[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」
4/B
本来なら天井のあるべきところ、マンゴー色から小豆色に変わったスクリーンに星が一つ、二つ。降り続く白いふわふわは、ようやく止んだ。ふわふわとつかみどころのないお喋りもすっかり止んで、カチッカチッと乾いたスイッチ音だけが響いている。
室内の宙をス−ッと一本の光がよぎる。光の帯は撒かれた砂金に当たり、夕闇の中からそこだけ切り取って見せる。切り取られた帯の中では、砂金の一粒一粒がチラチラ明滅している。
テーブルの端にZライトがセットされている。中程で折れ曲がっているアームの下部を握って、初老の紳士が手もとへ引き寄せる。もう一方の手が笠をつかむ。それを下へ向けて点灯する。消灯する。点灯する。消灯する。点灯する。消灯する。
白熱灯の明かりは、点灯されるたび円形にぼうっとひろがり、壁の僅かな凹凸を強調する。白亜の壁は、分厚く立体的なホワイトチョコレートの顔をしている。同時にテーブルの下も、ぼんやりと照らし出される。
テーブルの下では、裸の子どもが息を殺して寝そべっており、床に落ちたマシマロウを音もなくパクついている。隠れて盗み食いをしているらしい。
紳士は愛用のパイプで<刻み時間>を燻らせながら、スタンドの傘を上に向け左右に振る。
サーチライトのように、舞台のピンスポットライトのように、室内を白熱灯の光が走る。白熱灯の光は、壁の一部を円形の雪見窓状にくり抜く。穿たれた雪見窓自体が雪の塊だ。雪は、でこぼこに積もっている。
天井近くまで立ちのぼった煙が、光る砂金に、静かにたゆたう背景をつける。砂金は、ほとんど止まっているに等しい緩慢な動きで、テーブルの遙か上に浮かんだままだ。砂金の降りて来ない部屋の<底>近くでは、パイプの煙だけが、曖昧な輪郭を持った固形物のように揺れている。
Zライトの笠がぐるぐる回され、光の線が、暗い室内に電球を頂点とする円錐を描き出す。カタンと椅子が傾き、紳士は子どもの存在に気づく。ふふん、またそこに隠れとったか。あ、こらこら、床に落ちたものを拾って喰うんじゃない!
「備品を勝手に持ち出すなとかネチネチやられて、早速言い訳だ。ごめんなさい、でもボク必死で練習してるんです。早く先輩たちみたいに吹けるようになりたくて…。どうだ、泣かせるだろう」
「しらじらしい奴だ。でも、そういえば休み時間ごとに屋上から間抜けな音が聴こえたな」
「ロングトーンと言ってほしいね」
ハナザカリくんが貧相な胸を張る。
「どうせ買うならヴィンテージものだ。同じセルマーのサックスにもフランス製とアメリカ製があってね、アメリカでは、もうとっくにつくってなかった」
「ふーん、カネがないから中古にしたんじゃなかったのか」
「貯金があった。いや、それまであることも知らなかったんだけど、俺の名前でつくってあった通帳を見つけてね、嬉しいことにそれで充分足りたという訳だ」
「楽器を買うまでの経緯はわかったけど、何でそんなに大切なもの手放したの?」
「さあ早く、早くお乗りください」
と、楽士が繰り返す。
「ほら、さっさと乗れよ、迷惑じゃないか」
小便小僧に促されて、パピィは楽士の手を借り、はしごを昇る。乗り込んでみると、ボートは意外なほど大きく立派で、そのまま誘導されたのが舳先の席。後ろ向きに据え付けられた肘掛け椅子だった。腰を落ち着けると、再び<水上の音楽>が流れはじめ、船はゆらゆらと方向を変えた。歓待されているというより、生贄に供されようとしているかのようでどうにも居心地がよくない。湖の中央には、月明かりの下、青緑色のドーム屋根を帽子のようにかぶった<びいどろの館>が、冷やかな明かりを放っている。
ボートは、方向転換を終えると館目指して、ゆっくりと湖上を滑りはじめる。漕ぎ手もいなければ、帆も張っていない。けれども船は、溶かしたキャラメルのように濃い水面を滑らかに分けて進む。いっそエイヤッ! と飛び込んでそのまま逃げてしまおうか。でも、仮に飛び込んだとしても、とパピィは想像する。今、自分の乗船を手伝ってくれた楽士を振り切れるだろうか? 第一この男、絶対に目を離してくれそうにない。まずは、そうだ喋るんだ。絶望的になりかける気分を無理に奮い立たせて、パピィは声を出す。この船、何の力で進むんですか?
「演奏力です」
と、楽士が答える。
「下手な演奏では、この船は動いてくれないのです」
その言葉は、手首に打ち込まれた杭のように響いた。やっぱり、歓迎の演奏じゃなかった。あの館の中には、きっと何か恐ろしい化けものでもいるに違いない。声が震えないように注意しながら、パピィは会話を続ける。合奏に加わらなくてもいいのですか?
「今あなたを引き上げたとき、たいそう力を籠めまてしまいました。力仕事をした筋肉は、妙なる調べを奏でるという繊細な作業には向かないのです。しばらく休めてからでないと、私の腕は使いものになりません」
パピィは黙り込んでしまう。ボートは、楽団の奏でる調べを除けば音もなく進み、やがてパルテノン神殿を思わせる石柱が並ぶ、正面玄関の手前に接岸された。
腕を休ませているチェロ奏者のエスコートで、パピィは石段を昇る。石柱の並ぶポーチの突き当たりに門があり、青銅の鎧兜を着けた兵士が二人、両脇から長い槍を交差させて通せんぼをしている。
「どうぞ、お入りください」
楽士の声に合わせて、二人の兵士が同時に槍を引っ込めると、ギーッと大儀そうな軋み音がして門が開く。パピィは後ろを振り返る。ポーズボタンを解除したように、止んでいた弦楽四重奏が再開し、ボートは今しも石段を離れるところだ。小便小僧は、どこへ行ったのだろう。
「さあ、ラケル様がお待ちかねです」
背中を押されるようにして中へ入った途端、後ろ手に門が閉まる。天井が低く狭い廊下は、壁、床、天井みんなまっ白で、パピィのほかに誰もいない。突き当たりには、薄緑色のペンキを塗った古い木の扉がある。
扉を開けると、いきなり縦にも横にも世界がひろがる。そこは円形のホールで、高い天井は雨傘をひろげたようなドーム形状をしている。正面に、つやつやの手摺りが付いた幅の広い木の階段がある。館の二階を支える柱の左側には机があって、ついさっきまで誰かが書きものをしていたように、電気スタンドが点けっぱなしになっている。机上の便箋に、ブルーブラックのインクで文字がしたためてあった。
<そのままお二階へお進み下さい>
手摺りに手をかけ、ぎしぎしと階段を昇る。天井から、弱く黄色っぽい光が足もとを照らす。光は、ぐるり張りめぐらされた細長い台形の中心から注いでいる。
階段は、踊り場のところで左右に別れていた。パピィは、微かな物音と人の気配がする左側を選んで昇る。
昇り切ると、一階と同じ形の机が据えてあり、髪の長い女の人がランタンの明かりで作業をしていた。細長い箱にぎっしり詰まったカードを、一枚一枚丹念に調べている様子だ。あのォ受付の方ですか? 返事はない。調べものはかなり難航しているらしく、カードのカサコソいう音に混じって独り言が聞こえる。
「困ったなあ、見つからないわ」
声は意外に子どもっぽい。僕と同年代じゃないか、とパピィが思ったとき、箱がカタンと横倒しになり、机の上にカードがぶちまけられた。
「ああもうイライラする」
女の子が、ガラス板を擦ったような声を上げる。
駄目だ! そんなことしたら順番が目茶苦茶になっちゃう。カードが乱暴に箱へ戻されるのを見て、思わず口を挟むと
「わたしに指図する気?」
前髪越しに下からキッと睨まれ、パピィは逆にたじたじとなってしまう。いや、そういう訳じゃなくて。
「順番なんて最初からある訳ないでしょ、それを決めるのがわたしの仕事なのに。それより、あなた誰? こんなところで何してるのよ」
「ラケル様が待ってるから入るように言われたんで、それでここにいるんだよ。それよりクピド氏見なかった? 小便小僧みたいな恰好してる奴」
「ラケルはわたしだけど、呼んだおぼえはないわ。それに久比戸さんなんて知らない」
どうなってるんだ。連絡が悪過ぎるじゃないか。パピィは、悪態を突きたくなるのを抑えて絶句する。机の色も、女の子が着ている服も黒っぽい上、ランタンのぼんやりした明かりのせいで、目の前の光景は古い油彩画のような脂色だ。机のうしろには、小さな引き出しのいっぱい並んだ棚がある。ご機嫌斜めでいらっしゃる<ラケル様>は、それを出しては片付け、出しては片付けしばらくの間黙々と探していたが、ついに
「とりあえずこれでいいや」
と、動きを止めた。見ると、細長い箱の中にカードならぬ濃い緑色のガラス瓶が横倒しに収まっている。
「飲む?」
銀色のワインオープナーと一緒にボトルが取り出される。これ何? 今何探してたの?
「物語」
と、少女が答える。ボトルの中身のことだろうか、それとも探しもののことだろうか。物事には、最初から順番なんてある訳がない。だとしても、仮にもそいつを決めないことには世間話すらできない。順序立てて尋ねなかったことを悔やんでいる間に、パピィの目の前で<物語>の封は切られてしまった。
「下に自動販売機があるから、紙コップだけ抜いて来て。わたしのもね。味が落ちないうちにさっさと飲んじゃおうよ」
<ラケル様>なんて呼ばれてる割には、執事の一人もいないのか。そんなことを思いながら、パピィは階段を降りていた。
<物語>も古くなると味が落ちるの? 紙コップにルビー色の液体を注いでもらいながら、流れ出す<世界の素>を眺めているような心持ちでパピィが尋ねる。これ<物語>なんでしょ?
「何ヘンなこと言ってるの。ワインに決まってるじゃない」
なるほど、飲んでみると赤ワインの味がする。
「冷房、強過ぎたら言ってね」
第一印象こそ取りつく島もなかったが、小さな女主人は、どうしてなかなか細やかな心遣いを忘れていない。だがそれはそれとして、パピィが耳を澄ましても、空調システムが作動している気配は一向に感じられなかった。
ラケルによると、この建物の空気は月の光で冷やされているのだった。月の光はとても温度が低いため冷房に向いている。ドーム天井の真ん中に付いてる<月光レンズ>で増幅してやれば、建物全体の空調も充分まかなえるほどだという。しかも、ここの<月光レンズ>は大変扱いやすく設計されており、簡単な操作で微妙な室温調節も自由自在。また、冬場の暖房は月ではなく星の光を利用して行われるが、その場合、天井の真ん中にある円形の装置は<星光レンズ>として働くのだそうだ。
さて、気がつくとボトルは空だ。月や星の冷暖房の話を聞きながらの酔いは、何とも言えず心地よく、地面から十五センチほど浮き上がっているようだ。
「さあて、面倒臭いけどがんばって続き探そっかなぁ」
ランタンの明かりのせいか、少女の頬に幾分赤味が差しているように感じられた。僕もそろそろ小便小僧を探しに行かなくちゃ。
こうしてパピィは、びいどろの館をあとにした。