に町火消しが廃止され、「消防組」が組織されました。これは必ずしも江戸時代の消防制度そのままという訳ではなく、制度のある所、無い所、あってもその地方独特のものでまちまちでした。この当時、相模原市域は7つの村(相原、大沢、大野、田名、溝、麻溝、新戸)に統合されました。養蚕と穀作が盛んで、殆どの人が農業を営んでいました。家は葺屋根で、火災が発生すると火の粉が他の家の屋根に落ちて燃え広がり多くの家が焼失していたようです。その後、政府が消防制度の全国統一を図るため、1894年(明治27年)、勅令消防組規則が制定されました。この規則は、細部については定められておらず、地方長官(現在の県知事)に任されていました。これにより、7つの村ではそれぞれ公設消防組を設置しました。この消防組は組頭の下にいくつかの部があり、責任者として2名から4名の小頭がいました。部は部落ごとに設置したり、近隣の部落が合同で設置したりと場所によりまちまちだったようです。部には定員はなく、平均で40人から50人ほどの人員を有していましたが、相原村の清兵衛新田部落(現在の相模原、清新、小山地区)では70数戸の家があり、一戸あたり必ず1名は入る事が義務づけられていたので、70人以上の人員を有していました。
この時代の装備は、1884年(明治17年)頃から国産の腕用ポンプが量産され始め、主力となっていきました。このポンプはガッチャンポンプとも呼ばれ、人力によりシリンダー内に入った水を圧縮して押し出すポンプで、現場までは大八車に載せ30人以上で引っ張っていきました。この頃は当然、舗装道路などは無く、火災出場は相当な重労働だっようで、あまり遠くには出場しなかったようです。

腕用ポンプ(左の手桶でポンプに水を入れる)
昭和−防火から防空消防へ−
1931年(昭和6年)に満州事変が勃発し、時代は戦時体制へと変わり、消防も例外ではありませんでした。1939年(昭和14年)、警防団令が施行され、消防組を廃止し、「警防団」を組織しました。相模原では1941年(昭和16年)に2町6村が合併し相模原町が誕生した事に伴い、「相模原町警防団」が全8個分団、団員2,894人で結成されました。当時の消防は、町火消し的なものから戦時色の強いものとなり、警防詰所に交代で詰め、敵機の侵入を警戒する防空監視や空襲爆撃下の救護活動などが主な任務でした。そして、1945年(昭和20年)終戦となり、その役目も本来の水災害の防御が主な任務となりました。
この時代の装備は、まだ腕用ポンプが主流でしたが、上溝町の本町部落(現在のJR上溝駅南側)や相原村の橋本部落では昭和初期に住民がお金を出し合い、消防ポンプ自動車を購入して持っていました。

昭和初期の消防ポンプ自動車(FORD製)
戦後から現代へ−消防団の誕生−
太平洋戦争が終わり、戦時体制の消防は必要無くなり、元の消防体制に戻すため、1947年(昭和22年)、消防団令が発令され、警防団を廃止し「相模原町消防団」が全8個分団、団員3,320人で発足しました。この時代は戦後の混乱期で、火災も多く、また大規模な火災も度々発生していました。これまでの消防は、警察が管理していましたが、1948年(昭和23年)の消防組織法の施行により、市町村が管理する事になり、この法律では消防に関する基本的な事項が定められました。その後の1954年(昭和29年)、市制施行ににより「相模原市消防団」が全8個分団、団員2,872人で発足しました。この時代に常備消防を設置していた市町村は少なく、相模原にも無く、消防団が防災の主力でした。1955年(昭和30年)に米軍相模補給廠から寄贈された日産180型水槽付消防ポンプ自動車(1,000L水槽付、野口ポンプ製作所)と市職員15名で「特設消防隊」を設置し、勤務中に火災が発生すれば各々の部署から飛び出して出動していました。そして、1958年(昭和33年)に消防本部が設置され、相模原にも常備消防が誕生しましたが、消防団は地域に密着した防災機関として、以後数回の再編成を経て現在に至っています。
この時代の装備は、1950年初期から腕用ポンプに替わり、手引きガソリンポンプ(鋼鉄製の台車にガソリンエンジンとポンプを積んだもの)や消防ポンプ自動車、三輪消防ポンプ自動車などが導入され、省力化、動力化が図られました。現在、消防団で広く使われている可搬式消防ポンプは1949年(昭和24年)に国産品が発売され、1950年頃から急速に普及していったようです。

1940年代のガソリンポンプ

3輪消防ポンプ自動車(マツダ製)
ポンプは現在のようなPTO駆動ではなく、後部にポンプ用のエンジンを別に積んでいた。1963年まで国庫補助の対象だった。
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