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表現力について

 テレビのなかった時代に比べれば、格段に、文字、或いは、文章の説得力が衰え、画像のそれが強まってきた、と言う評言はこれまでもしばしばなされてきたことだと思います。両者の説得力の乖離の根元は、例えば、文学の形象力(訴えたいことを文章の力を借りて形作って受け手に提示する力といった意味です。)が劣化しているということよりも、むしろ、画像の形象力に頼る人が増えているということにあるかも知れません。そのことは、表現の受け手の事情として、例えば、大学生が漫画を読んでいるなどとして、しばしば批判されてきたことでもあります。しかし、そこには、送り手の側の事情も絡んでいるのではないか、と思われます。ある種の蛸壺社会を除けば、あれこれと想定される諸事情をあげつらった挙げ句に選言的乃至は仮言的表現を多く織り交ぜつつ慎重にことを論じていく文章を丁寧に推敲していく人は減りつつあるばかりか、そうした文章を理解出来る・或いは理解しようとする人は一層減りつつあるのではないでしょうか。今もし、KantやHegelが登場したとしても、当時ほどの「評判」を勝ち得たかどうか、疑問に思われないでしょうか。むしろ、受け手の事情を勝手に先取りして筆を運ぶ姿勢―軽妙な筆致といえば立派なのですが、中身も出来るだけ軽くしようとする姿勢が見え隠れしているように思われます。―が市場を支配し、そこでの動かし難い基準になっているように思います。商品化されるためには個性を没却して平準化されなければならないわけですから、それが理に適っているのは確かなのですが、相手方を想定したコミュニケーションと言い、相手側を必ずしも想定してはいない自己表現と言い、およそ表現というものには、かけがいのない個性の担い手たる人間存在が主体として前提されているのですから、本来的には、市場とか商品などとはなじまない筈なのですね。その大前提を受け手のみならず表現者自らがないがしろにするところから、商品には矮小化され得ない―つまり、表現や説得を求める・より根元的なところにある、もっとどろどろと脈動する生に淵源するような―表現力というか説得力というか、総じて人間存在というものの動的な側面が希薄化してきていると言うことも出来るのではないでしょうか。「言葉は存在の家である」(M.ハイデッガー)と言われますが、言葉が商品化に浸食されることによって、存在も影が薄くなりつつあるのではないか、ということです。そして、存在の希薄化が、ともかくも文章の形象力をも劣化させ始めたと言うべきでしょう。
 なお、書家は文字を画像として見ているのでしょう。そこで評価の対象にされているのは、コミュニケーションの手段としての、或いは、人間の自己表現としての文章ではないでしょう。もし自己表現と言うならば、画像としてのそれに、その書き手の自己表現を見出して評価しているのだと思います。一昔前は、字の下手な人は手紙を書くのをはばかったものでした。そこでは、コミュニケーションの手段としての手紙のやりとりが、字の巧拙という画像表現を通した自己表現でもあって、両者が渾然一体を成していたのでした。しかし、現代では両者は分化して、コミュニケーションは音声(電話)や出来合いの活字(メール)を用いて表面的にはそつなくこなされ、画像としての自己表現は独自の芸術の世界に狭隘化していると言うことも出来るのではないでしょうか。確かに、文章表現の巧拙という自己表現も残されてはいますが、複雑な思想を表現する筈の重複文の方が貶下され、小学校低学年の文章表現の方が望ましいとされているように、ここでも退化現象が見られるわけです。総じて、コミュニケーション手段の機能の「進化」とともに、自己表現も兼ねた「手紙文化」も独自の世界に追いやられたかの如くです。
 さて、言語表現の場合には、文の流れとしては単線のようでも、思想の流れとしては複合的・多層的であって、一つの文ではあっても、その意味としては複合的・多層的に構成したくなる場合が多いものです。一つの文の流れに沿っていても、いろいろと思いがあふれてくる場合が多く、それらを全て同時進行的に言語に表現しきれないもどかしさを感じることは多いと思います。そのもどかしさを何とか乗り越えようと呻吟した大家の文章を後世の人がいろいろに解釈して、あれこれの可能な意味を探るというのも、こうした背景があるからではないでしょうか。

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