希望を持てる条件
《vivere sperare est》(生きるということは、希望を持つことである。)と言われます。(誰が言ったかは確認してませんが、ラテン語の教科書に載っていました。)希望を持てるとは、自分に纏わる諸事情を出来る限り自ら構成できるということでもあります。個人の自律性とか、主権性とでも言うべきものです。でも、この混み合っていながらも砂漠のような社会に於いて如何にしてそれは可能でしょう。私は、とりあえず、他者とか権力とかに翻弄されつつも、そうしたことをも自分の理性の中に捉え込むことが出来る(それなりにからくりを洞察出来る)ことが大前提になっているように思います。
私の捉え込んだ限りに於いて言えば、社会に蔓延する種々の相に亘る暴力を排撃していくことが不可欠だと思います。大気汚染や騒音・振動などの「公害」や「交通戦争」、家庭内不和からdomestic violence、deadly weaponを用いた犯罪の蔓延、そして、何よりも戦争という極限形態、どれをとっても、安住の地は見出し難いかの如き状況にあります。蔓延する暴力を根絶することは直ちには不可能ですし、まして個人の努力によってそこへと近づこうとすることも困難でしょう。ですが、暴力が蔓延するに到っている背景図式・社会的な因果関係を洞察することは可能ですし、この点の洞察を踏まえてこそ解決策の構想へ近づくことが可能になる筈です。
しかるに、こうした社会問題を脇に置いたままで、よく言われるのが、自らの心の中に安住の地や諸悪の根元を見るべきだとする考えです。悟りを開けば、全ての問題は解決するとか、己の内面に巣くう邪悪な心を戒めるべきだとするわけです。卑近な例として、学校の「いじめ」問題に対して、いじめられる側にも責任があるという提言が挙げられるでしょう。しかし、例えば太平洋戦争終結直後に「一億総懺悔」と言った権力者ほど厚顔無恥な者はなかったように、いじめられる側が仕掛けているわけではないのに、一体どんな責任があるというのでしょうか。「一億」の民の殆どは戦争に纏わる諸事情に何等関与していなかったのです。戦争へと駆り立てる雰囲気の醸成に一般民衆も関与していたと言えそうですが、それさえ、新聞や地縁的共同体への上からの働きかけによって意図的に醸成されたものに過ぎなかった筈です。総じてこうした考えは、自らの心のあり方次第で、その余の問題を解決するに到りうる「絶対君主」の立場に立った場合にのみ可能なことであって、「平民」には余り意味を持たないと思っています。医学が発達していない社会を想定した場合、病気に罹患した時には、あきらめるか、これは自己の悪行に対する因果応報であるとして自責の念に駆られるかの何れかしか、対処法はなかったでしょう。これと似ている問題だと思います。医学を進歩させることに協働することによってしか解決出来ない問題だったわけです。そうした協働や自己努力こそが、希望の源泉であり得るのではないでしょうか。
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