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家族愛について

 以前、引きこもりになってしまった少女に対して、その両親が罵詈雑言を浴びせ、こもごも暴行を加えているさまをテレビの報道番組で見たことがあります。ともかく引きこもりは悪いという前提に立った番組でしたが、果たしてそう言いきれるでしょうか。「社会的殺人」とまでは言わないにしても、社会的暴力(最もありふれているのが交通戦争・公害などですが、種々の相に亘る勢力支配がもたらす暴力も含めておきます。学校に於ける「いじめ」も典型例の一つですね。)が溢れかえった現代社会に於いて何とか生き抜くために手近な方策が引きこもりではないでしょうか。さもなければ、そして、この少女がもう少し図々しければ、外に出て行って、何らかの犯罪被害に遭うか、自ら何らかの犯罪に関与するか、いずれにしてももっと悲惨な蟻地獄が待ち受けていた筈です。
この両親は自らの「体面」や「財産」(子供に食事を賄うことの費用とか)を口実に攻撃していたと思いますが、引きこもる少女自らが彼らの閉塞的な家族関係を体現していることに気付かないのでしょうか。両親の口実は、彼ら自らが一般社会に於いて被っているであろう被害に対する代償として娘を攻撃することを正当化するためのものだったでしょう。一般社会に於いて「成功」している人たちならば、「娘一人ぐらい、遊んでいようとも養っていけるさ」と気楽に構えていた筈です。さもなくとも、我が子と共に引きこもりの原因を探り、共に悩み、共に泣く姿勢を保持乃至は回復していたならば、引きこもりは解消していた筈なのです。この両親は自らの娘に対する共感さえ持ち得なくなっているわけですが、一般的に言っても、現代は他者への共感を保持することが著しく困難になっているでしょう。テレビ番組などの仮想の世界に於ける他者に対してならば可能でしょうが、現実世界であり、最も身近な存在である家族に対してさえ共感し得ない両親、彼らは現代社会の縮図でもあったように思います。この両親を見ていて思いだしたのが、かつての戸塚ヨットスクールです。彼らは、スクールに子供を放り込んで子供が死ぬ(殺される)のを待っている両親と同じではないでしょうか。わが子の死を知ってスクールに抗議に来た・まともな両親に対して「子供を殺して貰ったのだから、礼を言うのが当たり前じゃないか」となじるおばさん連中が出ていましたね。この連中とも同類でしょう。
 
 我々は、どう転んでも避けることの出来ない過酷な競争社会に放り込まれているようです。そこは、「スリーストライク、アウト」が過酷な刑を正当化するものとして持ち出されるほどに、常に生死の境目を行くような熾烈な競争社会であって、共有しうる「利益」もないかの如くなのです。「失敗」は「ドンマイ」では済まされないのです。そこで自己保身を図るために不可欠の規律は、他者に対して異常なまでに攻撃的な個人主義です。それが家族内にも貫徹されるならば、これまで家族をつなぎとめてきた紐帯が、とどのつまりは家族愛ではなくて、転倒した財産の共有のなかに必然的に温存されていた個人的利益であったということが明らかになっていくでしょう。かつては市場化が階級分化を促したと言われたものでした。その法則性には今でも変化はありません。それどころか、市場化が分解をもたらす領域が家族内にまで浸潤しているのです。社会がおしなべて細分化・孤立化の道を辿り、相反発する原子になってしまうことは「総じて特殊的利益の破壊であり、人類の自由な自己結合にいたる最後の必然的な段階である」(エンゲルス)と言うことも出来るでしょう。しかし、その「最後の段階」に於いて悩み苦しむ人々はどうすべきなのでしょうか。私にもこの問に対する解答は未だ見出せないままにとどまっています。
ところで、この趨勢は資本主義化に伴って現象してきたわけですが、それを準備したのはカルヴィニズムであったでしょう。カルヴィニズムが(未来の)ブルジョワを徹底的に孤立化させ、神の栄光を増すために合理的に構成された営利組織を足場に攻撃的な競争主義に走るよう駆り立てた頃に、(未来の)プロレタリアートは中世的な自然共同体に未だ安らぎを見出していたり、カトリック教会の提供する種々の福祉の恩恵に与っていた筈です。後者の拠り所が最終的には「市民」革命などを経て徹底的に破壊されていくに連れて、プロレタリアートの徹底した孤立化が激化していったわけです。総じて「カルヴィニズムの神が、けっきょく個人の利己的行為をささえるものとなった」(水田洋)と言うことが出来ると思います。個人主義が個人の足場を徹底的に破壊し食い尽くしていくのです。そして、「他人を頼る者は呪われるべし」などとするユダヤ教との共通点がカルヴィニズムに見出されるのが気になるところです。


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