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プライヴァシーと表現の自由

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プライヴァシーは個人の自律権の防御壁であるが故に、全てに先行しなければならない。

プライヴァシーがなければ、表現活動も自由には行えなくなる。監視されている下にあっては、真の創造力が発揮されなくなることは火を見るよりも明らかであろう。従って又、プライヴァシーがない下での「表現」とは、むしろ体制側によって操作されたものである場合が多いであろう。

表現の自由は、それ自体が目的なのではない。

表現の自由は、それを通して、各人が自己実現・自己発展を図ることが出来るところに優先根拠がある。つまり、プライヴァシーが十全に保障されている下に於いて、プライヴァシーの中からこそ真に生い育つものなのである。プライヴァシーは、表現の自由を発言形態とする精神的自由の胚芽なのである。

民主的な政治体制は、仮に表現の自由を代表とする精神的自由権が損なわれていれば、広く投票権行使の前提も含めて損なわれていることになるので、機能不全に陥るが、精神的自由権ではない人権が損なわれていても、そのこと自体は、精神的自由権の行使、そして、それに基づく民主的な政治過程を通して修復されるであろうから、精神的自由権には優越的地位が認められるべきである、と一応は言えるのであるが、そこでの非精神的自由権に、プライヴァシーの権利が含まれるとは言えないであろう。プライヴァシーの権利は精神的自由権行使の前提を成しているからである。

公人の立場にはプライヴァシーの権利はないとは言い切れないであろう。

たとえ総理大臣などであっても、その私生活を暴かれる筋合いはない筈である。

政治家が愛人と同衾していようとも、それ自体非難される筋合いではなく、むしろそうしたことを暴き出す所為自体が非難されるべきである。

政治家の私生活が監視に晒されているということは、彼の政治家としての識見を磨き上げ、その理想に向けて邁進するための足場が、敵側の「目」や「耳」の侵入を受けているということであるから、同じ「セキュリティホール」を通って、殺害を典型とする攻撃も為され得ると推定されるのである。私生活などを暴くという所為は、被害者側に固有な領分への侵入であることを重視すべきなのである。

公然と糾弾されなければならないのは、政治家としての政策立案の失敗、その遂行の不十分さ、などであろう。たとえ彼が凶悪な殺人犯であったとしても、そのことと政治家としての識見・能力とは当然には結びつかないのではないだろうか。刑事犯として処理されるべきことは、検察側が対処すべきことであって、出歯亀がしゃしゃり出る筋合いはないのである。

公人であっても、そのプライヴァシーが十全に保護されていて初めて、公人としての機能を思う存分発揮できるのである。

公人の立場に於いても、盗聴・盗撮という形態を取った攻撃に晒される筋合いはない。

衆人環視の下で為されることを予定している場面を除けば、公人であっても、攻撃的な監視に晒されてはらない。議会にも秘密会があるように、およそ公人の立場にあるものが扱う問題は、広く一般人に纏わる(ひいては、諸個人のプライヴァシーを脅かしかねない)側面を有するのであるから、少なくとも広く一般国民が開示を求めているとは言えない限りは、その公人が一切の情報開示を拒んでいるのでない限り、彼が望まない形態・態様に於ける攻撃的監視を為すことは許されず、たとえ「世論の公器」を自称するマスコミであっても、別の形態での情報収集に当たるべきである。

上述の理は、公人ではない無名の私人にはより強く妥当しなければならない。公人としての立場をも有する者に比して、圧倒的に劣勢であって、公権力はもとより、マスコミに対しても無力に等しい者を攻撃的監視の下に於くのは、管理国家を予兆するものであり、広く諸個人を《panopticon》に収容する体制を前哨させるものである。

公人の家族などが、公人たる彼の公人としての活動に関与しているのではない限り、公人の家族は私人にとどまると見るべき場合が多いであろう。

公人の家族にはプライヴァシーがないかの如くに扱うのは、公人とその家族を同視する封建的思惟のもたらすところであって、そのこと自体が指弾されなければならないであろう。

表現の自由にかこつけて攻撃的監視を行う者は、むしろ、出歯亀主義に供しようとする商業主義に基づいているのであって、表現の自由を優越させる如何なる根拠にも対立するのであるほか、被害者側に対する社会的な攻撃を前哨して為されたものとして糾弾されるべきであろう。