グローバリズム






 ----島を全体として意識することは、その限界とその変更不可能な束縛に気づくことに等しい。(レム・コールハース)





 スローライフが好きですか? 修行ライフが好きですか?

 異境の風物および習俗は、単に慣習という惰性と無縁であるという理由によって、いまだに強烈なリアリティを持つ。迎える立場だった人間も、訪問する立場に転じた途端、対マレビト不感症がきれいさっぱり癒えてしまったかのように新鮮な気分で未知のリアリティに触れることができる。或いは、移動することで地霊感応力が回復する。

 双方向コミュニケーションにおける主客の絶え間ないポジション・チェンジの実相を、上方漫才界で初めて活写して見せたのは伝説のWヤングであるとされる。
 事の起こりは二人称としての<じぶん>。指さしの併用で何とか整理がつくがしかし、今、自分のことをボクと呼んでいるボクは生まれてこの方ずっとボク。なのに何でキミはボクのことをキミと呼ぶ?

 自ら物理的に移動せず、双方向のコミュニケーションも発生せず、ポジションの入れ替えが滞ってしまった場合、異境は各人の胸の内にのみ強烈な心象風景として育まれ、それ自体一個の独立した生命力を有するかのように勝手に成長していく。成長した内なる異境は、しばしば妄想じみた歪なワンダーランドとして外在化される。ワンダーランドの勢いが衰えたなら、再び新たな異境の活力を求めればいい。

 未だクア・リゾートとは呼べない温泉の大浴場に、海を越えて唐突に実体化た椰子と土人の南国幻想。どこかしら激しく間違っているが、雑誌のコレクションを処分してしまったのは返す返すも残念。 ジャングル黒べーが再放送されなくなった後も、週末のアンリ・ルソーは浴衣にスリッパで卓球やエア・ホッケーを楽しんだが、チビクロサンボは犬っころとなって散歩するなど、心の異境は相変わらず人権問題の火種だった。

 部屋の中では、大浴場のオブジェさながらにジェネリックなみやげもの、木彫りのカメハメハ大王が睨みを効かせている。それは南国をキーワードとするHeathen Earthコレクションの一部であり、ハイヌヴェレともガルーダとも交換可能だ。マサイの戦士では流石に難しいが、それも単に程度問題。内なる異境は、完全な閉塞状態にある限り、存分にモンスター化できるのだから、マサイの戦士にOKを出すぐらい朝飯前。
 だがしかし、それは、地霊感応力が著しく低下しているにも関わらず地域性の呪縛が解けない、という最悪の状態に比べれば遙かにマシだ。

 ケネス・グラントは、地球上のある特定地域を、ヨガで言う“身体のエネルギースポット”チャクラのひとつ一つに対応させた。それが正しいか正しくないか筆者には分からないが、そもそもそんなことを気にする必要は最初からない。
 自分の場合、ルナパークを媒介にコニーアイランドと新世界が結びつく。ニューヨークは大阪と同じ時空に重なって存在し得るのである。そして神戸。濁り水の中に靴を投げ落とす貴女は誰だ? 坂とフラワーをキーワードに、この街はサンフランシスコと重なる。フラワーロードを歩け。
 ハンター坂を下って来たシルウェットだけの人は、まるでディテールを欠いていた。故に交換可能と言える。お茶でもいかがですか?
   そして、ステロタイプ化した観光客のエトランジェ気分がシャーベットのように溶けていく時、一瞬垣間見えるのは、私たちを魅了し続けて止まないHeathen Earth・・・



 ルナ・パークのイエソド的(ルナティック)なファンタジーに対抗、或いはそれらをより洗練し完成度を高めたアトラクションの数々。しかし、ドリームランドの凄い点は、何よりもその確信犯的外れっぷりにあった。

 「炎との闘い」は、ビル火災の発生から、様々な消防車に乗った消防隊員の出動、救助・消火活動までを目の当たりに楽しむことができるアトラクション。大都会(つまりマンハッタン)が潜在的に恐れる惨事を娯楽にしてしまうのだからまったく無茶苦茶な話だが(出初め式というのもありますが)、レイノルズ氏の辞書に禁じ手の文字はなかった。消防法は大丈夫だったのか? などというのは後の人間の発想で、規制する側の想像力は、規制される側の想像力の暴走っぷりに追いつけなかったようだ。

 二つの実験室があった。

 「リリパチア」すなわち、すべてが現実世界の半分サイズでできた「ミジェット・シティ」。そこは、かつて世界博の呼び物として大陸の各所から集められた300人の小人たちが暮らす国で、独自の議会や、小人の警備員を配した独自のビーチを持ち、ミニチュア消防署からは1時間ごとの偽警報に応じて隊員たちが出動する。意図的な不品行が横溢する市壁の内側では、乱交や同性愛が奨励される一方、貴族の称号が大盤振る舞いされたという。

 「保育器ビル」の場合エンターテイメント性という目隠しがない分、ある意味で分かりやすい。昔のドイツの農家を思わせる外観を持つ病院棟の内部は、大きく二つの部分からなる。清潔で広々とした部屋には、ほとんど動かない未熟児が保護されている保育器が並び、別の部屋は、危険な状態を脱した保育器卒業者たちの育児室。院長のマルタン・アルチュール・クーネー氏は、かつてパリに保育研究施設を創設しようとしたところを医療上の保守主義に阻まれた後、1896年のベルリン国際展示会で幼児孵化装置Kinderbrut-Anstaltなるものを発表した一流の小児科医である。

 “ニューヨークのゴーストライター”というペルソナの下、コールハースは、ミジェット・シティについて『ヴィクトリア主義という遺物からの脱却を準備する社会のための、永続的な代理実験の場である』と書いている。

 虚実が相互浸透するドリームランド、或いはレイノルズの頭脳が実行した、やや性格の異なる外れ方。
 ドリームランドの中心部に立つ「ビーコンタワー」。この、最上階から壮大な海の景色と島全体が見渡せるタワーに、あろうことか、レイノルズは本物の、しかもアメリカ東海岸中最強のサーチライトを取り付ける。これによりドリームランドは、疲れた都会人をしばし日常から遊離させるばかりか、ニューヨーク港付近を航行中の船舶を航路から外させ難破へと導くこともできるようになった。この件では結局、合衆国灯台管理局は断固たる措置を取らざるを得なくなる。

 コールハースは、構想者の職業的資質と各遊園地の在り方を決定づけた原理の関係を、ロジカルに整理して見せる。およそ次のように。
 ☆ティリュー=娯楽のプロ/スティープルチェイス=ヒステリックな娯楽需要と偶然
 ☆トンプソン=建築のプロ/ルナ=建築的一貫性
 ☆レイノルズ=開発業者兼政治家/ドリームランド=先行発明のイデオロギー化

 1911年、ドリームランド焼失。
 原因は、「世界の終末」のファサードに描かれた悪魔たちをライトアップする照明設備のショート。マンハッタンの新聞各社では、窓から見える遠くの炎や煙は新種のアトラクションと受け取られた。真偽のほどは定かでないが、真っ先に逃げたのは「炎との闘い」の消防士たちだったとか。

 コニーアイランドにも、<炎による再生>の時代がやって来た。



 再度、

 ----魔術のリアリティはどこにあるのでしょう?(By DragonBrainさん)

 要するに由来のはっきりしないリアリティの所在を問うポスト。前提として、地と結びついたアニミズムに対し、遙か異界から何かを呼び込むらしい魔術というセットがある。これに対する筆者のresは、自分の内(『リアリティ』で述べた通りまったく不正確)にしかないので他人に対して証明することはできないという何だか適当なもの。これでは身も蓋もない。

 私のアプローチは、<リアリティは交換できないが、リアリティへの手段はいくらでも交換可能>という考え方を前提に、<対マレビト不感症/地霊感応力の低下>による閉塞状態から脱するための<主客の連続的ポジションチェンジ/交換可能な象徴群の積極利用>という実践を含む。
 グローバル魔術、アーバン魔術などと言ったのはまさにその意味で。ある特定地域に特有の一つのロジックを全地球上に拡大しようという動きとは、何ら関係ないということをご理解いただければと思う。

 自らのポジション移動および手段の交換は、どちらも軽くスムースに行われる必要がある。バブル期に手を取り合って遊牧民(ノマド)化した人たちよりもアクションの軽さ、スピードの両面において劣るとすれば、何だか情けない話だ。

 ここで、上のアプローチの素晴らしさを歌い上げるつもりは毛頭ない。ポジションチェンジとポジション感覚の欠如はまったく別物であるばかりか、混同された場合酷く迷惑だし、交換可能なお気楽さをそのまま、質的変換なく外へ拡大したところで、トレーディングカード交換会以上の交流が生まれる可能性は低く、まさかそれをもって“コミュニケーションが豊かになった”などと言う訳にもいくまい。

 リアリティは交換できないが、交感/交歓が可能であることを忘れてはならないと思う。

 とにもかくにも、19世紀ヨーロッパのカウンターカルチャーが、20世紀日本のオタクカルチャーの中に奇妙なかたちで受け入れられたことは、自分にあってはとりあえず幸運なことだったと言えそう。

 そんなことを思いつつコニーアイランド名物ホットドッグにかぶりつこうとした途端、熱いフランクフルトがビヨ〜ン。ささ、次の祭へ。




(2004.6.12)
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