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文芸雑記帳
 
(一)楽天日記平成十六年三月二十四日に載せた短歌
 
●朝露の香りを知らじ
       枯れ果てし庵にありて文読みおれば
〔勉強中だ。朝露のことなど知るもんか。〕
 
●春風の雪にまみれて吹き込めば
       我が心をもしとど濡らさん
〔暖かみを覚えるはずの春風がみぞれのように吹き込めば、書物が濡れるばかりでなく、自分の気持ちも悲しくなってくる。〕
 
●しもた屋にあらば煩(わづら)ふやりくりを
       侘びぬれし庵忘れさせてむ
〔しもた屋どころか、全く商いに縁のない田舎屋にいるのだから、金のことなど忘れてしまおう。〕
 
 
 
(二)楽天日記平成十六年三月二十六日に載せた[勝手な?]思い付き
(若干の修正あり)
 
最近、気付いたこと
 
○久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ○
というのは皆さんご存じの歌ですね。(尚、久方→日→光という関連での枕詞、つまり、太陽の光ということ)
 
これを今様に読み替えると、こうなるのでは。
 
光ものどかな春の季節は、辞令発令の時(昔はどうだったか、調べたわけでもないが、それで「今様」としたわけです。)でもある。(当時の下級貴族にとっては、受領(地方国司)になって大いに稼ぎまくるのが何よりの楽しみであったはず。そうした次第で)誰も彼もが栄耀栄華に心を奪われ、騒ぎ立てている情景は、うららかな春の日差しには似つかわしくもないのではないだろうか。そして、それは、時流の流れから身を引いている自分にとっては、川の流れに浮かぶうたかた(=あぶく)のようにさえ見えることだ。
 
※桜の花の散るのを惜しんだかの如くであっても、そうしたひとときの騒がしさから一歩退いている立場(それは仮想的に措定した立場かも知れない。)からの詠嘆と捉える余地があると思われるのです。栄華に浮かれる周囲から距離を置いて、永遠の光である(多分に)歌詠みへの一途な決意を詠んだものである、と受け取れないでしょうか?
※それが、紀友則の真意かどうかよりも、こう読み替えると、この歌に現代的意義が一層付与されるであろうことに重きを置きたいと思います。
◆楽天日記は高校生以下が多いらしいことに気付いたので、注釈を付けている。
 
 
○大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも○
北条氏に制圧されて存分に力を発揮出来ない源実朝は、朝廷内での位階の昇進に心を費やしていたにせよ、武家政権の頭領として足場を構築しようと種々に努力していた筈です。その努力の一つ一つが、北条側の制圧下に砕け散って来たさまを慨嘆している歌とは読めないでしょうか。少なくとも、彼の深層心理がこうあればこそ、描かれた光景を素材に、究めて婉曲的に、体制上は非力であっても彼の内面にうごめく強い意欲を(少なくとも)後世に託したいと思っていたのではないでしょうか。
 
 
 
(三)平成十六年三月二十八日(日)朝に詠む。
 
春風を埃とともに跳ね返してむ鋼(はがね)の如く凍れる心で
 
 
遥かなる時を超えてぞ顧みむわが心なる永久(とわ)の秩序を
 
 
犯罪の渦巻く街を低く見てわが理想にこそ永久の幸あれ
 
 
現実をかくあらしめし全体に潜勢し居る当為をこそ見む
 
 
 
(四)最近の若者の表記法について
 
 インフォシークのプロフィールでたまに目にするようになり、楽天の日記では溢れ返っていると言ってよい表記法―平仮名や片仮名の小文字(下付き文字のようでもある)が頻出する形態―を指弾する声は聞こえてこないようである。
 この表記法には法則性はないようであるから、表現者は、推論の道筋や表現される思想の中身ではなく、かかる変態表記を頻繁に介在させる恣意性に「個性」のありかを求めているかの如くである。
 体制変動関数には成り得ない瑣末な「個性」の蔓延を望む体制側の要求に呼応した動きと評することも出来よう。尤も、かかる変態表記が恣意的に蔓延していけば、身近なところでのコミュニケーションもその役目を果たし難くなり、総体的には各人が袋小路の中に迷い込むことになるかも知れないのではあるが。
 本来個性とは、所与の・或いは・仮想の全体性に対峙しつつ、独自に全体性を構築しようとするところに生まれるものではないだろうか。そもそも個人には、総体としての宇宙(Kosmos)が圧縮されて投影されている(Giordano Bruno)筈なのである。少なくとも、個人とは、その時々までに作動し来たった自己発展の成果であって、だから人格なのであると言うことは出来よう。
 しかし、現代では、各人が、構造性を失った中にバラバラにされて断片化しているのであり、表現主体としても、無限のテキスト連鎖という匿名の第三者群の中での市場価値による検閲に晒されているのである。表現の送り手よりも受け手の役割の方が重要視されるというわけである。《Tod des Subjektes》(主体の死)と公準化されるような体制の下では、表現主体の真に創造的な独創性が封殺されるであろう。個性は、定型化された象徴の更新過程に埋没する一徴表に貶下されるのである。表現主体の地平から見れば、彼岸的な何かが常に重くのしかかっているかの如きなのである。
 先の変態表記は、こうした閉塞状況にささやかな風穴を開けようとする試行の一つと評価出来なくもない。だが、そうした表現者の交流過程に変態表記が蔓延している状況と各人の表現内容の希薄さ、表現対象自体―それは、当人に纏わる諸事情そのものである―に対する疎遠な関与振り(内面性の一層の希薄化)に照らすならば、そうは言い切れないと思われるのである。むしろ、そこにこそ、《Tod des Subjektes》を看取すべきなのではないだろうか。
 そうだとするならば、かかる変態表記が(支配の一翼を担う)教育機関によって抑制されることはなく、却って奨励されていくのではないか、と危惧されるのである。教育とは、内面性に対する支配の第一歩を成しているからである。この趨勢に対抗する橋頭堡の支柱を国語教育が占めている筈なのであるが、当事者の意識はどうなっているのであろうか。
 
 
 
(五)平成十六年三月三十日(火)朝に詠む
 
紅の夕日に映える雑木林紅き紅葉も戸惑いにけり
(似たようなのがあったような気もするが。)
 
 
雪原をとぼとぼと行く狼に我が面影をこそ見出してけれ
 
 
春風に微動だにせぬ大木も散りゆく花片には敬礼したり
 
 
枕辺に塵積もりたる侘び庵を春一番が掃除してもがな
(別に手抜きしようという気持ちからではない。)
 
 
枕辺の塵を雲にぞ見立ててむ我天上に今ぞ登らむ
(もうすぐ死にそうというのではなく、高見に登ろうという気概を述べている。)
 
 
 
(六)平成十六年三月三十一日(水)夕刻、及び四月一日(木)朝、更に四月二日(金)朝と深夜
 
魔物
内奥に潜む小さな魔物が、ただそれだけに留まりおれば、それを包摂する大きなものにはそうと気付かれずに済んでいるはず。
 
魔物に気付いた大きなものにとって、既にして魔物は、単にその一角を占める小さなものには留まっていなかったのである。
 
一角を占めるという幻影しか見えずとも、魔物は広く拡散し始めており、浸潤し始めているからこそ、大きなものは魔物の存在に気付かされたのである。
 
しかし、魔物の存在・拡散に気付いた時には、魔物を取り払うことは、自らを切り裂くことに等しいことにも気付くであろう。
 
いずれは、魔物が大きなものに成り代わるであろう。
大きなものは、仮に可能ならば、新たな大きなものたる魔物の内奥に潜む小さな魔物に成り代わるのである。
 
※内線に於ける戦いとか、個人の人格・態度・思想の変化とか、組織体の変容とかを念頭に置いている。魔物としては、外来物が典型的であるが、異質の外界との接触・交流を契機に醸成された内発的なものも想定出来よう。
 
 
 
幻覚?
私が私の目でものを見るのではない。
私が巨大な目の中に包摂されているのだ。
私が自分の目でものを見たと錯覚するのは、私を包摂する目が見た映像が私に投影されたからだ。
私が自分の目で見たはずの映像は、その巨大な影に隠れて見えなくなるのだ。
私は、巨大な目を通してしか、見ることが出来なくなるのだ。
だから、私の視覚は幻影なのだ。
 
私が私の鼻で臭いをかぐのではない。
私が巨大な鼻の中に包摂されているのだ。
私が自分の鼻で臭いをかいだと錯覚するのは、私を包摂する鼻が嗅ぎ取った臭いが私に投影されたからだ。
私が自分の鼻でかいだはずの臭いは、その巨大な影に隠れてかげなくなるのだ。
私は、巨大な鼻を通してしか、かぐことが出来なくなるのだ。
私の嗅覚は幻影なのだ。
 
私が私の耳で音を聞くのではない。
私が巨大な耳の中に包摂されているのだ。
私が自分の耳で音を聞いたと錯覚するのは、私を包摂する耳が聞いた音が私に投影されたからだ。
私が自分の耳で聞いたはずの音は、その巨大な影に隠れて聞こえなくなるのだ。
私は、巨大な耳を通してしか、聞くことが出来なくなるのだ。
私の聴覚は幻影なのだ。
 
私が私の舌で味わうのではない。
私が巨大な舌の中に包摂されているのだ。
私が自分の舌で味わったと錯覚するのは、私を包摂する舌が味わった味が私に投影されたからだ。
私が味わったはずの味は、その巨大な影に隠れて味わえなくなるのだ。
私は、巨大な舌を通してしか、味わうことが出来なくなるのだ。
私の味覚は幻影なのだ。
 
私は私の頭で物事を考えるのではない。
私が巨大な頭の中に包摂されているのだ。
私が自分の頭で考えたと錯覚するのは、私を包摂する頭が考えた物事が私に投影されたからだ。
私が考えたはずの物事は、その巨大な影に隠れて想起出来なくなるのだ。
私は、巨大な頭を通してしか、考えることが出来なくなるのだ。
私の思考は幻影なのだ。
 
幻影の思考は、他者と共有されて漂うものである。
それに纏わっては、おしゃべりも活気を帯び、交流も盛り上がりやすい。
互いに加熱し合う喧噪がもたらす熱膨張の中では、誰もが大言壮語する。
その楽しさの中では、誰もが我を忘れる。
だから、既にして巨大な頭の掌中に没しているのである。
 
だが、喧噪のさなかに出来るささやかなエアスポットの中で、私はしばし思う。
私はどこへ行ってしまったのだろう。
どこかへ行ってしまった私が幻覚だったのだろうか。
私を見失い、けだるい我々の中に埋没することが私の本当の姿なのだろうか。
 
たちまち立ち消えになるエアスポットの外に出れば、巨大な頭を乗り越えることは出来なくなる。
しかし、喧噪が消え、熱膨張が収まれば、各人が巨大な頭を対象化出来るかも知れない。
対象化出来るということは相対化出来るということであるから、巨大な頭が構成した地平を越え出ているということでもあろう。
だが、それを可能にする冷却化は、各人を孤立したままに氷結させないだろうか。
 
いや、孤立し、氷結して、徹底して内面化し、そこに潜む巨大な影を排除していくことが先行すべきであろう。
私の内面に潜む巨大な影は、巨大な頭が私に振り向けた影として、私から見れば、巨大な頭に辿り着くための手掛かりであり、私を利する人質なのである。
それを手掛かりとし、人質として活用するためにも、内面に潜む異物を見極める眼力を養わなければならない。そのためにも内面の更なる内奥を探らなければならないのだ。
内面の内奥を究めていくのに応じて、内面の全体がより良く俯瞰しうるに到るからだ。
 
内面化の徹底は、それ自体対象化されなければならない。
それが、その都度の創造というものだろう。
創造の積み重ねは、内面化の徹底でもある。
茫漠とした内面とは違って、対象化された創造物は徹底して吟味することが出来る。
その累積が内面化の徹底を顕彰するのである。
 
小さい物は、私の手でつかみ、作り上げることが出来るように映じるかも知れない。
だが、大きな物、巨大な物は、私の手のみではつかむことも作り上げることも出来ないとしか映じないであろう。
同様に、巨大な頭を乗り越えるのも、私一人ではとても不可能であると映じるであろう。
 
だが、私が、個人として、他と区別付けられたものとしてある限り、そこにこそ全体が、手掛かりとして、又人質として、投影されているはずなのだ。
異質なところにまで遍く反映してこそ全体と言いうるからだ。異質なものを排除して僭称される全体は、部分でしかないのである。
私は、私の個性に於いてのみ、全てをつかみ取り、乗り越えていくことが可能であるはずなのであり、時間と空間が許す限り、そうすべきなのである。
 
 
 
 
(七)私の宝物
あれは、中学一年の秋ではなかっただろうか。美術の時間が校外写生となり、自由に散開した。私は、学校裏手に登り、何故か規則的な長方形になっているため池の脇を抜けて、林の中に入って行った。さほどは高くもない木々を抜けると、一片が百メートルはないと思われるスポットに出た。周囲を緑の林が囲み、前日の降雨による小さな水たまりが点在するためか、地面はうす青色に輝いている。しかも、花畑があるかの如きに、ところどころが橙色に照り映えてもいる。そして、そうしたスポットに、わざとらしく太陽の光が斜めに射し込んでいるのである。この印象派風の光景に私は息を呑んだ。美しいというよりも、もったいないと思ってしまったのである。今、この光景を満喫するのは早すぎる。未来の私のために、この光景は取っておくべきだ、と思ったのである。私には逃げ出すはずもなく思われた宝物に背を向け、今来た道を戻っていった。結局、毎日の登下校時にその橋を渡っている、山間部ならばどこにでもあるような川を描いて提出したように記憶している。
その後まもなくして転校となり、数年後にはその学校は統廃合で廃校になったと聞いている。今では、多分、あの印象派風のスポットも消え果てて、「開発」されきっているであろう。私の宝物の一つは、十分に満喫することもなしに消え果てたのである。今でも思う。何故、あの時、一歩踏み込んで、あのスポットを満喫しなかったのか、と。私は、何故、美しいものにたじろいでしまうのか。しかも、今の私は、未だにあの光景を満喫するに値するところにまで登りつめていないようだ。
最近、INFOSEEKのプロフィールのトップに載せた絵は、元々は花子で描いた幾何学紋様であった。しかし、ネット上のファイル形式に変換した際に、何故かあのように色が点在するように見えるものになってしまったのである。私の宝物にはほど遠いのは言うまでもない。だが、感じが似ているように思える。あの時に、下手な画像を削除もしないでアップしたのは、最終的に出来上がったものが昔の記憶と共鳴するところを持っていたからかも知れない。
 
(八)「巻き添えはゴメンだ」―楽天日記から得た一つの感慨
  楽天日記上で荒らし屋本舗が攻撃を連発していた頃、それまでの常連さん方がパッタリと来なくなってしまいました。まあ、「巻き添えはゴメンだ」と言ったところでしょうか。それとも、常連さんの中にも荒らしに連動していた人がいたのかも知れません。
 人様々であり、その各人それぞれが時と場合によって豹変するのが人間世界の常でしょう。政界にも「風見鶏」と評価された人がいましたね。
  ですが、人との関係の取り結び方の点で豹変しやすい人は、当人自身の存在の足場も豹変しやすいということでしょう。いずれにしても、浮き草人生というわけです。時流に合えば、物質的幸福を極めることが出来るでしょうが、時流に合わなければ、凄惨の極みをなめ尽くすことにもなりかねません。それにしても、浮き草人生を送る人は、お調子モンでもあり、人に頼りすぎる面もあるものです。全体として見れば、いろんな人を食い散らかして回ると言うことも出来るでしょう。
  短期に見れば良さそうではありますが、長期的に見れば非常に危険です。以て、「他山の石」としたいものですね。

(九)蟻を用いた表現
蟻の穴から堤も崩れる=ほんのわずかな油断や不注意がもとで、とんだ大事を招くことがあるということのたとえ

蟻の甘きにつく如し=利益があるところに人は集まることのたとえ

蟻の一穴天下の破れ=大事はほんのささいなことより起こる。ちょっとしたことが原因で大変なことになる。

蟻の思い=小さな力しか持たない者が抱くひたすらな願い

蟻の思いも天に届く(登る)=小さな力しか持たない者でも、一念が強ければ願い通りになるものだの意にいう。

蟻は五日の雨を知る=蟻は五日前に雨の降るのを予知するという意味で、蟻が穴を塞げば大雨の前兆とされる。









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