日比谷駅を全力疾走で走る俺は

学生時代の一番足が速かった自分と比べても互角。いや、それ以上に早かっただろう。

自分の潜在能力の高さに驚きながらも走りつづけた。

それと同時に焦りつづけた。

今までの人生でこれほどの焦りを感じたのは初めての経験だ。


その日は雨が降ったり止んだりの天気だった為、傘を持って地下鉄に乗車していた。

電車のドアが開くと同時に走る事を決めていた俺は、傘は邪魔になると考え

つり革にぶら下げて忘れ物にしようと決めた。

靴紐も力の限りに堅く締め直した。

電車が日比谷駅に着きドアが開く瞬間にはすでに右腕は電車から出ていた。

開いてる途中で体は全部出ていた。

開ききった時には12メートル電車から離れていた。

完璧なスタートを切り、他の乗客を完全に引き離し目指す改札に向けて5段飛びで階段を駆け上がった。

地上に出てからも走る事はやめなかった。

帝国ホテル”富士の間”に着くまではやめる事など出来る筈はなっかた。

そうです。週間文集連載椎名誠著新宿赤マント10周年記念講演会に遅れていた為に走っていたのです。

日比谷駅に着いたのが午後六時、開演が午後六時。

一分一秒でも遅れるのが悔しかった。

早めに会場に行き一番前の席を確保しようと考えていたにも関わらず開演にも間に合わない状態になるとは

熱狂的酔狂的ストーカー的椎名ファンの俺にとっては考えられない事だ。

そもそも、働いてる人間の事を考えていない午後六時開演という時間設定に問題が有るんだ!

それも、金曜日という平日だ!

焦りが怒りに変わりながら走り続け、どうにか帝国ホテルの玄関前に到着した。

この時点で5分も遅れている。早くホテルの中に入らなければと思うが、どうしても入ることが出来ない!

帝国ホテルの玄関前をウロウロソワソワするだけで入ることが出来ない!

田舎者の俺には、こんなに立派なホテルの入り方などの知識は何も持っていなかったのだ!

宿泊客じゃないのに勝手に入っても良いのだろうか?

講演会場の”富士の間”とは別館なんだろうか?

外国人が沢山いるがどうしたんだろう?

色々な疑問が頭の中に降りかかってきた。そんな事を考えている間にも時間はどんどん過ぎていく。

時計は六時七分を指そうとしている。

小心者の俺は、ありったけの勇気をだし、帝国ホテルの制服で玄関前に立っているお兄さんに思いきって声を掛けた。

「あ、あのぉ〜。す、すいません〜。赤マントが椎名誠で”富士の間”が講演会でどうする?」

一瞬、蝶ネクタイのお兄さんは 「えっ?」という顔で俺を見ていたが

「冨士の間ですね。四階になります。」と俺の質問を理解してくれた。

さらに「ご案内しましょうか?」と聞いてきた。何がなんでもご案内して欲しかったがそこは小心者の俺。

「い、いえ、ご結構でござい」と言い残し逃げるようにその場を離れた。

そのまま逃げるように帝国ホテルにやっと入る事に成功した。

帝国ホテルの中はあまりの豪華さで息が詰まりそうだ。田舎者には経験した事のない世界がそこにはあった。

 

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