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付記
先行付記 アマノジャク礼賛



 -----ひとつの型、おていさいになってしまう危険は瞬時瞬時にあるのです。(岡本太郎)

 <カバラ>、そして、その扉の真ん前まで連れて行ってくれる乗り物としての<タロット>。『QBL』には、それら実践の為の(おそらく)最低限のお約束が記されている。ところが、同書を読まれた方は既にご承知のように、著者は補遺において、まさにその最低限のお約束をガッシャンとひっくり返してしまい、結果として敬愛する師匠から破門され、死後はここ極東の島国においても知る人ぞ知る奇人変人となった。
 最初にお断りしたように、筆者もまた、生命の樹の逆転(正確には、小径とヘブル文字の対応の逆転)に関するエイカドの言説をさっぱり理解できないでいるが、少し引いて見ると、『QBL』は<伝統>を根こそぎひっくり返した人間が<伝統>を語った本であり、著者のフラター・エイカドは、逆説的な意味において伝統主義者であったと言える。妙に訴えてくるのは、まさにそこだ。伝統のおいしいところを受け取る為には、自分もまた、何かをひっくり返す必要があるのだろうか?

 伝統、或いはそれを発掘するということ。シュリーマン以来広く認められていると思われる普遍的ロマンの躍動は、例えば、カモワン・タロットの解説本にも息づいている。タロット研究家というより映画監督としてその名を知られるホドロフスキー氏の、まるで真の伝統を探り当て復刻したのは自分たちだけだと言わんばかりの口吻は、氏のフィルム作品を彷彿させるものであり、呆れたテンションの高さに嬉しくなってしまう。しかしながら、似たような言辞に触れる多くの場合むしろうんざりなのは、そこに創造の喜びが感じられないからで。私たちを解き放ってくれるはずの<知覚の扉>は、私たちを絶望的な状態に拘束する<鉄格子>としても機能し得る。すべての実践は、そんな重苦しい現実の澱を突きつけられつつ、リアルタイムで続いているらしい。

 かつて、ウィントン・マルサリスというトランペッターが、『ジャズは伝承音楽である』というややエキセントリックとも思える持論とともにシーンに現れたのをきっかけとして、『白人に迎合し商業主義に堕した音楽』の是非や、ジャズそしてブラックミュージックの伝統について様々な議論が為された時期があったようだ。しかし、それら枝葉末節すべてはしょって、今もリアルに面白いのは、ウィントン・マルサリス、或いは新伝承派と呼ばれる一派の登場により、<伝統の生命は即興にあり>という奇妙な矛盾が浮き彫りにされたことではないだろうか(ただし、あくまで伝統的な型を尊重する彼らの即興演奏は、必ずしも全面的に自由なものとは成り得なかった)。



 ---- ヨーロッパなどでは、近世末の折衷主義とたたかうことが伝統との決別を意味し、それが新しい西洋建築の運動でもあったのだが、日本の場合、移入したヨーロッパの近世末の建築が日本の伝統をギロチンの刃を落としたかのようにスパリと断絶している。結果、日本では自国の伝統との対決がはぐらかされてしまっているのだ。そのことはそのまま現代の日本の建築界に尾を引いているようにおもえる。(安西水丸)

 一瞬にして無価値にされたかと思えば、何かの拍子に美術品として急騰する。そんな伝統とのおつき合いは、まあほどほどにしておきたいというのが正直なところ。しかしながら、このテの図式は、建築界のみに当て嵌まるものではない。ついでに言えば、「日本の××界」というフレームワークに固執し過ぎるのも、個人的にはどうかと思う。
 いずれにせよ、「伝統とは何か?」という問いを立てた瞬間、内なる何かが「新しいとは何か?」と問い返して来るし、「“受け継ぐ(取る)”とはどういうことか?」と問えば、じゃ「“創造する”とは何だ?」と来る訳で、歴史の断絶=ブランクを埋めるには、何かしらの実践が必要なことは確かのようだ。
 されど我々には、書かれざるものを読む権利がある! らしい。『QBL』は、そんなまっとうな勇気と救いを与えてくれる。



 表題は、フラター・エイカドの悪名高い逆転癖にちなみ、邦題をひっくり返したもの。もちろん、それ以上の意味は特にございましぇ〜ん、です。



(2003.6.28)



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