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今夜の番組チェック

3/B



 マンゴー色の空の下、天井のない部屋に夜が訪れようとしている。
 初老の紳士が、手のひらから金粉を出す。そうではなく金粉が付着した手のひらを舐めている。いや、そうではなく夕陽が黄金色に染めた粉砂糖を舐めている。異常に高い天井、ではなく天井のあるべきところ、漂う砂金に混じってまるいオレンジ色がふわふわと浮かんでいる。ふわふわは、緩やかに音もなく下降する。高い位置に設けられた窓のそばを通過するとき、それは一際明るく外光の黄金色を映す。僅かに開いた窓から入る風が、淀んだ空気をゆっくり掻き回す。白亜の壁の下半分、夕陽の届かないところまで降りて来ると黄金色は唐突に消え、まっ白な正体を現す。そうして、つきたての餅を思わせるやわらかな握り拳大の塊たちが、床に舞い降りる。紳士は、パンパン音を発てながら両手に付着した粉砂糖を払い、立ち上がる。
 席をはずすと、ふわふわは小降りになる。床に達したふわふわたちは、口々にふわふわと言葉にならない言葉を囁いている。蟹の念仏は聞こえない。スイッチを切られてしまったのだろうか。
 席に戻った紳士は、悠然と<刻み時間>を燻らせながら確かめるように、右手で頭のてっぺんに触れる。白い粒々が手に付着する。天使の真似をして、誰かが粉砂糖を撒いているに違いない。彼は立ち上がり、あたりを見渡す。目線を水平にして部屋を一周。天井のあるべきあたりを見上げながら一周。床に目線を落としてさらに一周。ふわふわたちはすっかり調子づき、遠慮がちだった囁き声はガヤガヤ耳障りな騒音となる。紳士が、眼球と身体の動きをハタと止める。テーブルの下を覗き込みながら、目もと口もとを歪めてニヤリ。まったく、しようのない奴らだ。自習は静かにと言っとるだろう!



 「ま、ぼちぼち行くことにした訳だ。汗をかくのも好きじゃなかったし」
 「お前はそれでよかったかも知れないけど、足の遅い正直者にも運動会は来るし、運動会と言えば学級対抗リレーだ。よーいどんのピストルは、走者の気分に反比例して景気よく鳴るんだよ」
 「だったら勝手に<ゆっくりの世界>へ行けばいい。胸を張って欠場だ」
 「簡単に言うけど、本人にとっては深刻なんだよ」
 「俺だって、ずーっと途競走は苦手だよ」
 「え?」
 「何が。だいたいね、あんまり速く走ることができないからって、何を恥じることがある? ウジウジしてる暇に俺は決めたよ」
 ハナザカリくんは、このようにブラスバンド部入部の経緯を語った。



 パピィは歩道を走りながら叫ぶ。そいつをつかまえてください! 怪訝な表情をして振り返るビジネスマン、ヘラヘラ笑っている学生のカップル、誰もまともに受け取ってくれない。仕方ないと言えば仕方ない。相手は(パピィ以上に)子どもなのだ。待てよこら!
 やっと追いついたとかと思うと、唐突にストップをかけて方向転換。逆方向に流れる風景にクラクラしながら、パピィは他愛なく振り切られる。
 パピィが念願の小便小僧を彫り当てることができたのは、皮肉なことにマネジャーのおかげだった。ある、今にも降りだしそうで結局降らなかった日の夕刻、遅めの見回りに来たマネジャーは、オーナーに何か言われでもしたのかいつもにも増して不機嫌だった。
 「また、板だけ異常に減ってる。どうしてなんだ。え? 何で懲りずにそんなことばかりやってる」
 「小便小僧が埋まってるかも知れないから」
 手もとから目嘯ヲるパピィ。
 「ほお。じゃあ今日確認したうちの何枚に埋まってた?」
 愉快そうにマネジャーが追い打ちをかける。
 「まだ出て来ない」
 「だったら永久に出て来ないだろうよ。その板で最後にするんだな。どっちみち、今日はそろそろ片付けないと雨…は大丈夫にしても、そろそろ日が暮れる」
 納得いくまで試行錯誤を繰り返す。そんなやり方にマネジャーから待ったが掛かり、パピィは少ししょんぼりした顔で、ミケランジェロにもらった桐箱を開ける。箱の内側はビロード張りで、窪みの部分に金の彫刻刀と銀の彫刻刀が一本ずつ、きちんと並んで収まっていた。よし、もう一枚だけ。パピィは新しい彫刻刀を握り、すぐさま彫りはじめる。程なくして、マネジャーがソンのところへ行って喋っている間に、作品は完成した。そして走りだしたのである。
 「今日はこのへんにしといてやるよ」
 ようやく立ち止まった小便小僧は、肩を激しく上下させながら大柄な口をきいた。そして、<そのまま>と手振りで合図をよこすなり、再びどこかへ行こうとする。待て、どこへ行く! 慌てて阻止しようとするパピィに、小便小僧が答える。
 「決まってるじゃないか。小便しに行くんだよ」
 ちょっとぐらい我慢できないのか。
 「そういうふうにつくられたからね」
 作品は、もう一度作者に憎まれ口を叩いてから背中を向け、横断歩道を渡った。何て奴だろう。パピィは、エプロンのポケットから煙草を一本取り出してくわえる。イライラするときは、とりあえず煙草を吸うことにしていた。
 火を点けようとしたとき、通りの向こう側の歩道を歩いている白いレースの日傘を差した婦人と目が合った。誰だろう。こちらを見て軽く会釈しながら、頭を下げている。つられておじぎしながらパピィは、いったんくわえた煙草をポケットに戻す。何となく、目の前で煙草を吸いにくい人がいるものだ。やり過ごしてからにしよう。だが、思惑に反してその人は横断歩道を渡った。紺色のワンピース。小花模様があしらわれた生地は、近くで見ると意外なほど薄く軽やかだ。髪はセミロング。時代がかった日傘の下の顔は陰になってよく見えないが、そこには古いクロシロ写真から抜け出して来たようなトーンがあった。学生? OL? それともどこぞの若奥さま? いや、むしろ花嫁修行中といった雰囲気がする。その人は、足音もなく近づいて来た。
 「クピド氏のお知り合いの方ですか?」
 涼しげな声で話しかけられ、ええまあ、と曖昧にうなずくパピィ。見た目の印象に比べて声はずっと若そうだ。もしかすると、自分とそう変わらないのでは? けど、クピド氏って誰だ?
 「それじゃ、よろしくお伝えください」
 日傘の婦人は、北の方へ歩いて行ってしまった。
 入れ違いに、戻って来たのは小便小僧。お帰りクピドくん!
 「勝手に名前変えるなよな」
 自分では<クピド>とは思ってないらしい。
 大急ぎで屋台を片づけ終わると、ようやくパピィは煙草に火を点けることができた。いつの間にか夕焼けの時刻を過ぎて、空は深く透き通った群青色だ。小便小僧は、おとなしく吸い終わるのを待っている。行こうか、クピドくん。すっかり煙を吐いてしまうと、パピィは普段より低い声を出してみる。
 「クピドじゃないってば」
 相手は口を尖らせた。
 「どうせなら最初からクピドにしてくれればよかったのに」
 でも、嫌なんだろ?
 「クピドが嫌なんじゃなくて、間違って呼ばれるのが嫌なんだよ」
 なるほど。小便小僧の気持ちはだいたいわかった、ような気がする。だけどその恰好、いくらなんでも裸はマズイんじゃないかな」
 「かまうもんか。もうほとんど真っ暗だよ」
 いざとなれば、知らないふりをすれば済むことだ。と、パピィは南へ向けて歩きはじめた。日に日に月が欠けていく時期だったこともあって露店はほとんど出ておらず、出ていても灯の消えた天幕が放置されているだけで、売り子の姿は一人も見かけなかった。ところで、どこへ向かってるの?
 「ひと風呂浴びようと思ってね」
 風呂?
 「キャラメル風呂に決まってるじゃないか。ごちゃごちゃ言わずに黙ってついて来りゃいいの」
 チビの生意気ぶりに面喰らい、パピィは黙ってしまう。右手側には無愛想なコンクリートの塀が続き、濃いピンク色をした夾竹桃の蕾が、闇にとんがり出た葉っぱの間に見え隠れしている。
 やがて、行く手にこんもりした屋根が見えてくる。湖の真ん中に、青緑色のドームを頂いた洋館が、ぼうっと明るく浮かび上がっていた。入口の両脇には、堂々たる威風の石柱が並び、水位すれすれから石段がはじまっている。あそこまで、どうやって行けばいいんだろう。
 「歩くのが怖いんだな」
 そう、どうせ僕は怖がりだ。水面はとても滑らかで歩けそうに思えるけど、本当に歩かされるのはゾッとしない。パピィは少しだけ不安になった。
 「ちっ、まるっきり駄目だよ、今夜は。あれだけ厳重に見張られてはね」
 小便小僧が、悔しそうに呟く。
 あたりはすっかり暗くなり、湖水がアスファルトみたいにどす黒く見える。おまけに岸との境界がはっきりしないので、湖全体の大きさがさっぱり把握できない。館の前には、弦楽四重奏の楽団を乗せたボートが浮かんでおり、水上の音楽が流れている。
 楽士たちを乗せたボートが、こちらに向かって来る。ヤカタブネというのだろうか、以前、時代劇の映画で見た、殿様が川遊びをするときのに似ていなくもない。ひょっとしてつかまえられるのだろうか。パピィの不安をよそに、楽曲の調べはことのほか優雅に流れている。
 ボートが近づいて来る。いちばんこちら側の、チェロを構えたままじっとしている楽士が、長い黄金色の巻き毛を揺らしている。服装は、どことなくミケランジェロと同種の生きものであることを思わせる。男は右手を上げ、きりのいいところで演奏を止めた。
 「びいどろの館へ、ようこそ」
 それでようやくホッと一安心。
 「さあ、どうぞお乗りください」
 パピィの目の前に、青白い手が差し伸べられた。




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