
組織犯罪の民事的展開
本稿は、ピロリッタの著作物でありますので、引用等をされる場合には、少なくとも、ピロリッタの名称とアドレスを銘記していただきたく思います。
組織犯罪は、消費者たる一般市民を標的とした場合―とりわけ零細業者を対象に営業妨害から生活破壊に向かう犯罪の場合―には、平穏且つ公然たる態様(尤も、それさえ表立っての話に限って言えることである。)を以て始まり、終わるのを通例とするのである。被害者側との接点を形成するために事前に犯罪を以て配備された下準備の諸成果(それは犯罪結果でもある。「ほら、外壁のここがこんなに傷んでいますよ。」などと涼しい顔で申し向けてリフォーム契約の締約を已むなくさせるのである。事前に自ら損傷してなければ、夕闇の中で直ちに損傷箇所を指摘できる筈がないのである。よりストレートに、中古車販売詐欺―メーター巻き戻しと報道されたが、そもそもその企業が人身売買にも連動する「大きな組織」の《enterprise conspiracy》の一中核でもあった以上は、その展開する悪行はそれにとどまる筈がなかったのである。―などを得意とする自動車修理会社が、少女誘拐事件などで連動している畜群運送会社員と共謀して被害者車両を損傷し、同じく連動する(正規ディーラーの)畜群社員らとも連動して、被害者をして知らずして、当の器物損壊罪の共謀共同正犯たる修理会社で、まさにコンビニ感覚で修理せざるを得ないように事実上強制する事例もこの地では顕著に認められるのである。尚、こうした背景は被害者には知られていないのが通例である。又、いずれにしても隠蔽され、握り潰されているであろう。)に基づき民事上の契約締結に向けてなされる交渉―それさえ、犯罪活動資金を被害者側から収受しようとする悪行の一こまでしかないのである。実際、そこでは、被害者の自由意思を制圧・支配するために十二分に準備された種々の手法が組織的・累積的に用いられるのである。―に始まり、組織によって制圧された被害者側が抑圧された「自由意思」によって締結する何らかの後始末の契約―自らの犯罪活動の「報酬」さえ被害者側から収受しようとするのである。―を以て終わる(但し、何時又再発するか分からないのが組織犯罪の特徴である。)場合が多いのである。組織犯罪に走る畜群は、被害者は「自由に」とか「任意に」契約したのだと申し開くのを常習とする。(この点では、北朝鮮拉致事件に対する北朝鮮側の少し前までの申し開き―「無理やり拉致されてきた者はいない」=「皆、『自由意志』で来ているのだ。」―と酷似していよう。実際、「大きな組織」はその協働する国際人身売買の一環として北朝鮮拉致事件に深く関わっていたのである。)いわば、度を越した「不公正な取引」(独占禁止法第十九条)と言うことも出来よう。或いは、詐欺・恐喝の(被害者側から見れば、社会構造的に構成されたと言ってよいほどの)組織的展開でもある。自由競争と言えるものが何ほどにか妥当している時・所であったならば、民事関係を契機とした、しかも社会構造的とも言えるほどのこうした詐欺・恐喝は、少なくとも中長期的に見れば、自由競争原理によって排除された筈なのである。しかし、独占時代にあっては、競争に於いては「直接の強制を含むあらゆる手段と方法が用いられる」のであって、「支配関係とこれと結びついた強制関係は独占資本主義の支配的特徴である」(佐藤金三郎「競争・独占」;大阪市立大学経済研究所 編「経済学辞典」、1965(1973)年、所収)、とされるのである。
犯罪組織は、基本的には契約自由の原則の不当周延に依拠している。そもそも、契約自由とは、自由競争に支えられた等価交換であって、経済外的強制(価格差、商略、欺瞞、暴力など)とそれがもたらす不等価交換の排除を本来の意義とするのである。(白羽祐三「契約の自由−現代社会に於ける契約の自由の意義(はたして自由があるか)、その機能」、契約法大系 T契約総論、昭和37(48)年、9−10頁 参照)だから、その前提(=自由競争が妥当しており、等価交換が保障されていて、経済外的強制がない。)が崩れている現代にあっては、当事者が契約内容の形成に対等に関与したと言えるか、交渉の成果について持つ、成功する見込みが対等であったと言えるか、ということを問題にしなければならないのである。(Hermann Weitnauer, Der Schutz des Scwächeren im Zivilrecht, 1975, S.19)別の角度から述べれば、契約という枠組みで締めくくられる社会的コミュニケーションに於いても、手続的正義(憲法第三十一条)や公平の原則(同第十四条)が妥当しなければならないということである。少なくとも、現代に於いては、《the bargain principle》は当然には妥当しないということになる。(参照 Melvin Aron Eisenberg, The Bargain Principle and Its Limits, 95 Harvard Law Review 741 (1982))《the bargain principle》の支柱たる《fairness》と《efficiency》の観点からその適用が支持されないときは、《unconscionability》の出番となる。(at 754)これとの対比に於いて、わが国の「伝統的意思表示概念は、現実に展開する行動に即応した意思過程を認識せず、意思を極めて単純化し固定的に理解した憾みがある。」(長尾治助「消費者私法の原理−民法と消費者契約」、1992(1999)年、129頁;つまり、意思の自由が完全に失われていたと言えるような場合―心神喪失者という無能力者や錯誤の場合―にのみ無効を、それに近似する状態を生み出す所為が顕著に違法である場合にのみ取消を認めるのにとどまっているということである。)「開かれた取引」(同、245頁;真実が開示されていること、他事業者との競争関係に立つ者として公明正大であること、相手方の選択が可能であり、且つ、自由な判断を下すことができる状況が設定されていることがその条件とされている。)と対照関係に立つ「閉ざされた取引」(246頁)に於いては、消費者の真の欲求を確定させない方向で交渉が進められ、消費者を誤導し、対面的・孤立的な交渉環境の下で、セールスマンが抑圧的行動に出て消費者の意思の自由を奪ったり、消費者の意思が不十分であるのに締約の形式を整えることが生ずる。(246頁)いわば事業者は自ら望んで消費者を一時的にであれ機能的に無能力者たらしめているのである。これをして《transactional incapacity》と呼ぶのがふさわしいであろう。(尚、この「無能力」は、消費者という社会的階層から構成・措定される合理的な意思から乖離しているという意味であって、決して当人の属性と解されてはならない。)訪問販売(押し売りセールス)、割賦販売(販売業者が料金を先取りして、消費者との双務性を一方的に奪う。)といった悪徳商法のバラードに於いては特にそうである。《fairness》の観点からすると、事業者は事前に十二分に準備した「不当企画」(同、257頁、注(2);むしろ企業犯罪に向けた《conspiracy》と言うべきであろう。)に基づき、被害者たる消費者を意のままにろうとしているのであり、彼等にとっては被害者の真の欲求などどうでもよいのである。むしろ、被害者たる消費者が保持していた筈の真の欲求を志向するための種々の焦点をかき曇らせ、事業者側が既に設定して置いた罠としての契約構造の中に被害者を拘束しようとして、様々にして不当な手段を弄しているのである。つまり、もし被害者が熟慮の機会を十分に与えられたならば(このことは事業者から十分な情報が開示されるということも含む。又、競争業者との比較対照が重要であるが、とりわけ訪問販売はこの機会を奪うことを強く意図してなされているのである。)締約しないと合理的に判断できるからこそ、事業者側は、被害者の熟慮の機会を奪い取り、いわば、締約というその時・その場に於ける[だけの]「無能力者」たらしめているのである。更には、「接触後の交渉で、消費者の交渉打ち切りの自由を奪い、長時間、消費者を応対させることにより、消費者の受動的姿勢を強めていく現象がみられる。それは、…一面では消費者の主体的な生活への干渉であると同時に、他面では消費者の意思の自由性に対する干渉としての意味を持つものである。」(253頁)通常は一人でいる被害者(留守番とか一人暮らし)を狙い撃ちにして複数人であがりこんで(更なる犯行に向けた)下調べを恣にすること自体が住居不法侵入罪に始まる諸犯罪の酵母形態な(そもそも訪問販売自体が違法である―消費者の依頼が先行していないのに不意打ち的に訪問し、キャンセルされたものなので安くするとかの偽計を以って上がりこんで、他の業者との比較対照の機会を奪いつつ、自らの提供する情報のみによって、不当企画たる契約構造の虜にすべく追い込んでいることは、当の消費者に対する犯罪であると共に、競争関係にある同業者に対する不正競争にも該当しよう。―ことを想起。)のであり、更に締約を要求して居座り始めることによって強要罪ないしは恐喝罪に進むと解されるべきなのである。それは、個人としての自律権(の基盤たる家庭の平安)を侵害し、居座るということ(=暗黙であっても、締約することと交換に退出するという脅迫意思の表明に相当する。)によって他律的に締約させ、他律的に消費者を拘束しているからである。又、《efficiency》の観点から見ると、閉ざされた取引形態を用いて種々の不公正な取引を行う業者は、公正な取引を行う同業者に対しても競争制限的に作用し、それが更には、同業者をも自己の配下に引き入れるという独占の進行にまで弊害を及ぼすに至るのである。従って、競争政策の観点からもかかる取引形態は厳しく制圧されるべきであり、かかる取引形態を常習とする業者には行政目的からも制限が課されて当然なのである。(実際には、そのむさぼった暴利をばらまいてマスコミ等に褒めそやさせているのが実情であるのだが。更に言えば、そのCMなどに登場するタレントは一皮むけば「大きな組織」の持ち駒である場合が多いのである。リフォーム会社の暴利振りは中国での大型買春事件にその氷山の一角を露呈したであろうが、問題はむしろ、中国の売春組織と連動していることから合理的に推論される種々の相に亘る組織犯罪にこの業界が何処まで協働しているかであろう。)そのことを民事上の解釈に反映させることが、信義誠実の原則とか公序良俗違反の法律行為の無効といった原則によって要求されているのである。
契約を、自然的な心理的事実を足跡としつつ締約に向かう構成要件事実としての生成中の契約(der Vertrag als Tatbestand)と当事者の意思が合致したとされるところからもたらされる法律効果の機能形態としての契約(der Vertrag als die funktionelle Form der Rechtsfolgenbestimmung durch
übereinstimmenden Parteiwillen)に分けるならば、前者は契約機能ではない(未だ意思の合致は仮構としても成立してはいない段階)のだから、仮想的な当事者意思を補充したり、所与の当事者意思を変更したり無効にするような主権的(ここは<hoheitlich>の訳である。)に規定付けられた法律効果―それは当事者自治といわれる契約機構によっては達成されない正義を保障するものである。―が結び付けられ得るのである。(Vgl. Walter Schmidt-Rimpler,
Zum Vertragsproblem ; Festschrift für Ludwig Raiser
zum 70. Geburstag, 1974, S.7)それは私人間のコミュニケーションであって、(消費者にとっては重大な)法律効果に向けられているのであるから、尚のこと手続的正義が強く妥当すべき領域であろう。或いは、社会法・経済法などの展開(訪問販売法[今は特定商取引に関する法律;以下断りがなければこう読み替えることにする。]や割賦販売法もそれに含まれる。)も視野に入れれば、契約に入ったことから帰結する両当事者の権利義務は、大部分、当事者の意思の合致の産物ではなくして、「法律の産物である」(P.
そもそも、訴訟以前、或いは、訴訟外の一般社会に於いては、種々の犯罪を極限として幾多の《unlabeled exploitation》や、少なくとも不明瞭で混乱している状態が蔓延しているのであるから、そこから切り取られた・当事者に纏わる(或いは更に、間接的にであれ、それと相似的な関係にある場合も含めて)生活関係を、訴訟手続きを経て正義に適合するものに調整することが裁判の任務なのである。当事者に纏わる法的状況を正義に照らして新たに形成し直していくところに既判力の意義があるのである。裁判によって実現された客観法の保護の下で生活していく可能性を当事者に付与するのが裁判なのである。(Sauer;以上につき、Wolfram Henckel, Prozeßrecht und materielles Recht, 1970, S.50-52を参照。)既判力を訴訟内部的に自己目的化させて一事不再理などに扁平させる(Goldschmidt)ならば、裁判官は既判力によって《eine zweite Ordnung》という《metarechtlich》なものを創るという意味で法を超越した・単に道具の取扱を間違えるかも知れない職人に成ってしまうのである。(W. Henckel, S.48-50を参照)そして、訴訟の背景を成す社会問題と、訴訟は公権力が憲法に基づき設営しているのだということを等閑視するに至る恐れがあろう。尚、Sauerの説く法形成は、訴訟以外の場[である社会]に於いて遍在的に為されていると一応は言える(契約がまさにそうだと言われよう。)が、縷々述べる如く、一般社会では力の優劣、端的に言って暴力が雌雄を決しているのではないだろうか。「理屈ぬきの力の行使ではない『正常な自力救済』」(井上治典「民事訴訟−対論手続としての観点から」;長尾龍一/田中成明 編「現代法哲学3 実定法の基礎理論」、前掲 所収、251頁)というものは殆どあり得ないのである。(畜群が専らとする「口実」を以て「力の行使」を合理化することは許されてはならないのである。何故なら、勢力支配に照らせば、それは不当周延に過ぎないからである。)少なくとも《criminal web》に於いてはそうなのである。だからこそ、憲法に基づき公権的に設営・運用される裁判に於いては力ではなく正義が支配すべきであることを強調せざるを得ないのである。事実上の実効力(=勢力支配などの暴力)を以て貫徹されてしまう法律行為などとは違って、裁判に於いては正義が公権力に担保されて貫徹され得るのであり、又、貫徹されなければならないのである。しかし、当事者諸個人を、所与として前提された共同体に劣後させ、彼の主観的権利に対する保護は、客観法実現のもたらす反射に過ぎないと言い切る(Vgl. Henckel, S.52)ことは出来ないのである。ここでの正義とは、訴訟前の社会的コミュニケーションに妥当すべきであったところの手続的正義を中核として構成されるものであるべきであって、これが両当事者の力関係の差異付けによって阻害されている場合(裁判沙汰になる事案はこうした背景を持っている筈である。通常は訴訟外での力関係の圧倒的な差異付けに従って劣弱な側が泣き寝入りして終わっているわけであるが、優勢の側が劣弱な側の主権的個人としての中核部にまで浸潤しようとするのに及んで劣弱な側がやむなく提訴するとか、優勢の側が訴訟外で自ら展開した悪逆では満足せずに訴訟の場を借りて公権的にも劣弱な側を陵辱しようとして提訴したかのいずれかである場合が多い筈なのである。)には、それを通して実現されるべき・人権規定に定礎された種々の主観的権利の適正均衡が破られているが故に、公権力が介入して手続的正義を回復させ、実体的にも適正均衡を形成して当事者間の生活関係を正義に適合させるべきことになるのである。
手続的正義といっても、当事者間の力関係の優劣が圧倒的な差異付けを以て組織的背景によって構成されている現代社会に於いて、その差異付けを公権的介入によって解消して、実質的平等を形成し直すことを実効的に担保しないままに、安易に「対話的合理性」(田中成明「裁判の正統性−実体的正義と手続保障−」;講座 民事訴訟❶民事訴訟と紛争、昭和59年、100頁)に委ねるとすれば、厳格性(それは劣弱な側を後見的に保護するものに通じる面を持つであろう。)を欠いた・アモルフなフォーラムの如き場に於いて、訴訟前の力関係の再現を許す結果をもたらし、強者の側の丸め込み・ねじ伏せ・封じ込めと弱者の側の泣き寝入りという・当の訴訟の根源を成した悪逆の再現に終わる危険性があるのではないだろうか。
又、その正義実現過程には両当事者が適正且つ間主観的に参加しなければ、生活形成も無実体(もし当事者を抜きにしているならば、こう評されるべき場合が殆どであろう。)の・真の実効力のないものに終わってしまう危険性があるのである。尤も、当事者の参加のありようには、訴訟前、或いは訴訟外の当事者の実質的諸関係を正義に照らして反映させるべきである。刑事事件と重複する場合であるが、組織犯罪の場合には、本稿で縷々展開するように、犯罪組織側の訴訟行為は極めて限定された態様に於いてのみ認めることが出来るに過ぎないと言うべきなのである。不法行為一般であっても、原告(被害者)側の生活関係は既に被告(加害者)側の暴力によって変更させられていることを重視しなければならない。そうした両当事者の実質的諸関係を、正義に照らして、訴訟行為振りやその効果を規律付ける諸規範(元来、その立法目的が正義や種々の私法原則、或いは主観的権利には還元され得ないとされている諸規範も含む。)にも反映させることが先行しなければならないのである。例えば、本件の場合に於いては被告側の訴訟上の行為振りや訴訟前の種々の相に亘る所為に照らせば被告側の時効援用を認めることは著しく正義に反するとか、原告側が攻撃防御方法を時機に遅れて提出せざるを得なかった点にこそ被告側が組織的背景を以て為した巨悪の展開を認定できるとか、原告側が立証できなくとも種々の相に亘るその愁訴を合理的に展開し得ているならば、それとの対比に於いて立証の点で圧倒している被告側の証明妨害と同視できるほどの冷酷さや総じて異様なまでの法的リソース配分の不均衡を根拠に、被告側の主張・立証の全てを「口頭弁論の全趣旨」に照らしてポジ⇔ネガの関係に於いて反転させて捉え返すなどの対処が、民事訴訟法第二条前段(「公正」)を媒介として妥当すべき平等権を中核とする種々の人権規定によって裁判所には義務付けられていると解することが出来る筈である。原告側は、被告組織側が構成し、支配・掌握している《証拠円環》(参照 春日偉知郎「自由心証主義の現代的意義」;講座 民事訴訟❺証拠、昭和58年 所収、48頁)の虜となっているのである。彼に唯一可能と思われる《証拠連鎖》への道も組織的背景を以て閉塞されているのである。一般論としてみても、「話がうまく出来過ぎている」という場合があろう。一方当事者が「これが事実だ」と主張するところのものが完膚無きまでに立証され切った場合には、何故かくまでも見事に立証し切れたのかと反問すべきである。そうすれば、本来的には争点たるべき諸論点やそれに纏わる諸事情は彼が組織的背景を以て完全に支配・制圧し切った上で構成したものに過ぎないことに思い至ると共に、かく思い至ったことこそが正義の要求するところに完全に符合している場合も多いのではないだろうか。「立証」された筈の「事実」が本質規定的に持っていた筈の全体連関性を常に洞察しなければならないのである。それは裁判所の任務を越えるとすることは畜群を利するだけの趨勢にあることに思いを致すべきである。被告人や証人を始めとして、およそ人の個々の経験は、それ固有の視点から「全体」性を反映しているのであるが、その反映する「全体」性を捨象してしまえば、その経験なり証言なりが法廷に照射する実在像さえ歪められてしまうであろう。例えば、積極的抗弁が認められなければ、真の被害者が罪に陥れられてしまう場合も多いこととなろう。積極的抗弁とは、被告人側が裁判所に対して全体連関性の視座に立つよう求める訴えなのである。そもそも個々の要素はそれを構成している全体連関性に照射されたものとして我々に映じていることを忘れるべきではないのである。だから、「事実」とされるものは、それを包含して余りある・種々なる「可能性の一断面」(Leibniz ;参照 Regina Ogorek , Richterkönig oder Subsumtionsautomat? Zur Justiztheorie im 19.Jahrhundert, 1986, S.86, N.43)でしかないと言うことも出来るのである。唯一の、しかしながら狭隘化した視座が捉えた「真実」を探求できるのだと視野狭窄的な要素主義に則って肩を怒らせるよりも、当事者に纏わる法秩序の破綻を修復して正義を回復するという全体連関性の視座に立って、創造的な訴訟の目的に嚮導される謙虚さ(謙虚さとは全体連関性の視座に立たなければ生まれないものであろう。狭隘な視座に閉じこもる陋儒には謙虚さは生まれ難いであろう。)に委ねるべき場合が多いのではないか、ということでもある。だから、裁判官の「自由な心証」はこの上なく重大であると共に、両当事者間に組織的背景を以て為す支配・従属関係や勢力支配が影を落としてはいないかと絶えず感受性を研ぎ澄まして法廷に臨む義務があると言うべきなのである。裁判官に求められている役柄は、忍者などの手下の助けを借りずとも事案の真相を洞察できる「水戸黄門」の役柄なのである。現実の社会は、とりわけ《criminal web》に於いては、遂に水戸黄門が登場せずに終わる「水戸黄門」に成り下がっているのであるが。そうであれば、こうした認定をもたらすためには、原告側としては、被告側が組織的背景を以て強力に自らを囲繞・制圧していた(る)ことを疎明すれば足りると解すべきである。それ以上に亘る主張・立証が出来ない窮境に制圧され切っていることを以て、社会環境的に広範な人権侵害が面的に展開されていたことに思いを致して、裁判所は、法と正義の名に於いて、かかる認定をしなければならないと言うべきである。機能的には《duress》にも相当する事態なのであって、人身保護法が参照されるべき事態でもあるわけである。かかる前提の下であって初めて、そうした認定の上で為されるべき・個別的な生活関係形成力が、既判力として国法上裁判所に付与されていると言うべきなのである。
組織的背景を以てする側は、幾多の《unlabeled exploitation》を以て被害者側の正当な権利主張の意思さえも萎えさせているのである。締約に纏わる諸事情や完遂された契約内容を口外すれば家族にまで累が及ぶとする脅迫罪が中核に位置しているであろう。とりわけ「大きな組織」防衛のために警察暴力も協働している場合はそうである。被害者側に有利に作用し得る種々なる証拠方法も、被害者側にはアクセス不能な・組織によって制圧され切った中にあるに過ぎない。白昼堂々と公衆の面前で為される殺人事件でさえも、証人たるべき者たちは組織的背景の虜であるか、むしろ証言するかも知れない真の「公衆」を排除するために組織の側が意図的に事前に展開していた畜群そのものであるのである。かかる組織側の事前の体制化から漏れ出て証人たろうとする者が登場した場合には、共謀関係にある警察暴力が排除しているであろう。だから、総じて被害者側は、自らの権利主張や愁訴の展開を「時効」によって封殺されたり、「時機に後れた攻撃防御方法」とされたり、類い希にもその展開を許された実体的主張の数々を「立証」出来ないがために排撃されたりするわけである。被害者側は体制化された証明妨害の虜となっているのである。訴訟外の社会は自由・平等の支配する市民社会であり、それを前提して民事訴訟に纏わる諸理論を構築すべきである、とするところの大前提が崩壊しているのである。(《criminal web》がまさにそのことを実証しているであろう。)立証活動を当事者の利己心に委ねればよいとすることは歴史的にも不当周延なのであって、社会に貫通する勢力支配を訴訟上も貫徹させるだけなのである。だから、訴訟の場に於いては、かかる支配と服従を排除し、訴訟の場限りであろうとも真の自由と平等を回復できるような理論構成が求められているのである。
又、手続的正義を抜きにして、客観法の形成・共同体価値の実現を目的とするならば、所与の力関係や勢力支配を改めて司法的にも貫徹させることになりかねないのである。むしろ、支配・従属に染め抜かれた・当事者の生活関係を正義に照らして新たに形成し直していくところに、所与の力関係や勢力支配に制圧された社会に風穴を空けていく突破口を読み取るべきであろう。その端緒は、両当事者の生活関係に浸潤しきっている(一方が他方を支配制圧するという)暴力に対して、その違法たることを宣言することにあるべきであろう。(それが、先行すべき保全を確証し、後続すべき執行を尚更に強く駆動付けるのである。違法の宣言が介在することによって、両当事者の生活事態に対する種々の相に亘る形成的効果をもたらす判決への道が拓かれ得るのである。)そのことは、一方若しくは両方の当事者の背後に控える第三者群にとっても重要な準立法的効果を持つ。ところで、その際、当事者の民主的正当性を問擬しようとする(Henckel, S.56)ならば、裁判官のそれも問擬しなければならないが、裁判官のそれを厳しく問擬することは、裁判官が本来政治的な荒波に翻弄されてはならないことに反するに至るであろうから、当事者のそれも訴訟参加の道を講じて対処すれば足りる筈なのである。尤も、そうした場合には、却って、常に組織的背景を以て裁判沙汰に備え来たっている畜群側に法廷を席巻されかねないが故に、そうした危険性を防遏するに足る対処法を公権的に体制化して置くことこそが重要となろう。そのためにも畜群に纏わる諸情報を開示することが不可欠なのである。ところで、Sauerの説は、私法外の価値考量を手続法に持ち込むことに連なり得るとされている(Henckel, S.52)。しかし、社会的コミュニケーションに妥当すべき手続的正義に定礎された人権を一般条項―民事訴訟法第二条など―を介して持ち込むことは、そうした批判の予想するところではあるまい。尤も、結果として(実体法的意味を持つ)人権規定を私人間に直接適用することになると、裁判官の口を通じて思いも寄らない義務規範(近似的には道徳とされるだろう。)が引き出されかねないと共に、敗訴者の背後に控える匿名の第三者群の人権を専制的に(つまり、彼等に対して手続的正義を十全に保障することなしに)抑圧することにも連なりかねない危険性があるのである。道徳は主体自らが自らを義務付けることを眼目としているが故に、規範的考察―それは中核的には司法権がある人の権利実現を目指して当事者に纏わる法的な生活関係を形成し直すこと(判決)の一環として他の人を義務付けるに至るものである。―から排除されるべきものなのである。(尚、慣習も勢力支配の慣性的表現である限りでは、同様にして排除されなければならないのである。)一般論としてであるが、「義務は凡ての社会規範に共通のものであり、特に法の特徴づけのためには用ひられ得ぬものである」(加藤新平「法―権利と強制」;恒藤博士還暦記念、昭和24年、245頁)とされているのである。まして、道徳を口実に他人に容喙するのは不当周延である(=根拠を欠く)ばかりか、《paternalism》として非難されるべきである(文字通り、親=paterが幼い子を教育するのに用いるのは正当であろうが。)。それにしても、自律性に基づくべき道徳―《criminal web》に於いては、勢力支配に基づく各種の命令が「道徳」乃至は「慣習法」と仮構されているのである。それが仮構でしかないことは、その内容に照らせば明かであるが、さもなくとも、それぞれが(カントの言う)「定言命法」たり得ないこと(それを強制する者自らは全くそれを遵守してはいないこと)によって証明され得るのである。―が他者によって強制されるというのは形容矛盾にほかならないであろう。単に、道徳的命題に含まれる素材が法的命題の素材でもある場合が多いというにとどまる。法と道徳は互いに部分的に交差する円環であるとするのは素材の点で言い得るに過ぎないことであって、その根拠付けや実現方法が違うのである。まして[半径の異なる]同心円であってはならないのである。
道徳や倫理と法を峻別する立場に立つ者も自ら法を評価する際には何らかの道徳や倫理の考えを持ち込んでいるであろう、と批判されることがある。しかし、峻別論者が問題にしているのは、道徳や倫理を法に仮託して強制的に執行することなのである。人口に膾炙しやすい「人権論」はこの傾向を持つであろう。しかし、普遍化傾向を持つが故に曖昧に成りやすい道徳や倫理を法によって強制的に執行しようとすると、《obscurum per obscurius》となって、広範に深刻な被害を自由や諸権利に及ぼすことになり、ひいては社会の健全な発展さえ阻害するに至るのである。
これとの対比に於いて、一般的に言って、社会秩序は国家にとって所与ではなくなっていることを忘れてはならないであろう。「現存する社会−経済秩序に正義が内在しているという信仰は廃棄されている」(Wolfgang Abendroth, Zum Begriff des demokratischen und sozialen Rechtsstaates im Grundgesetz der Bundesrepublik Deutschland ; Festschrift zum 70. Geburstag von Ludwig Bergstraesser, 1954, S.283)のであり、憲法があらゆる法命題の解釈にとって論理的前提となるべきなのである。又、一般的に言って、当事者が理性的に行為していたならば、判決命題に表現されたように振る舞わなければならなかったのであり、それこそが彼の真の理性に照応し、本来的な法的意思に照応するのであるとする(Pawlowski;Henckel, op. cit., S.54f.参照)のは強制された理性を押し付ける権威主義かも知れないが、それは正義に裏打ちされた権威主義なのである。畜群のような手に負えない敵に対して主観的権利を裁判という公権力の助けを借りずに貫徹することは不可能なのである。逆に言えば、090金融のような恐喝乃至は強盗と言うべき犯罪を展開する組織は、むしろ司法権を排除することによってこそ悪行を恣にし得ているのである。畜群の「権利」濫用は、真正な裁判を排除する地平に於いて、恣に貫徹されているのである。そうした悪行を防遏するためにも裁判を受ける権利の意義を声高に主張して置かなければならないであろう。裁判を受ける権利の目的は、こうした公権力の助けを不可欠とする権利の貫徹に仕えることにある。(Vgl. Henckel, S.58)そうあってこそ、「公権力」にいう《公》の文字が光り輝くのである。その名に値する裁判という意味での公的なサンクションを各人が平等に発動できるという前提の下に社会的に対等に対峙し合っており、その公的なサンクションは非公式のバイパス(贈収賄を典型とするが、勢力支配が充溢する社会的諸事象に囲繞されて生じる歪んだイデオロギー―古くは「泣く子と地頭には勝てない」とされていたであろう。―に裁判官自ら汚染されてしまうことが最も恐ろしいであろう。だから、裁判官などに対しては「鉢植え」の如き転勤を徹底しなければならないのである。あの下館・桑名事件に対する判決を書いた裁判官も汚染されていたのではないか、と危惧されるのである。)を経由する方途によっては歪められないことが確立していること、こうした前提が満たされていなければ裁判を受ける権利も画餅に帰するであろう。そして、かかる諸前提が十全に満たされている体制下にあったならば、裁判を受ける権利を実際に発動する必要性さえ極小化する筈なのである。仮にさもなくとも、私的な主観的権利は、裁判沙汰に於いてこそ真価を発揮しなければならないのである。
先述の論旨に戻ると、訪問販売法や割賦販売法が妥当すべき、本源的には違法な契約の場合には、取引安全を考慮する必要性がないのである。(そもそも消費者は重大な瑕疵ある商品をゴミ処理する積もりで投げ売りすることはあっても、些かでも営利性のある転売を予定してはいないのである。)消費者の権利が問題化する場面は全て、「交渉力において劣位にある者を、劣位に引きとめようとする行為」(長尾、前掲、226−227頁)や「消費者のおかれている社会的条件を悪用しもっぱら自身の不当な利益を追求する」(228頁)ケースが問題なのである。別の角度から見れば、それらは「事業者が契約上の義務を履行していないのを消費者において知りえないことが多く、また、その調査が容易でない」(308頁)場合でもあるのである(例えば建築関係)。とりわけ、「行為目的が他人の財産の収奪という不正の目的にあるにかかわらず、その目的達成手段として、いくつかの契約を組み合わせ、…その契約に基づき相手方を拘束し、不正の目的を達成させることがある。」(229頁)ことにも留意すべきであろう。建物修繕などの請負契約なのにクレジットを用いて代金を先取りすることは民法第六百三十三条に違反するという意味でも違法と言えよう。同条項が任意規定であるとしても、消費者法構造に遍在する権力・支配関係の下で、それに抗して法と正義を出来るだけ実現するためには、消費者側に有利に作用する法規定は強行規範と解すべきである。換言すれば、「任意法規と異なる特約でも、これら法規と著しくかけ離れその内容が相手方を不利に陥れ入れる特約は、任意法規に含まれる信義則等の理念により、その効力を認められない場合がありうるのである。」(136頁)
この論旨は、Schuldrechtsmodernisierungsgesetz(2002年1月に施行された)によって面目を一新したBGB§475に規定されるに至っている。そこでは、事業者は、消費者の犠牲に於いて任意規定から外れた「合意」に依拠することが出来ないのである。又、そうした条規を回避することも出来ないとされているのである。総じて、この改正は、(商品引渡の)義務者、就中、売り手の責任を重くしているとされる。欠陥商品の引渡などは契約上の義務違反になるのであり、売り手は、旧法下より遥かに有効で高くつく賠償請求に晒されることになるとされているのである。(参照 Hans Schulte-Nölke, The New German Law of Obligations; an Introduction, http://www.iuscom.org/gla/)
請負契約との関係に於いてクレジット契約は請負人側が消費者を支配し従属させる手段であって、請負人はこれを用いて代金を先取りし、自らの債務履行に関しては消費者の持つべき種々の抗弁(同時履行の抗弁とか)を実効性のないものにすることによって消費者を多様に搾取できる立場(そこには種々の組織的背景が連動しているであろう。)に移行しているのである。つまり、契約の双務性がもたらす保障を破壊しているのである。かように、消費者を自ら威力や偽計―不当企画に基づいているがために、その工作的背景は消費者側からは容易には見て取れないに過ぎない。組織的背景を持つ場合は尚更である。―を用いて無能力者(勿論、機能的なそれである。尚、機能的無能力であるかどうかは、相手側のそれとの対照に於いて、その保持し得ている法的リソースの質と量によって決定されよう。)に近い状況に追い込んで取り引きさせようとする悪行―しかも建造物損壊や器物損壊という犯罪遂行を伴っている場合が多いであろう。組織的背景を持つ場合には、これをこそ真の目的としているのである。―の成果たる「あぶく銭」(人足数人を4−5日出しただけで120万円とか)を、いわば濡れ手に粟の態様に於いて入手させることは、信義則を越えて消費者取引公序に反すると言わなければならないのである。消費者側から見た契約目的の成否は請負業者の胸三寸によって決まるように改変され、消費者側は一方的に損害を被らされたままに押し切られようとしているという意味で自然的正義(契約構造の枠内ではあっても、業者側が不当企画に基づき契約の両側面に充溢させて置いた《bias》に基づき、似つかわしくもなく裁判官然として一方的に自己目的のみを貫徹し切ろうとすることは《nemo judex in causa sua[K1]》に反しているであろう。実際、こうした業者は、消費者側から奪取した「降伏文書」たる契約書だけを盾にして、自らの言動や「債務履行」の際に犯した種々の悪行については否認すれば事足りるとしているのである。消費者側から見て、裁判を締約以前から当然に予定して盗聴・盗撮を以て対処していなければ敗訴は免れないような相手と締約し続けなければならないという合理性がどこにあるのであろうか。)や手続的正義(請負人は、一方的に自らの満足を得るばかりでなく、これと対抗的に消費者側が持つべき法的なリソースを奪っているのである。)に違反し、公平の原則に反しているほか、消費者の財産権や幸福追求権―締約に纏わる意思の自由を損ねているという意味も含む。―を侵害しているという意味で、種々の人権侵害を伴っているのである。そうではないとするためには、少なくとも請負契約とクレジット契約を一体として捉えなければならないのであるが、そうだとすると、クレジット契約は、全一体として解されるべき両者の契約関係にあっては、契約の機能的側面ではなく、締約に向けた要件事実としての契約に位置している(請負人と金融機関は、支払手段としてクレジット契約を消費者に結ばせることによって、請負契約に於ける消費者の対抗手段を封殺し、自らの債務履行は恣意的に履行すれば足りると言える権力支配的地位に至るのである。)のであるから、先述した通り、とりわけ強く強行規範が妥当すべきなのである。そして、上述の通り、請負契約とクレジット契約が連動することによって、本来は双務性によって保護されるべき消費者の立場を危殆化しているのであるから、かように、任意規定に違反している行為が消費者の自由意思に対する侵害となる―選択の余地を奪うとか著しく狭隘化させるとか―場合には、強行規定と同様に解して無効乃至は取り消しを認めるべきである、と言うべきであろう。たとえ請負人側の立場を顧慮するにしても、消費者に便宜を図るというならば、相対で割賦販売契約を結ぶべきであったし、そもそも、取引安全を重視する慎重な売り手ならば、別異の「開かれた取引」形態を用いた筈であると言えるのである。クレジット契約を伴う場合には、事業者を補助者として用いており、消費者側の発意のみによっては締約できなかった(当の請負人に限らない任意の売り手からの買い物にクレジットを使えたわけではなく、当の事業者との当該取引に於いてのみ使えた)という点から見ても、金融機関がシステムを設営・管理して多数の悪徳商法業者とたこ足配線をしていると言えるのである。(これは、いずれかの背景に広域暴力団などが潜在している場合は特に、トラスト型乃至はコンツェルン型の組織犯罪と重複している場合が多いであろう。)金融機関とこれと結合した各種業者との間には共同目的による主観的な関連があると言えるわけである。その関係が金融機関を主とするものか、両者対等に結合しているのかは、消費者側の視角との関係では余り意味を持たないとも言い得ると思われる。ましてや組織的背景を欠いた債権譲渡であるなどと不当周延することは許されないのである。
つまり、規範的にあるべき姿を示すとすれば、金融機関は、各種事業者の債務履行の態様等も広く含めた業務内容や契約の適否等について、信義則上、クレジット契約を結ぶ個々の消費者に対する関係に於いて保証する立場に立っていると言うべきなのである。しかるに、実相としてのそれは、不当企画に基づいて構成された契約構造に訪問販売などの手法を用いて不特定多数の消費者を取り込もうとするのを常習とすることの共謀でもあるのであるから、これと対抗すべき正義が要求するところの・共同目的による主観的な関連(=共謀)に対して課されるべき責任は、絶えざる生成発展過程にあると言うべき・社会一般に対する債務であるとも言えよう。それを具体化していくためにこそ、割賦販売法や訪問販売法などが制定され、改正を重ねていくわけである。共謀者側がこの適用を回避するために悪知恵を働かせた場合には、割賦販売法や訪問販売法はかかる絶えざる生成発展過程にある社会的債務を具体化していくべきものである(=法が先駆的解釈を要求している。;極端に言えば、後ろ向きに守旧的解釈を要求する法と前向きに未来形成志向的な解釈を要求する法があろう。)ことに鑑みて、裁判所は一般条項を介して手続的正義や公平の原則を厳格に適用して、立法措置を先取りすべき司法的解決をもたらさなければならないのである。
かように、両者共謀の上で消費者から収奪している(クレジット契約の利息は事業者が払うなどとしていても、そもそも不等価交換をもくろんでいるからには、利息分も含めた法外な価格設定をしていた筈だと見なされるべきであろう。)以上は、事業者並びに金融機関のいずれかの法的責任は他方も負担すると言わなければならないであろう。「購入あっせん業者は加盟店の販売行為を利用して利潤を獲得する地位にあり、利潤を収得する者は同時に加盟店の行為によりもたらされる損失をも負担するよう扱うのが公平に合致する。」(長尾、同、144頁)販売業者と金融機関との間に連帯関係が認められるというわけである。請負契約とクレジット契約が連鎖している場合には、後述のように、クレジット契約は請負契約に於いて負う請負人の債務に対する保証契約の側面を持つと見るべきだと思われる。とりわけ消費者側から見て両者が密接に連絡を取り合っていることが判明している(消費者が「キャンセルする」と金融機関に申し向けると直ちに事業者が消費者の意向を制圧しようとしたり、解約を阻止するために―割賦販売法上は阻止できないにしても、一般消費者の道義感を悪用しようとするわけである。―契約上の自らの債務を「履行」し始めるなど)ならば、そう解すべきなのである。百歩譲って、消費者と金融機関との独立の契約が成立しているとしても、金融機関は「顧客に対して負う誠実義務の範囲内で」(168頁)「供給業者の不当な行為により損失が生じたとき、与信業者においてこれを負担してよいものと考えられよう。」(171頁)同じく、(不動産ローン提携販売に関してであるが)「融資手続を販売業者に代行させれば、金融機関と販売業者の経済的一体性を顧客に信じさせることとなるし、そこから、販売業者の悪性に起因する契約障害は金銭消費貸借にも影響するという価値判断の妥当性を導くこととなる。」(本田純一「消費者信用とその問題点」;岩波講座 現代の法13 「消費生活と法」、1997年、171頁)と指摘されているのである。
請負契約に関するクレジット販売の場合、金融機関と消費者の関係は、消費貸借のようであっても、消費者自ら金銭を受領しているわけではない。(民法第五百八十七条 参照)「消費貸借が目的物の交付によって成立するとしたのは、社会秩序の完全でなかった時代に単なる口約束だけでなく目的物を入手していなければ取引上安心できないとしたからであ」(基本法コンメンタール 民法U債権法、1972、252頁、石外克喜 執筆)る以上、時代が下っても、組織犯罪の蔓延する《criminal web》に於いては、社会秩序は乱れる一方なのであるから、消費貸借の要物性を論難することは不当周延となるのである。目的物の授受を伴わない準消費貸借であっても、一般に、割賦販売を併せて締約させた事業者が倒産・夜逃げする例が増えていることに照らしても、あくまで要物性を堅持して、金融機関に対して消費者に金銭を交付することを義務付けて、消費者自らが事業者に分割払いをしていくようにすべきであろう。かような分割払いに応じない事業者は倒産間近か雲隠れを意図しているのである。そうであれば、不当にも要物性を回避された[準]消費貸借関係に置かれて自らは金銭を受領してはいない消費者は如何なる債権を持つに至っているかを吟味しなければならないであろう。この締約の段階に於いては、請負業者側からの債務履行は完了どころか、そもそも着手さえなされてはいないのであるし、消費者は金融機関からも金銭を受領してはいないのである。にも拘らず「消費者はクレジット契約を結んだのだ。」とするためには、本来の請負契約に則って持つべき消費者の債権を、社会的に信用ある金融機関が保証したと解するほかはないであろう。
この消費者の債権は、請負人が信義誠実に、善良な管理者の注意義務を以って―家屋の修繕を請け負っていながら家屋やその従物を壊した上に、そのことを秘匿しておく等の所為はこれに反するわけである。特に秘匿していたことは重視されるべきである。「それならば、他にはどんな悪行を為しているのだろうか。」と消費者を不安に陥れるからである。契約関係にあって相手側を不安に陥れる所為は重視されるべきなのである。それは、種々のハラスメントとしても類型化されつつあるであろう。―「仕事を完成すること」という請負人側の債務でもある。これを金融機関が保証したと解するわけである。そして、クレジット契約締結を請負人に委託していた以上は、そうした態様が消費者に与える信頼に照らせば、少なくとも表見代理関係とも見ることが出来るのであって、金融機関側はそこまで委任してはいないと抗弁することは許されないのである。
金融機関と請負業者の関係からすれば、連帯関係が看取できるのであるが、業種の違いに照らせば、連帯債務とするのには違和感が残るであろう。(請負に関して元請け・下請け・孫請けなどが多数登場した場合には彼等の間に連帯関係を認定できるであろうが。)金融機関が登場した段階で消費者が受ける印象に照らせば、上記の趣旨の保証契約の申し込みをなしたと見なすのが実質的でもあろう。そして、金融機関の企画・運営の下に請負人側の業務も展開されているのであって、請負人が入り口に於いて訪問販売という手法を用い、金融機関は割賦販売契約締結交渉について請負人側に委任していた以上は、消費者側から見たときには、金融機関と請負人は主観的関係にあると見るほかはないのである。だから、請負人と主観的共同関係(この概念が曖昧であるとしも、連帯債務者間の求償関係を律する観点から言い得ることであって、消費者との関係という対外関係のありよう如何とは別個の問題であろう。)にある金融機関は、消費者と有償かつ双務的な契約関係に立つと見なすことが出来るであろう。
(甲)⇔消費者(乙)という関係に於いて、甲は乙に対して請負業務を信義誠実に完成させ、乙は甲に対して代金を支払う義務を負うという双務関係が成立するわけである。金融機関は事業者の業務態様等を調べて事業者を信頼すればこそ自らのシステムに参加させている筈であるから、代理関係も合理的に推定されるわけであるが、その子細は消費者側には不明なのである。だから、連帯債務一般とは構成しづらいのではあるが、金融機関と事業者との関係を解釈に反映させるためには、上述の次第によって[連帯]保証契約とすることになるわけである。
仕事の完成に瑕疵があって契約目的を達成できないとき(民法第六百三十五条)を認定するためには、とりわけ建築関係の請負の場合には作業自体が危険を伴うのであって修繕の場合には既存部分や従物に対しても危険が及ぶのであるから、(とりわけ注文者の支配領域内での)仕事の過程や引渡の態様如何も含めて瑕疵の有無を判定しなければならないのである。そして、注文者からは請負人側が契約上の義務を誠実に履行しているかどうかを容易には知り得ないのであり、又、その調査が困難なのである(屋根や床下、隠れた構造部分の場合)。だから、消費者としては表に現れた部分や作業態様―部分的ではあれ建物や従物や庭先の車を損傷するとか、注文者がその意に反する作業(=構造・機能損傷行為)を中止するよう求めても意に介さずに破壊作業を続行するとか―から判定するほかはないのである。そして、その判定の結果が、当該請負人に対して信義誠実に請負業務を完成させることを期待することが出来ない(このまま続行させると―締約に至る過程からの一切の事情をも総合的に勘案するならば尚更に―家屋を損壊される、或いは、法外な「別料金」を請求される)と判定されたならば、同条但書の制約に消費者を服させて置くことには何ら合理的理由がないことになろう。そして、そうであれば、請負人が金融機関と主観的関係にあることに鑑みて、消費者側からの解除を認め、そのもたらす不合理(請負人の「損失」―これは自ら招いたものでもある。)は金融機関と請負人間の問題として解決すれば足りると解することが出来るのではないだろうか。金融機関が、当初の請負人の負担に於いて別業者を紹介して修繕等を行うことはあり得るが、消費者側の甲に対する信頼が崩壊している以上は、それも消費者側の対応如何に係ると言うべきであろう。そして、甲が債務不履行に基づく損害賠償債務を負担すると解すればよいであろう。請負業者の債務が彼の債務不履行によって損害賠償債務に変われば、保証人の保証債務もそれに応じて変わるわけである。その根源は、いずれも甲の内部関係に於ける強い連動性―請負業者の債務不履行は保証人たる金融機関の強い支配の下に生起した―にあると言えよう。
又、約款それ自体が事業者側の組織内部的論理によってのみ作成されている以上は、「信義則に反する内容は顧客の利益を顧慮して制限的に解釈されるべきであり、…また意味不明な部分は企業者の不利益に解せられるべきである」(川島武宜「民法総則」、昭和40(47)年、209頁)と言うべきである。
そもそも、他人の窮状や弱みにつけ込む権利は、誰も持ち合わせてはならないのである。交渉力に大きな違いがあって、不合理なほどに強者の側に有利な条件が定められているときには、弱者の側は実際上の選択肢を持ち合わせていなかったことを示すことになろう。(M. A. Eisenberg, op. cit., p.760, n.55;Restatement (SECOND) OF CONTRACT §208 comment d (1979)を引用している。)売り手が果たして、又如何にその義務を果たすのか、そして、果たさなかった場合はどうなるのか、ということについての規定がない上に、売り手だけが代金を先取りしているような契約は、まさにこれに該当するのである。さもなければ、そうした規定がない以上は、売り手の不当企画などの背景を知らずして売り手側の手玉に取られている状況下に於いて、売り手の言動その他から消費者が合理的に導出し得た期待に添った義務履行が必ずやなされるであろうという消費者の期待をこそ法的に保護すべきであろう。まして、他人を騙したり、窮地に追い込む手法の研究などに投資したこと(豊田商事などは勿論のこと、「客殺し」の手法の開発研究に余念のない株屋や商品先物屋)は、《the bargain principle》の排除をこそ要求するものであろう。そこでは、そもそも取引安全の要請の働く根拠(豊田商事を典型例に採れば、契約目的に合致した先行投資―商品先物市場の会員権を取得するために担保を預けるとか―という受約者側の対応は勿論のこと、そもそも信義誠実の原則に見合う対応が完全に欠落していたのである。)が完全に欠落しているからである。あるのは、消費者を締約させるための種々の「欺瞞的顧客誘因」―不公正な取引方法に関する公正取引委員会告示―のみであったであろう。
アメリカの裁判所は、無能力のテストの持つ辛辣さを避けて、伝統的教義たる《undue influence》の教義を拡張することがある。(ibid., p.766)
@一方当事者が他方の支配下にあるか、或いは、A両当事者の関係の作用を受けて、相手は自分の福利に一致しないようには行為しないだろうと一方当事者が仮定するのが尤もであると言える場合であって、Bその取引が《unfair persuasion》によって引き起こされた場合には、その取引は取り消し得るのである。
@については、悪徳商法のバラードの場合には当然に消費者を支配下に置いていると推定されるべきであろう。そのことはBからも合理的に推論されるのである。Aも、まさに消費者にはそれと気づかれない支配の下に彼を引き込むために悪徳商法によって頻用されているのである。被害者たる消費者が、事業者側設定の不当企画に基づき自らの破局に向かって突き進むベルトコンベヤーに乗せられていることに気づかずに事業者側を信頼し続けているところにこそ、その共謀の底知れない悪辣さが顕現しているのである。
家族から見放されたか、或いは、身寄りがないために一人暮らしをしている老人に取り入って生活資金を悉く奪う罪業に刑事制裁を加えないどころか(取り入ることが、あたかも麻薬のように被害者の意思を意のままに支配・制圧するに至る欺網行為に該当する筈である。)、「契約自由」の不当周延によって不問に付する(少なく見積もっても、被害者は《duress》の下で展開された《unfair persuasion》によって《transactional incapacity》に追い込まれていたのであるから、取り消し得るにとどまらずに、公序に反して無効とされるべきであったのである。)ところに、民刑事法にまたがる司法的対応の重大な問題性が顕現しているであろう。悪徳事業者に対する大衆の金銭債権は「大衆の生活資金にあてられる」(長尾、前掲、310頁)ものであるから、労働基準法第百十四条の付加金の制度と類比的に保護されてしかるべきだという指摘もあるわけである。
尤も、Aについては、それだからこそ、それによって生まれた消費者側の信頼をこそ十二分に保護するような解決を契約の解釈としてもたらすべき規範的要請が生まれるのでもあるが。つまり、《caveat emptor》という古い教義は、売り手側がその明白な表示に有責たるべきであり、売るという行為そのものが《implied warranties》を生み出すのだという教義に道を譲ったのである。(p.780)そもそも、当人の必要若しくは願望、或いはその無知若しくは弱さによって、その交渉力が重大なほどに損なわれており、しかも不当な影響力若しくは圧力が相手側によって、或いは相手側の利益になるように加えられているときには、法の救済が与えられるべきなのである。(p.768)ここに言う「不当な影響力若しくは圧力が相手側によって、或いは相手側の利益になるように(第三者によって…引用者)加えられているとき」というのは、社会的な弱者(つまり、社会構造的に種々の攻撃を受けているか、受けやすい人達)や組織犯罪の被害者にとっても手掛かりとなるであろう。「不当な影響力若しくは圧力」を受けているのが社会的弱者にとっては常態であるし、組織犯罪の被害者にとっては言うまでもないことだからである。特に、契約の相手側が直接被害者を攻撃した場合は勿論、少なくともそれと近似する態様の行動をとっていれば(被害者の車両を当該契約そのものとは直接関連性を有さない別異の駐車場に於いて損傷するとか)、被害者としては相手側は組織と連鎖していると見なすほかはないのである。
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[K1]誰も、自らの審判に於いては、裁判官たり得ない。