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遅進児論

 遅進児とは、分からないわけではないが習得するのに相当に時間がかかる子をいう、とされている。或いは、習得能力が部分的にであれ不能化されている子供(LD児)とも言える。問題は、ここにいう習得能力が実体的なものかどうか、ということであろう。

 もし、実体的に捉えるとすれば、つまり、学力の増殖過程が系統樹のように直接理解可能なものに対象化される筈だとするならば、その子の場合何処に欠陥があるか(習得すべき知識・能力―手足の運動なども含めて―に「忘れ物」があるというわけである。)を全て同定してそれらを再体系化し、その子に合わせて体系化された順を追って集中的に訓練すればよい、ということになろう。普遍妥当的な知識・能力の系統樹を整然と体系化しておくことが急務と言えることになる。人工知能とかロボットの制作に近似する課題であろう。或いは、そこで必要とされる知識・能力は既に習得済みなのに、そのことに気付かない(=習得したこと自体を忘れている)とか、思い出せない(=習得済みのものが不活性化してしまっている)ことが多く、それが積み重なってしまった今現在としては習得能力そのものに欠陥があるように現象せざるを得ない場合も多いであろう。習得能力を実体的に捉える場合には、総じて遅進児とは、過去の課題をきちんと習得していないとか、絶えず活性化させる努力を怠ってきた場合に生じると言えよう。(a prioriな能力に欠陥があるとは考えないわけである。)尤も、何故きちんと習得出来ず、又、絶えず活性化させ得なかったかと考えるならば、その時々に習得する知識・能力をその子がその時々に持っていた知識・能力の全体構造の中に有意味に連関付け、それを通して活性化させるという作業を一つ一つ積み上げる努力を怠って来たからだ、ということになるであろう。新規課題に取り組むのも大事だが、絶えず知識・能力の「棚卸し」を積み上げていくことの方が、それまでの努力を無にしないためにより重要ではないか、ということになろう。尚、この点は、人生一般に通じるであろう。又、学問の世界でも、学説の争いの渦中に身を投じるばかりでなく、争いの分岐点を明確にした上での体系化も重要ではないだろうか。全てが体系化され、系統樹を辿れば誰もが予備知識なしに諸学の最高峰に辿り着けるようになれば、《scientia est potentia》に言うところのpotentiaは、社会に差別をもたらし、支配を有効化するためのものではなくなるであろう。それは兎も角、学校教師ならば、児童・生徒の全体に向かって「分かりましたか」と問い、子供たちが「分かりました」と唱和してくれれば、或いは、教室の中に一人でも満点を取ってくれる子供がいれば、きちんと指導をしたことになる(満点を取れない子供は、本人が悪いということになる)のであろうが、一人一人の子供にとっては、そう単純には行かないわけである。この観点から見ても「学校任せ」は親の子供に対する義務の放棄と言えよう。「教科書の内容は全て覚えてしまった」という田中角栄氏の学習方法は、昭和の「二宮金次郎」として賞賛されるべきであるように思われるのである。

 もし、手続的・過程的に捉えるとすれば習得能力とはa prioriな能力であることになるので、遅進児とは人類が共有している筈の能力に欠陥があることになり、遅進児に対処するのはむしろ精神・神経科の課題ということになると思われるのである。そうした能力を担っている筈の脳・神経の一部に構造・形態的な欠陥があるとするわけである。しかし、ロボットの制作ならばそうであろうが、人間の精神・神経的な機能・能力の担い手は、脳や神経のここかしこに対象化されたものとして固定してあるのではなく(尤も、近未来的には全ての機能に「対応」する部位が特定されるであろうが。)、あれこれの配置・作用構造全体が機能的に働くものとしてあるのではないか、と思われるのである。個々の要素を取り出して欠陥を云々すべきではなく(これ自体重要なことは言うまでもないにせよ)、それらの全体性に問題がある筈だということである。そして、その全体性自体が固定したものではなく、人生行路の時々に応じて可塑的に構成されていくものであると考えることは出来ないであろうか。かかる全体性とは、ミクロとマクロ、自然と社会、果ては宇宙も含めておよそ全体として表象出来るものに対する視座・構図の取り方(何を「全体」に含めるかの構図も含む。)に反映しているであろう。外科学的な診断の進んでいない時には、この全体性の構図から所見を制作していた筈である。だが、諸学の体系化・系統化どころか、細分化の進行する近代以降にあっては、医学的な所見を構成するための基準として措定される構図に問題はなかったであろうか。個人の自律性の尊重とか、社会の多元性の承認とは、かかる構図の多様性を承認することではないであろうか。21世紀にはおよそプライヴァシーはなくなる(
Simson Garfinkel)とされているが、もしもparanoia(最近は、統合失調症と呼ばれている。)というものがカテゴリカルに承認され得るとした場合、そのカテゴリーは、少数の特権階級を除いて誰もがBig Brotherの支配下にPanopticonの中で暮らす近未来に於いてさえ、何とか自律性の尊厳を保持しようとする人間らしい試みを先駆的に表現しているものと捉えることも出来るのではないだろうか。監視される自我はループ構造の閉鎖空間を装いつつも、真の自律的な自我はかかる仮装の下に潜在して機能し続けるのである。これは、よほど強靱に発達した超自我を前提しなければ不可能であろう。それは兎も角として、数十年ぶりに再会した旧友のものの見方・考え方が豹変していたので驚いた、という経験は誰にもあるであろう。増して子供の場合には、その可塑性は驚くほどに柔軟なものではないだろうか。そこに期待が持てないだろうか。事故に遭ったために、言語中枢に当たるとされる箇所に構造・形態的な損傷を被ってしまった子供であっても、機能訓練によって代償的な言語中枢が構成されて、社会生活に支障は生じない程度に言語能力が回復したという例も報告されているであろう。習得能力が仮にa prioriなものであっても、それ自体固化したものと捉えるべきではなく、機能訓練に於ける作用と反作用といった社会性の中で可塑的に構成し直されていくものと捉えるべきであろう。そこに於いて、かりそめにa prioriに現象する習得能力を極限まで実体化していく(=対象化して操作可能なものにしていく)対応が上手く協働していけば、精神・神経科的な所見を越えた地平が見えてくると思われるのである。

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