努力型とあきらめ型
子供がどちらの型になるかは、乳幼児期の周囲の人たちからの働きかけ、対応の仕方に依存している部分が大きいとされています。確かに、いくら泣いてもほったらかしにされ続ければ、自然とあきらめ型になるであろうと推定出来ます。でも、余りに密着しすぎ、子供の行動に反応しすぎれば、本人は種々の「自動販売機」に囲まれて成長するわけですから、環境へ働きかける積極性を失った子供になるのではないか、とも推定出来ます。その両極端を除けば、そして子供にも(如何に不完全とされようとも)独自の人格性を認めるならば、乳幼児期に環境世界がどう対応したか如何は、その子の将来を決定的に規定付けるとは言い切れないのではないでしょうか。つまり、子供が成長するに連れて、その生成途上にある独自の人格性を以て、乳幼児期に受けた働きかけを徐々に克服していくことが出来るのではないか、と思われます。
子供との有意味な対話が成立して以降は、言語的な対応の如何が重要になると思われます。年を経る毎に、言葉を越えた愛が通用することは少なくなって来るとも言えるでしょう。「言葉は存在の家である」と言われる通りだと思います。物理的な暴力が与える被害は深刻です(単に「痛い」というのではなく、その尊厳性を踏みにじられたという悔しい思いが、その子の生涯に亘って継続します。)が、その子の努力の成果をさんざんになじったり、その子の努力を以てしては如何ともし難い側面(容貌・体型など)を非難するのは、その子を無気力たるべく強要している犯罪だと思います。
集団生活に巻き込まれて以降は、その集団生活の中身如何が極めて重要になると思います。小ボス支配とか多極分散型とか、いろいろあると思われますが、実際に子供が巻き込まれている環境世界の型を分析して、その環境世界とは違った環境世界もあるのだということをよく認識させることが重要です。さもないと、その世界に規律付けられた自我形成が本人の将来を規定付けてしまうかも知れません。読書を典型として、環境世界の種々相を仮想的にでも体験出来る機会を多く設けることが、子供の自己展開・自己発展のために多様な選択肢を準備してくれると思います。それを欠いたままに、実際の環境世界に併呑されたままに少年時代を過ごすことが、一面的な人格を形成していくのだと思います。都会的な環境ばかりでなく田園的な環境を体験することの重要性は誰もが認めやすいところですが、学校の課外活動のように、顔ぶれがいつもと同じでは余り意味はないと思われます。むしろ顔ぶれという社会的環境を意図的にであれ仮想的にであれ改変したものを種々に亘って体験してみることが、本人の真の社会性の豊穣化につながると思うのです。「はきための鶴」とは、多分に仮想的な環境世界を措定することに長けているために、はきための中にあっても孤高を保つことが出来る人を言うのでしょう。「長いもの」にも巻き込まれない地歩を確立することが重要なのです。
かような前段階の体験如何が、本人がどちらの型にぶれやすいかを大きく規定付けると思われます。その枠組みの中で、日々の学習課題のこなし方如何が、努力型からあきらめ型に亘る物差し上で本人を左右にぶれさせていく筈です。そして、一番大事なのは、良きにつけ悪しきにつけ、子供の取り込まれる環境世界のあり方がぶれ方の方向と大きさを大きく左右するということなのです。この点にこそ<保護者>の任務がある、と私は思っています。