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<inclusion>について


 人間は自由たるべく宿命付けられていると言いますが、そこでの自由は、選択肢の範囲が身の回りの瑣末な事情に限定されていると思います。大きな枠組みでの実効的な選択肢―それこそが最も重要な問題なのですが―は特定の権力者以外には与えられていないように思います。だから、一般的には、大きな問題には無関心でも、身近な瑣事には熱を上げた対立が生まれやすいのでしょう。そこでは、大きな問題は、身近で瑣末な問題とは連動しないということが前提されているわけです。或いは、我々の身近な問題は、権力者側からは、国会などで論議して解決されるべき問題とは認知されていないということでもあるでしょう。もしそうならば、政界で議論されている「構造改革」にしても、国民一般の利益に適うものではなく、政界に居を定める権力者やその背後に控える社会・経済的な権力者の利害を直接に反映したものであることになる筈です。更に進んで、「公」権力のなす事は「国民」の利害と合致乃至は類似するどころか、これに対立するということになるかも知れません。《nec ulla nobis magis res aliena quam publica》(公的なものほど、我々にとって疎遠なものはない。)という言葉もあるでしょう。
 そもそも公的なものとはそういうものだと言い切ることに対しては、それこそが疎外された意識であると批判されるかも知れません。しかし、一票の格差さえ拡大の一途を辿っている現在、「公」的な領域での利害の調整にその声が反映されない人々の利害は―選挙などの際に―動員・利用されることはあっても、「公」的決定過程に於いては―いつもの「公約」破りに象徴されているように(尤も、最近は「公約」さえも極めて貧相なものしか提示されなくなっています。我々は、なめられているのですね。)―間主観的に<count>されてはないという問題はどうなのでしょうか。或いは、「国民」の側にも、自らの声が反映されることを諦めて、「声」さえ出していない人々も多いと思います。反映されていると思っている人々の場合でも、実相としては、権力者側のスローガンに自らエコーしていたのが、権力者側の下で再びエコーしたのを聞いて、自分たちの声が国政に反映されたと思っているに過ぎない場合が多いのではないでしょうか。(井戸端会議で、「消費税の税率を上げるほかに手はない。」などと口走るとか)自らの足場をよく精査していなければ、自らの真の「利害」がどこにあるのかも不確かになりやすいものです。(消費税の税率を上げれば、自分たちこそが火の粉を浴びるに到ることを忘れているのです。論議されている政策を推進しようとしている権力者側は、税率アップを上回る私益をその政策から引き出そうとしているのにです。)かつて(レーガン・中曽根時代です。)、あるセールスマンが、アメリカでは独禁法の制限を緩和して消費者に奉仕しようとしている、と述べるのを聞いたことがあります。彼が本音で語っていたとすれば、消費者でもある彼は、まさにその典型になるわけです。(独禁法を強化することが消費者の利益になるわけですから。尤も、経済過程一般を広く規制する法体制を俯瞰すると、消費者を祭り上げつつも、実相としては大資本の利害を代弁して、中小零細企業を淘汰しようとする趨勢が強まっていると思います。)尤も、今は民主主義の時代であることは明らかです。しかし、<demos kratia>で言うところの<demos>には、現実には一体どれだけ多くの人々が含まれているでしょうか。そこでの<inclusion>のありようも問題にしなければならないと思います。或いは、国民主権ということも憲法に明記されていますが、「国民」とは抽象的・理念的に想定されたものに過ぎず、主権を正当化するために「国民」という名辞を用いざるを得ない時代になっているというに過ぎないのかも知れません。権力者が「国民」という名辞を弄べば弄ぶほど実体としての国民は零落の一途を辿っていると見ることも出来るでしょう。極少数の「能動的市民」、より率直に「声の大きい」人々の声が反映されているに過ぎないのではないか、という気がするのです。一定の正当な利益主張や意見を体制的に封殺・排除するSelektivitaet(C. Offe)とでも言うべきものが強力に作用していると思われるのです。社会的全体に対する拒否権を持つだけの組織化能力に恵まれている人々―たとえば、医師の集まりが集団的に診療拒否を行うと、一般人はこの上なく困惑するでしょう。しかし、患者が集まりを作っても、集団的に受診拒否をするのは難しいと思います。―、従って又、その声に優先権を付与すべき正当化根拠を随伴するとは必ずしも言い切れない人々の声のみが大手を振ってまかり通ってはいないでしょうか。
 声なき民が声を上げ、自らを組織化することは如何にして可能なのでしょうか。その共通する結節点をどこに見出すべきなのでしょうか。賃金労働者か、消費者でしょうか。商品化の波(アメリカでは臓器も売買されるようになっていますね。そのために中南米では幼児の誘拐が頻発しいるとか。)が社会を荒い尽くしていけばいくほど、そうした立場に結節点を見出しやすくなるとは思います。「人類が孤立し、あい反発する諸原子の群に分解することは、…総じて特殊的利益の破壊であり、人類の自由な自己結合にいたる最後の必然的な段階である。」と言うことも出来るでしょう。しかし、仮にそうだとしても、そうなる前段階に於いては、種々の立場内部にも細目的には利害の対立がある筈であって、一枚岩とはいかないと思います。そこに、優勢に対立する側が工作的に介入して、劣弱な側を内部崩壊に導くことも十分考えられるわけです。従って、過渡期にある現在では、生身の一個人―彼をその余の圧倒的大多数と対比するならば、あまりにも微弱であり、その余の圧倒的大多数から見れば赤子の如き存在です。―がそれぞれに主権的たり得なければ、或いは、少なくとも論理的にそうなるべきであるという道筋を示し得なければ、翻って、集団なり組織なりの主権性もその内(=内部紛争)外(=外部からの撹乱的介入)に問題を孕むものでしかあり得ず、従って、民主主義といい国民主権といい、或いは更に国民主権との対比に於いて人民主権を唱おうとも、対立・紛争問題は常に回避不能のままにとどまると思っています。

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