自己流に走ったり、自分勝手な子供について
(イ)視野狭窄
親や、(真剣な)教師から見れば明らかなように、こうした子供は視野狭窄に陥っています。学習面・生活関係・交友関係から自己の将来像に亘るまで、視野狭窄に陥り得る範囲は広いのですが、以下、学習面に絞って述べます。
広い意味で自己を取り巻いている事態を正確に理解できないということが、「視野狭窄」とされる子供が抱える直接の問題だと思います。自己を取り巻く事態を理解し、それをどう改めるべきか・その推移にどう関与すべきかを構想する土台は、広く思考力であるという意味で、(日本人にとっては)国語力であるでしょう。そして、理解と表現、或いは、読解と作文に分けるとすると、読解といっても、素材を元に自らの頭の中に何をどう再構成するのかということが問題になるのであって、究極的には表現力の問題になる筈です。
自己に固有の領分が貧相であるとか、社会的交流の場に於いて種々の相に亘って被制圧状況にあるとかする場合には、何よりも本人の表現活動が阻害されるので、それ自体が子供を尚更に視野狭窄に追い込むばかりなのです。(→「子供の領分について」)
(ロ)未来を俯瞰する姿勢の欠如
人生に起こりうる種々の相を全て直接体験することは不可能です。しかし、小説などを多く読むことは、これを可及的に可能にします。ですから、小説を多く読むことは、たとえはきための中にあっても希望を失わず、自己のあるべき将来をしっかりと見据えて難事を突破していくことにも連なると思われるのです。
小説など読もうともしない子供―そうなってしまったことの原因の一つには親の教育の仕方がある筈です。―に対しては、手近な例として、親の体験を披露しておくことが、子供を未来志向の強い子に育てるために不可欠となるでしょう。小説とは異なり、親の体験を素材に対話を展開していく場合には、「登場人物」に直接話を聞くことも出来るわけですから、各場面を構成していた背景やその推移を構成していた背景(何故登場人物はその時こんな風に行為したかとか、登場人物がこういう積もりで始めた行為が何故予想外の結果を招いたのかなど)もよく理解でき、自分がそこでの登場人物であったならばどう行為すべきであったかなどに関する理解も深まるでしょう。そのことが、現実世界でのこれからの子供の生きる力を強めていく筈です。
問題は、親自身が自らの体験を対象化しようとさえしない場合が多い、という点にあるのではないでしょうか。子供の問題には、親の(潜在的なそれも含めて)問題が―遺伝という問題を遙かに越えて―投影している筈です。子供の抱える問題が顕在化した場合には、親自身の深い反省が要求されているのです。実際、親が自己の人生体験に纏わって殻に閉じこもっていたから子供もそうならざるを得なかったのだと言うべき場合が多いのです。子供をもうけることには大きな責任が伴っているという・当たり前のことに思いを致して欲しいと思います。
(ハ)思いやりについて
自分勝手な子は、他人に対する思いやりに欠けているとされる場合が多いようです。思いやりに欠けてしまった原因は、乳幼児期に他人(この場合には親)との相互交流を適正に学習していなかったことにある場合が多いでしょう。(特に昨今は、子育てを知らない若い母親が多すぎるように見受けられます。)もし、「昔は優しい子だったのに」と言われる場合には、その転機を成した背景を探索すべきでしょう。そうすれば、その殆どは学校生活にあったことに気付く筈です。例えば、あのころに言葉遣いが荒くなったとか、態度・物腰に変化が見られたとかいうことに思い至るでしょう。変化の兆しが見えた時に機動的に対処して、学校に申し入れるとか、転校するとかしていれば良かったのです。今では登校拒否という手段もありますね。幼児期に家庭学習をしっかりしておけば、そうした学校に行くこと自体が時間の無駄であり、自らの[潜在的]能力の破壊に連なるのだとして、登校拒否すべきでしょう。これからは、登校拒否や引き籠もりも積極的な価値ある選択肢として評価していくべきかも知れません。(自宅でテレビ漬け・ゲーム漬けになっていたのはいけませんが)
総じて、思いやりのない子は思いやりのない社会に生まれる、と思います。そのことは乳幼児期からの「刷り込み」とか「学習」に根拠付けられるでしょう。逆に、思いやりに溢れる子供ばかり育ったのでは、体制側も戦争を仕掛けたりしにくくなりますね。だから、体制を変革するには到らない程度の暴力の蔓延は、体制側からも望まれているわけです。せいぜい、周囲の十数名を殺害するだけに終わって絞首台に登ることになる者が次々と登場することは、かかる体制がもたらす副産物でもあると言えるでしょう。こうした体制側からの構成付け(それは国家が主役を成して構成しているものです。)に対抗する術にも成り得るものが、家庭での子育てであり、家庭学習であると思います。より大きな枠組みに於いては、囚人や精神障害者や種々の社会的弱者を含めて広く一般的に誰に対しても、我々はあなたをも包摂する愛の絆に於いて互いに一体なのであるという間主観性を共有する対応が誰にとっても実行可能になっていることが不可欠の前提を成すでしょう。ですが、自らへの接触を図ろうとする者が如何なる悪意に満ち溢れているかが予知できない現代に生きる者としては、こうした対応を実践することは非常な危険を意味します。相手との共通項を見出せないからでもあります。社会がかように《fragmentation》化していけば、各人はその私事や身近な対立に忙殺されて、より高い俯瞰を以て体制問題を見極め、これに対峙していくことが出来なくなります。それこそが体制側に望まれているのだ、と言ってみても、目の前の子供をどうしたらいいか、という問題は残ります。
ここでも、私は、自己に固有の領分を拡充しつつ、社会的交流の場の手続を適正化すべく要求し続け、疎遠な権力の要求を当然視することなく絶えず吟味し直すこと、これが基本的な対応方針になるべきである、と思っています。自己流に走ったり、自分勝手である子供ばかりでなく、落ち着きがなく、切れやすいとされる子供にとっても、まずはその子に固有な領分の「在庫調べ」(その手順の適正さが担保されていなければならないことも含みます。)が先行すべきでしょう。そして、在庫を積み増すにはどういう手順で事を運ぶべきかを十分に対話すべきです。社会的交流の場で不当な搾取・収奪に遭ってはいないかも吟味の対象になるべきです。疎遠な権力のリモートコントロールに遭っている場合も十分に想定されます。更に、こうした手順と平行して、広く遠い射程でもって俯瞰できる力を身につけ、実践していくことでしょう。それは、問題視されない人も含めて、万人が採るべき対処法でもある筈です。