アメリカは歴史の浅い国と言われますが、その「若い歴史」を大切にしている国だと感じます。 このHPでは、アメリカ第4位の大都市ながら、日本で全くといっていいほど知られていない、テキサス州ヒューストンの古い建築を紹介します。
ヒューストンという都市の誕生
現在のヒューストンは、人口が約170万人の全米第4位の大都市である。
この大都市の誕生にさかのぼってみると、それは1836年のことである。この年はテキサスにとっても、とても重要な年であった。
ヒューストンから車で西に3時間、サンアントニオに「アラモの砦」という
歴史的な場所がある。このアラモの砦は、もとは1718年にスペイン人に
よって建てられた伝道所だったが、ここが今、聖地のように扱われるのは、メ
キシコから独立しようとしたテキサス軍がたてこもり、圧倒的なメキシコ軍の
攻勢を前に、独立軍の指揮官トラビスや、伝説の勇者デイビークロケットを含
む185人(資料によって人数が違う)の独立軍全員が、1836年3月6
日、まさにこの場所で玉砕したからだった。
そして「リメンバーアラモ」を合い言葉に、46日後の4月21日、ヒュー
ストンの東、サンジャシントの戦いで、サム・ヒューストン将軍がサンタ・ア
ンナ将軍ひきいるメキシコ軍を破り、テキサス共和国が設立され、初代大統領にサム・ヒューストン将軍が就任した。
さて、テキサス共和国の最初の首都になったのがヒューストンだった。しか
し、その劇的な独立から9年後には、財政上、経済上の理由でアメリカ合衆国
に併合され、今に至っている。
さて、アメリカの南部の町は、それ以前から、綿花、砂糖などの輸送、商売
の目的で、海路または川路からひらけていた。17世紀から植民がはじまり、
1718年にはルイジアナにニューオーリンズが誕生した。さらに開拓者たち
はルイジアナから西に、と向かおうとしたが、ルイジアナからテキサスへは、
陸路だと途中、湿地や松の茂みという自然の障害があり困難であったので、新
しい港(ビーチヘッド)を求めてガルベストン島に来た。そして、ガルベスト
ンから内部に入るルート、つまりガルベストン湾からバファローバイユー
(川)を45マイルほど内部にさかのぼったところにあったのが今のヒュース
トンだった。
1836年に、ニューヨーク出身のアウグスツ・チャプマン・アレンと、ジョン・カービィ・アレンの兄弟が、この新しい共和国の首都の土地、66424
エーカーを9428ドルで購入し、ヒューストンの町づくりが始まった。
ダウンタウンの北側、MAIN と COMMERCE の角の川沿いに、ALLEN'S LANDING
PARK,アレン兄弟上陸の地、がひっそりとある。
もっとも、ヒューストンの北を流れる川、バファローバイユーはここまでさ
かのぼると幅が狭く、砂州や切り株や根っこも多くて、水路として最高という
わけではなかった。ガルベストンから内陸に来るルートの途中に(ダウンタウ
ンから8マイル下流)、もう1つ、ハリスバーグという村があったのだが、独
立戦争の際、スペイン軍に焼かれてしまってここにはアレン兄弟は上陸でき
ず、半ば仕方なかったのか、現ヒューストンの地までさかのぼって来たのであ
る。
バファローバイユーは、今でも小さな(どぶ)川としか思えないのだが、
1839年の旅行者の記録には、「蒸気船(スチームボート)がヒューストン
からガルベストンまでほとんど毎日走っている」と記されている。
さて、テキサス共和国の首都としてスタートしたヒューストンだったが、雨
で街が泥だらけになることか、蒸し暑さとか、蚊の多さとかで(これは住むと
納得してしまうかも)、早々に首都はオースチンに移るということになってし
まった。けれども、すでに商業の中心としての位置は確立しており、街は順調
に成長を続けて、1853年には鉄道も敷かれた。1873年の写真を見る
と、碁盤の目状に整備された道、川には蒸気船、線路を走る蒸気機関車。19
世紀の終わりには路面電車も走っている。
20世紀の初めになると、近郊で石油の発見もあって、商業の中心としての
地位をますます高めていった。
ベビーヒューストンの頃の建物で、現存しているものもかなりある。「地球
の歩き方」にも、ダウンタウンの北側について「マーケットスクエア歴史地
区、1850年代から1920年代の建築物が現存するところ」と書いてある
が、それが集中しているダウンタウンの北側は、空きビルが多いしかなり雰囲
気は良くないので、それなりの気構えが必要である。
ダウンタウンにある、最も古い商業用の建物は、1861年に建てられた、
Kennedy Bakery Building (現 La Carafe :813 CONGRESS )で、マーケットスク
エア(現公園)の北側にある、小さくて狭い2階建ての建物である。
家主はアイルランドから移民したJOHN KENNEDYで、インディアン交易、製
粉、農園主、パン屋などを手がけており、南北戦争(1861〜65)の間に
は、南部の連合軍に、ハードタック(かたやきビスケット)の供給をしてい
た。
家には、18世紀後期のニューオーリンズの建物によく見られる、クレオー
ルスタイルの鉄レース加工が今も少しばかり残っている。
ニューオーリンズでは、18世紀末の2度の大火の後に、当時統治していた
スペイン人によって、通りに張り出した2階のバルコニー、鉄レース加工の
フェンス、パティオ(中庭)が特徴の家々によって町並みが作られており、こ
この鉄レース加工もその影響をうけたものと思われる。
また、19世紀後半には、ビクトリアンスタイルといわれる、装飾に古い建
築様式を様々に用いた華麗な建物が好まれていて、ダウンタウンにもそのよう
なビルがいくつか残っている。
先のKennedy Bakery Buildingの建物の近く、TRAVIS通りを北に行くと、
William L.Foley Building(214-218 travis)がある。当時ヒューストンで有名
な建築家Eugune T.Heinerによるもので、1889年の3階建ての建物だが、2
度の火災でダメージを受けてしまい、今は歩道に屋根のようなものがついてお
り、道の反対側からしか建物の概要は見えない。
ちなみにFOLEYは、今や州の最大級のデパート、バーゲンシーズンにはお世話
になっているFOLEY'Sの創始者である。
もう少し北に向かうと、1884年のHouston Cotton Exchenge and Board
Trade (202 Travis st.Travis:TravidとFranklinの角にある)がある)=上の写真)。
綿花の交易所というだけで、地理的・歴史的なものを感じるこの建物は、ハ
イビクトリアンの装飾、色彩などがひときわ目立つ建物である。
William L.Foley Building と同じ、Eugune T.Heinerによるもので、当時の
シカゴの建築のように1階が高くなっており、ハイビクトリアンのルネッサン
スパラッツォ(パラッツォはイタリア語の宮殿の意)の装飾であるが、形、色
彩、材質、濃淡を引き出すために、習慣的なクラシカルなディテールとは少し
変えてある。赤い硬い煉瓦、白い石灰石の装飾の対比がとても印象深い建物で
ある。
最初は3階建てだったが、1907年に4階が増築された。
(余談だが、ガルベストンのダウンタウンに、このビルに雰囲気が「そっくり
さん」がいて、調べてみると、同じEugune T.Heinerが、1882年に建てたも
のだった。ガルベストンのダウンタウンはヒューストンより19世紀の建物が
多く残っており、当時の面影をよく残している。なお、「そっくりさん」は、
ガルベストンの220 22nd Streetの、Kauffman & Runge Buildingである。)
この他に、メインストリートには、当時の銀行などの金融関係の建物で、 19世紀末から20世紀初頭の建築物が残っている。
メインの北のほうからみてみると、(以下の右左は北から見て)
116-120 Main Street(右側) Commercial National Bank Building(1904年) franklinとの角にある、薄茶色に窓枠が白の煉瓦の建物。6階建て。
202 Main street(右側) Houston National Bank Building(1924年) 白く壮大な柱が印象的な建物は、この地区に建てられた中では新しい銀行。
301 Main Street(左側) Sweency,Coombs & Fredericks Building(1889年) congressとの角にある、白壁に緑のアクセントをもつ3階建ての細い建物。角 の小塔が印象的で、2階3階の窓はアーチ型になっている。
320 Main Street(右側) Kiam building (1893年) Prestonとの角にある、5階建ての赤煉瓦の建物。 隣側に、1926年の映画館だった建物がある。
また、メインからcongressを少し東に入った Courthouse square のHarris county courthouse(1910年) 円柱とドームが印象的な荘厳な建物。 メインからprarieを西に少し入った
910 Praire AvenueのHenry Brashear Building(1882年) 小さい3階建ての建物だが、華麗な化粧しっくいが印象的。 メインのもう少し南
Main st.at Texas st.のRice Hotel(1913年) 1913年にオープンし、大統領クラスも宿泊するホテルだった。ケネディも 1963年11月21日ここに宿泊し、翌日暗殺の舞台となったダラスへ向 かった。1977年にホテルは閉められ、今は空きビルになっている。
このようなビルが、その時代の姿を残して現存している。
*こんなところで食べました
ヒューストン発祥の地に近い、歴史的建造物の中に、THE SPAGETTI WAREHOUSEというスパゲッティ屋さんがありました (MAINを北上してCOMMERCE(川の手前)で左折)。ダウンタウンは平日駐車料金が高いけれども、土日は路上のメーターのところはタダなので、土日はそこを利用しました。スパゲティがサラダ、パンつきで5ドル前後から。キッズメニューもあり。
20世紀初頭のシカゴ派のビル(今も現役)
2 シカゴ派〜1920年代のビル
このマーケットスクエア歴史地区を見ると、色や装飾が派手な、古い建築様 式の復活したもの他に、あまり派手な装飾がされていない、けれども歴史を感 じる(古そうな)シンプルなビルもある。
このタイプのビルは、「シカゴ派:CHICAGO SCHOOL」の建築家によるものであ る。もちろんシカゴ、はイリノイ州のシカゴのことである。 シカゴは、まさにこれから商業都市として発達しようとしていた1871 年、大火事で市街地のほとんどを失ってしまった。焼け野原の上に「近代的で 経済的なオフィスビル」を、ということで、この時代の新しい建築材料や技術 を駆使して「高さ、鉄骨骨組構造、エレベーター」を備えた高層建築がうまれ ていった。 シカゴ派の特徴は、鉄骨構造の開発と、構造に対応する明快な建 築表現(つまり、構造上必要な形を大切にして、余計なものはあまりつけな い)である。新しい材料や構造をいかした建築の表現は、全く新しい時代のデ ザインであった。(ただ、近代的ビルを見慣れていると、”ただ”のビルにし か見えないかもしれないのだが...)
シカゴは高層建築(摩天楼)発祥の地であるのだが、その建築のスタイル が、同じように商業都市として発展しつつあるヒューストンにもやってきた。 いくつかのシカゴ派のスタイルをもったビルがみられ、19世紀後半の、古い 建築様式の装飾を用いたビルとは、装飾、高さなどの点で、よい対照を見せて いる。
405 Main streetの、Scanlan Building(1909年)=上の写真、はシカゴ派の有名な 建築家バーナム(Daniel H.burnham)によるものである。 バーナムは、シカゴのモナドノックビル、また「鉄骨とガラスの篭」で知ら れる同じくシカゴのリアイランスビル(1895年)で有名な建築家である。 1階は、クラシカルな装飾、2階はシカゴ窓(中央の広い部分は開閉でき ず、両側の狭い部分は上げ下げ窓、という様式)、一番上部の窓の間には、テ ラコッタの花輪の装飾がおかれている(テラコッタは、酸化腐食と火災から鉄 材を保護する役割があった)。屋根のコーニス(最上部のつきだした水平帯) は今は取り除かれている。11階建てで、建設当時は、ヒューストンで一番高 い建物だった。 このビルは、まだ現役で使われているため、あまり古さは感じさせない。 ちなみに、この場所は、1838年に完成されたサムヒューストンの公邸が あったところで、その「プレジデントハウス」と呼ばれた建物は、1839年 のオースチン首都移転のあと、ただの小売店になってしまったそうである。
その他には、 913 Frankrin Avenue の、Southern Pacific Building (1911年)がある。 シカゴの建築家Jarvis Huntによる、9階建てのビルで、シカゴ派の特徴の他 に、ルネッサンスパラッツォもモデルになっている。HUNTの進歩的な解釈はと ても抽象的で、明白なクラシカルなディテールは少ないが、2階の下のモル ディング、最上部の彫りのほどこした装飾などがある。 このL字プランのビルは鉄筋コンクリートの構造であり、ヒューストンでの このような近代的な高いビルで、このビルが冷房(REFRIGERATED AIR VENTILATION SYSTEM)を備えた最初のものであった。
さて、先に述べた”シカゴ派VS古典との折衷主義”についてであるが、この 時代のアメリカでは、「シカゴ派によるシンプルな建築デザイン」の他に、 ニューヨークを始めとする東部での「古典主義建築の伝統を再創造する折衷主 義」という、建築の大きな動向が2つ存在していた。 要約すると、
初期近代建築 VS 古典主義建築 進歩主義 VS 伝統主義 シカゴ VS ニューヨーク
ということなのだが、なんと、優れた建築を生み出したシカゴ派の代表的存在 バーナム自身が「シカゴは文化が遅れていて、東部の建築家の方がシカゴ派の 建築家よりも高い建築文化を有している」と信じていたらしく、アメリカは、 以後古典(折衷)主義への傾倒が強まっていくことなった。首都ワシントンの 整備はその例で、これにはバーナム自身も携わっていた。 そういうこともあって、シカゴ派の建物は姿を消していき、シンプルで近代 的なデザインは、一旦姿を潜めることとなった。
その後、1920年代には、ビルは技術も向上し、高層化していった。 その時代のものとしては、808TRAVIS STREETの、NIELS ESPERSON BUILDING (1927年)、このビルは屋上に、まるで議事堂のようなクラシックなモ ニュメントをもっている32階建てのもので、MELLIE KEENAN ESPERSONという 女性が、不動産屋であった彼女の夫のメモリアルとして建てたビルである。 また、712 MAIN STREETのGULF BUILDING(現:CHASE BANK BUILDING (1929年))は、36階建てで、1929年から1963年までの長き 間、ヒューストンで一番高いビルであった。アールデコ(1920、30年代 のデザインの動向、一種の混合様式)のディテールの見られるビルである。 どちらも、現在は夜の照明がきれいで一目をひく。
ダウンタウンの南側には、ベトナム人街があります。MILAM とELGIN(北側)の角にVAN LOCというレストランがあり、ここの「43番」がおいしいです。そうめんみたいな麺にうすぎりの味付き牛肉、野菜などが載っており、かけつゆ(赤いけどあまり辛くない)をかけて食べるというものでした。
この通りを南下すると、MAI'S RESTAURANTというところもあります。ここはベトナム料理ですが、メニューも店内も中華料理店の感覚でした。