シャトルリレー

おはようございます。
 シャトルリレー大変遅くなりまして申し訳ありません。
 書きだすとダラダラと長くなって、これでもコンパクトにまとめたつもりです。
 
生い立ち
  昭和22年直井さんより9ヶ月早い3月、旧満州の大連で生まれ
 引揚げまでの幼少期を古都西安で過ごしました。
 家の周囲がどんな所だったか殆ど記憶がありませんが
 土壁の家が多く寒々しいたたずまいだったように思います。
 おぼろげに万里の長城で縄跳びしていたような気がするし、
 家の近くには楊貴妃のお墓があったと伝え聞いております。
 
 父親が無線の仕事をしていた関係で家族と1度も離れることなく、
 戦後の混乱も無事に切り抜け昭和30年両親と9人兄弟揃って帰国、
 以来ずっと横浜市民です。
 
青春時代
  大家族で2軒分提供された長津田の市営住宅の庭いっぱい使って、
 バレーボールやバドミントンのダブルスを兄弟でよく遊びました。
 娯楽の少ない時代窓から漏れる灯かりをたよりに、暗くなっても白球を
 追っていたのが私のバドミントンとの付合いの原点です。
 
 中学校での部活はバレーボール、高校でバドミントンに入部
 しましたがあまりスポーツが盛んでなくのんびりした部活生活でした。
 県大会で伊勢原の生徒が全員裸足でコートに入っていたのが
 不可解で今もって謎として残っています。
 
家庭婦人になってからのバド
  バドミントンなどすっかり忘れていた昭和54年、たまたま市の広報で見た
 平沼記念体育館での市主催教室に参加した後、講師だった小島一平氏
 コーチの“ホワイト”に入部、ママさん競技生活が始まりました。
 練習場が横浜駅周辺と遠かったので2年後“美しが丘C”に移籍、代表だった
 宇宿さんにお世話になりました。
 その頃から明子さんチャーミングで皆に可愛がられていました。
  ピクルスには市ヶ尾中学校が開放されるようになってから練習に参加させて
 頂いているように記憶しております。
  その間宇宿さん、定直さんとママさんクラブ“V.オアシス”創立、
 明るく活気溢れるチームの中で楽しく練習に明け暮れております。
  家業の都合上練習時間があまりとれず、バドのレベル向上
 目指しつつも、無理なく練習に参加し続けられるよう、これからも
 マイペースで足腰労わりながら頑張って行きたいです。
 
バドミントン協会の事
  美しが丘C時代のコーチだった黒崎氏の指導の元、協会設立準備委員
 として正式発足前の予行演習でミニの第1回大会を開催、宇宿さん共々
 選手として参加ということより役員として走りまわっておりました。
  次の年に区内全チームに連絡して本格的に第2回開催、準備を整えて
 翌59年青葉区(旧緑)バドミントン協会を設立致しました。
 大会で直井さんが大変だったとの事ですが、役員も慣れてていなくて
 色々不手際があった事と今思えば恥ずかしい次第です。
 
 今では体育館にも恵まれていますが、当時はあちこちの高校を借りたり
 会場確保が大変な時期でした。大会終了が夜10時近くになったり、
 シングルスにも出場したりと、バド一筋の毎日でした。
 
 協会が軌道に乗った後OBCの近藤さんを会長として家庭婦人連盟設立
 理事を続けた後、平成6年定直さんにバトンタッチし役を降りました。
 今では定直さんが連盟の要として頑張って頂いており頼もしい限りです。 
 
 協会や連盟の土台を作り今の繁栄がとても嬉しく、試合から遠のいても
 協会の大会にはいつでも関心を持ち続けております。
  これからもピクルスの皆さんの益々の活躍を期待しております。
  
  次は多才な趣味で第2の青春を謳歌していらっしゃる
  吉川さん
お願い致します。
 




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