アンチな貴方へ〜私の666汎用バージョン



 いかにも。確かに私はアーイアーマーアナンチクルルルアイストハッ!なんぞとカラオケでわめき散らしたこともなくはない。まあ、私の歌に感動していただけたとしたらそれはそれでこっ恥ずかしいながらも少しは嬉しいかもですが、あまり妙な思い入れとともに拍手を贈られるのは本意ではありません。でもしかし、さぶカルチャーって同性愛文化のこと?などとボケつつ、このへんの 困った気分についてはあまり真面目に考えたことがなく、てへへ困ったネとうっちゃってしまっておる。ここは一つ、言わずもがなのヤボテン若大将になってしまうのは承知の上で一念奮起、アンチな貴方に拝啓してみようと思った次第。
 ヤボ1:私が直接知ってるクリスチャンの人ってみんなまともだし、すごくいい人ばかり。原理主義者の知り合いはいませんが、そーいった人たちだってトチ狂ってしまう“ツボ”に近寄りさえしなければ、ひとり一人は存外いい奴だったりするのかも。
 ヤボ2:アンチ××を口にする前に、根本的な部分で対象を見誤っていないか自分でチェックしましょう。
 ヤボ3:アンチって要するにネガ/ポジ反転の世界だから所詮は同類やないですか!という理屈がある。
 ヤボ4:ただし、そんな空々しい正論は、洒落にならない被害に遭った当事者にとって何の足しにもならない。
 これらを考え合わせると、“アンチ”なるコンセプト、軽々しくおもちゃにするにはチト危険過ぎる気がしなくもない。が、多くの10代にとって校則とは破る為に存在し、世のおやじたちは意外にロケンローである。そんな昨今の状況と行きがかり上というトレンドを鑑み、数あるアンチの中から、アナーキー・イン・ザ・UKの冒頭にも歌われておるアンチ・クルルルアイストハッ!をネタにしてみましょう。私がある種魅力のようなものを感じてしまうアンチ・キリストは、聖書に出てくるアンチ・キリストとゆー方とはあまり関係ありません。アンチ・クライストな発想、アンチ・クライストなアティテュード、アンチ・クライストな精神状態、アンチ・クライストなお楽しみ・・・それらは、言ってみれば<アンチ・キリストというコンセプト>に集約できそうな何かです。そのあたりについて面倒くさいなあと思いつつ、まあ、ほんのさわりだけ。

 三上寛というフォークシンガーをご存知でしょうか? 聞いた話では、この人、ツアーの途中だかたまたまその地方でライブがあった時(どの地方やねん?)だかに、主催者だか呼び屋だか忘れた、とにかく関係者の自宅にちょっとお邪魔したのか泊まったのか忘れた。でもまあ、そのようなことで酒を飲んでいた。が、いいところで酒が切れちゃった。こりゃまた失礼申し訳ないっす、とゆー状況下で三上氏は・・・
 「何だ、ここにちゃんとあるじゃねーか!」
と、あろうことか仏壇からお供えものの酒を勝手に持って来てクイクイ飲りだした。ここに至ってその家の温厚な主人も流石にブチ切れた、か呆れ果てたかで、まあ、大変なことであった、と。あやふやにしか憶えてないのはかなり酔っていたからで。あまり気にしないでくれたまい。だいたいそんなとこです。

   さて、上記の三上某の行動について、あなたはどう思われますか?
 ま、お世辞にも誉められた振る舞いじゃないけど、私は、ここに、人類の見果てぬ夢、愛と自由と喜びに溢れた豊穣なる世界への突破口の兆しのようなものを見ます。だって、ほら、似たような状況は身の回りに嫌ほど転がってるでしょう? せっかく目の前においしそうな料理が並んでいるにも関わらず食べてはいけない、みたいな。禁欲ごっこで遊んでいる場合を別として、こいつは不幸だ。尤もらしく論点を整理すると、

 私たち(※三上寛を除く)は、何故にお供えものの酒を気持ちよく飲むことができないのだろうか?

 据え膳食わぬは・・・なんて言い出すとそれはまた別な話になりますが、何でいけないのかとゆーと、自分でいけないことにしてるからいけないとゆー(※その中にはもちろん、ふつーの社会生活を送る上でコレは無理だな、とゆー判断も含まれます)。私たちが、この、あほらしくも悲しき呪縛を解き、美食三昧の輝かしい日々を満喫できるようになる為には・・・。
 ここに至って漸く、例えばアンチ・キリストなるコンセプトを持って来て、展開してみる価値も出てこようというもの。はて、私は何の呪縛を受けているのだろうか? と、そんな感じです。キリスト教的モラル、制度、組織はどうか? あんまりピンと来ない? なら、無理にアンチしてもしゃーないかもです。・・・まあ、こーゆーのに、いい加減にフザケたホンキではなく、むしろ大真面目のお遊びとして取り組む訳です。それ相応にヤヴァイということ、また、歴史上のナザレの人を否定する行為とは必ずしも関係ないよということは、容易にお分かりいただけるでしょう。また、別の角度から見た場合、キリストは生命の樹の<ティファレト>に当たる訳ですから、そんなもん否定してしまえば最初から魔術もクソもないってな。

 666の野獣アレイスター・クロウリーと言えば、幼少の頃、キリスト教原理主義教育のおかげでそれはそれは酷い目に遭った人としても知られています。おかげで、内面に相当激しい怒りや憎しみのテンションを溜め込んでしまったらしいことは、彼自身の著作や、他の人たちによって伝えられるエピソードを見れば明らかです。歓喜のうちに己の意志を実践することを理想としながら、実はこの人、怒りや憎しみといったネガティブなエネルギーを頼りに超人的な仕事をやってしまった、という面が結構あったのではないか? そう疑ってみる価値はありそうです。それにしても、魔術の大天才(と言ってしまっても間違いではないと思う)をもってしても、生涯に渡り完全には追難しきれなかった(であろう)内なる怒り或いは憎しみのテンションって、何なんだ?
 そんなこと言ってるから日本人は甘ちゃんだとかトロいとか疎いとか言われるんだ。でも、はあ、どーもすいません。と謝る前に、私は、せっかくだから自身のそのような立場を有効に利用してやれ、なんぞとセコく正しいことを思います。宗教に起因する怒りや憎しみの感情に支配されてる率が統計的に低い。これ、どう考えてもいいこっちゃないっすか。どこに恥じる必要がある? なんてこともチラッと思ったりする訳ですが、青少年に悪影響を及ぼすイカレおやじとして糾弾されるのも本意ではないので、あんまり言わないことにします。
 もちろん、怒り、憎しみ、更には容易にそういったものへと化けがちな悲しみの感情は、何も宗教に起因するものだけではありません。差別的発言ととられたならあいや失敬なのですが、本気混じりの冗談に、こんなのがあります。
 現在、日本においてデザイナーという職業に就いている人の中には、意外にも地方出身者の占める割合が多いんだそうな。なるほど、田舎育ちの人がまさにそのあたりのネガティブな感情の集積=コンプレックスをバネに“都会的なデザイン”ワークで身を立てるゼと決意し、猛烈な努力の末、それなりの評価を得るに至る、というのはいかにもありがちなストーリーではあるけど、見ろ、おかげで、今や日本の都会は、田舎者がクリエイトするアーバンでいっぱいになってしまった!
 ま、反対に田舎では、元都会人の作った野菜やなんかが実ったりしとるようだし、田舎育ち自体が悪いなんて法はもちろんありません。だけど、もし彼らがそこに、本当にヘヴィなコンプレックスを抱いていたとしたら・・・自分の生い立ちを憎んでるような人間が描く“愛”って何なんだ、などと考え始めると、あまり気持ちのいいことにはなりません。心配症ごっこな余談ですが。

 クロウリーの弟子に、パーソンズさんという、胸毛エネルギーでロケットを飛ばすことに成功しながら残念なことに事故で爆死してしまった技術屋さんがいました。実はこの人こそ、『反キリストの書』の著者な訳ですが、パーソンズ氏、あろうことか自分のマジカル・モットーの中にアンチ・キリストとゆーワードをまったくベタなカタチで放り込んでいます。はっきり言って、何とゆーか、これはもう、もの凄い快挙であります。ただしそれは、キリスト教文化圏の人たち、もっと言えば“ヤラレちゃってる”人たちの間での話。ここ、はっきりと認識しておきたいところです。“他人の痛みを分かる”というのはある種の誉め言葉ですが、他人の不幸を真似て自ら不幸を招くのは、どう考えても賢くない。うまくない。ここいらへんが、私なりの666へのアプローチにおける、ひとつのポイントと言えるでしょう。ちなみに「6」とは太陽の数=ティファレトの数でありまして・・・。
 やっとこさ魔術の話にたどり着いたところですが、そろそろ眠くなってきたので、この手紙いったん終了ということにさせていただきます。この続き、気が向いたら6月6日午前6時あたりに。


                                    

(2003年1月26日)


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