名誉毀損罪などについて

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第一 名誉毀損罪について
T 刑法230条の2第2項にいう「未だ公訴の提起せられざる人の犯罪行為に関する事実はこれを公共の  利害に関する事実とみなす」という規定につき
@ 公訴の提起された犯罪事実は、憲法37条、82条に「裁判の公開」が明記されている以上、これを「公然摘示」することは「名誉を毀損」する故意がなく、その「目的専ら公益を図る」ためであるならば、直ちに名誉毀損罪を構成するところとはならない。しかし、被告人は無罪と推定されるべきである(さもなければ、当事者主義的な訴訟構造を定める刑事訴訟法、とりわけ証拠調べなどは無用となる。尚、世界人権宣言11条、市民的及び政治的権利に関する国際規約14条2項 参照)以上、少なくとも第一審確定前に於いて捜査・訴追機関側に立って一方的に被疑者・被告人を犯罪人として社会的に公告することは名誉毀損罪を構成すると推定すべきであり、対審的なやり取りをそのまま反映する形での報道であって始めて名誉毀損罪を構成しないとしなければならない。まして、公訴提起前に於ける捜査機関側の発表をそのまま引き写しにした報道は、一方当事者に国民を組みさせて被告人側に社会的圧力をかけようとするものであって、憲法13条に人権の中核的権利として定められた個人の尊厳を侵すものであるとともに、(マスコミ報道などに接するのは裁判官としても社会人として当然あり得ることであるから)裁判官にも影響力を行使して、「公平な裁判」(憲法37条)を侵害するものといわなければならない。

A 公訴提起前にとどまらず、「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない」(刑事訴訟法47条)のであり、その趣旨は、
A訴訟関係人の名誉を毀損せず、B公序良俗を害さず、C裁判に対する不当な影響を引き起こすことを防止することにある。(参照 最判昭和28年7月18日刑集7−7−1547)Cは、マスコミ報道などを通して裁判官に予断を抱かせるのを防ぐのであり、起訴状一本主義に反するに至ることを防止するとともに、憲法37条にいう「公平な裁判」を受ける権利を保障することによって、憲法31条の適法手続きを保障し、以て憲法13条にいう個人の尊厳を保障するものである。Bは、刑法学上にいうところの「社会的法益」というべきだが、社会的法益とか国家的法益というのは、社会科学方法論上にいわゆる方法論的個体主義を以て全て個人的法益に還元され得、又還元されるべきであるところのものである。ただ、その還元の手続きを具体的にとるのは困難である一方、その構成要素との因果的関係は子細には証明し難いのが通常である。しかし、一般人の考えに於いても何らかの集合体に対する侵害がその構成員に対する侵害と捉えられ得ると想定されるのである。従って、これも又憲法13条にいう個人の尊厳を保障するに資するものであると言えよう。そうすると、公判開廷前に於いては、訴訟に関する書類に記載されているであろう事実、判断、評価等と何らかの視点に於いて相関する内容を一般人の広く知るところとすることは、上記ABC、そして人権の根本的規範と言える憲法13条に違反するに至るというべきである。そうすると、公判開廷後は、そこでの対審的やり取りと比例的な関係を保ってこれを公表することは、これも究極的には個人の尊厳に淵源する「裁判の公開」に資するがところあって許されるものと言わざるを得ないが、それ以前に於いては、マスコミ報道等は厳に自粛しなければならない筈である。この点を考慮しない報道は、被害者の名誉を損ない、公平な裁判を経ずして世人に偏見と差別の意識を持たせ(これは、政治的言論を衝突させて民主的基盤*1を高めようとする意識を麻痺させ、社会的なスケープゴートを求める政治的自慰行為に浸らせるに至り、ひいては体制の末期症状を呈するに至るものである。)、更に裁判の公正さを失わせるものである。従って、公訴提起前にとどまらず、公判開始前に於いては、被疑者・被告人の氏名等を明かした犯罪事実の報道は一切許されないと言わなければならない。そして、公判開始後は、当事者のやりとりをその質と量の点で公平に反映する形で報道するものであって初めて、上記各規範、就中憲法13条の個人の尊厳を侵害しないと言うべきである。

B およそ犯罪事実は「公共の利害に関する事実」と言えよう。しかし、少なくとも第一審確定前は、そもそも犯罪事実の存否(正確には、訴因の当否と言うべきであろうが。)が未定なのである。まして公訴提起前の「犯罪」事実をおよそこのようにみなすことは、上記
ABCの趣旨を危うくし、ひいては個人の尊厳を損なうに至ると言うべきである。従って、刑法230条の2第2項は「未だ公訴の提起せられざる人の犯罪行為」と規定する限りで違憲無効と言わなければならない。合憲的に限定解釈を施すならば、「公判が開始された事件」と言うべきであろう。

U 刑法230条の2第1項の「真実なることの証明ありたるときは之を罰せず」という規定について
@ 同条第2項は現行のままとすると、公訴提起前の犯罪行為が真実なることを証明できるほどに熟知している者は、まず以て告発(当人が被害者でもあるときは告訴)をすべきであると言わなければならない。当人が如何に確信していようとも、現体制に於いては、裁判を経なければ、その真実如何は決定できない筈である。証明できるならば、その証拠を添えて告発・告訴をすればよい訳である。そうして、有罪判決確定後に公告したければすることになり、その相手先・公告の態様等を斟酌して、更にその所為が名誉毀損と言えるかの新たな裁判が始まると言うべきである。

A 証明できるほどに熟知していても、告発・告訴をすることなく、却って自ら名誉毀損の行為に及ぶ者は、その証明のための証拠を違法な手段・方法を用い、違法な態様*2に於いて収集しているために、自らの犯罪行為が公判手続きで公になるのを恐れて、告発・告訴をしなかったか、或いは、「未だ公訴の提起せられざる人」に対する攻撃(名誉毀損・偽計業務妨害等)を、その専らの目的としていたからに違いないのである。「公益を図るに出でたるもの」ならば、まず以て告発・告訴(これこそが公益を図るための最初の手段であろう。)に至る筈であり、にもかかわらず名誉毀損等の所為に出ても罰せられるべきではない場合とは、主として政治的背景があって告発・告訴を受理して貰えなかったとか、捜査機関にある者が遵法精神に乏しく、その内容を軽視したためであるとか、或いは、告発・告訴をした者が、とかく針小棒大に思考する習癖を有していた場合(可罰的違法性や期待可能性についての考察に未熟であったことなどが背景にあろう。)の何れかであろう。(前2者の場合は、名誉毀損者には可罰的違法性がないことになり、最後の場合は、同じく期待可能性がないことになろう。)何れにしても、告発・告訴を受理して貰えなかったからといって、名誉毀損の行為に及ぶことが直ちに正当性を未だ帯びることはないのであって、第3者の判断を経由する必要があると言うべきである。尚、告発・告訴、就中被害者からの告訴を殊更受理しないのは、その公務員が当該犯罪行為に自ら加功しているならば格別、さもなければ、公務員職権濫用罪(刑法193条)に該当し、更なる告発・告訴を促すことになろう。そうした過程を経た上で、捜査機関
Û犯罪熟知者のやり取りを踏まえた形での事実の報道を報道機関に促すのは正当性があると言えよう。逆に、そうした過程を経ずして、直ちに名誉毀損等の所為に及んだ者は(共犯も含めて)、彼/彼女らの熟知する犯罪事実に関しては、告発・告訴することができないと解さなければならない。さもなければ、彼の熟知する犯罪事実の行為者は、公訴提起前には名誉毀損者とその共同正犯を通して社会的に拷問を経た上で、公判手続きに乗せられることになり、二重の危険*3に晒されると言わなければならないからである。そういう意味でも、第一審で有罪確定前の人の「犯罪事実」を公然と摘示する行為はそもそも公益を図るものとは言えず、名誉毀損罪に該当すると言わなければならない。

V 刑法230条に言う「事実を摘示し」という規定について
@ 事実を摘示するには、その内容を認知し得る相手方が要る。その相手方は、認知内容を秘匿して内容の伝播を防ぐか、更に内容を伝播させていくかの何れかを選ぶ。他人事に対する干渉を嫌う都会的な地域では前者の場合が多いであろうが、そうではない地方では後者となるであろう。とりわけ内容が人の興味を引くものである場合には後者とならざるを得ないであろう。又、都会的な環境では、当初の「事実の摘示」が、被害者の関係者を正確に対象にのぼせなければ、そもそも被害者が誰かさえ不明に終わる場合も多いであろうが、地方的な、地縁・血縁の強い地域では、抽象的或いは漠然とした摘示でも被害者が誰かが分かってしまう場合が多いであろう。従って、事実の摘示を受けた者は名誉毀損行為の共同正犯たらざるを得ない場合が多いと言わざるを得ないのである。尤も、ここでの共同正犯は、正確には承継的共同正犯と言うべきである。一連の名誉毀損罪の実行行為(中核的には「事実の摘示」)については、後から犯行に参加した者もそれに先行する行為者の意思を了解し*4、且つ、その成立させた事情*5を利用するのであるから、行為の全体について共同の意思が存在すると言わなければならない。
  名誉毀損罪は継続犯であると解すべきである。そして、法益侵害状態の継続が、常に更なる法益侵害行為を誘発していくのである。この点で、捜査機関を構成する者は、国家・地方公務員法上守秘義務があるが、名誉毀損罪の性質に鑑み、捜査の方法・態様に於いて、自ら名誉毀損行為の共同正犯に陥らないように十分配慮する慎重さが要求されるというべきである。又、名誉毀損罪についての告訴期間の制限は論理的にもあり得ないといわなければならない。その意味で、刑事訴訟法235条は当然に刑法232条には適用がないと解するのが相当である。初発の実行行為があれば、永遠に告訴は可能と解さなければならない。

A 名誉毀損罪の「事実の摘示」に該当すると思われる文書・画像等と思われる物に接した者は、内容を検証することなくこれを廃棄するか、該当すると思われる被害者に直ちに還付するかの何れかを採らなければ、名誉毀損罪の構成要件の枠に入り込まざるを得ないのである。名誉毀損罪には未遂罪を罰する規定がないが、概念上は、事実の摘示に該当すると思いながら如何なる内容かと検証しようとすることが既に名誉毀損罪の実行行為に着手している(共同正犯になっている)ことである、と言うべきである。最初に名誉毀損行為を始めた者は、公然事実を摘示する手段・方法を制作し始めた段階(違法な手段・方法を用い、違法な態様に於いて準備行為に入った場合には、その段階)で着手があり*6、公然事実を摘示した時に既遂となるが、その受け手は、その内容を検証しようとした時に着手があると解しなければならない。というのは、事実の摘示を受けた(これ自体は、表現の自由、その他社会的な意思の疎通の自由ということで、何ら法が関知すべきことではない。尚、世界人権宣言12条にいう「通信」の自由保護、並びに、市民的及び政治的権利に関する国際規約17条にいう「通信」の保護、等参照。)が、内容を検証するかどうするかの決断の際に実行行為に着手するかどうかの関門があり(内容を検証することなく廃棄するか、被害者に還付するかすれば、概念上の未遂にもならない。)、次いで、内容を検証した*7が、これを廃棄するか(そうは言っても記憶には残るのだから、更なる名誉毀損の共同正犯になる危険性は将来に亘って存続する。だから、第2段階以降の者については、この《内容を検証して記憶にとどめた段階》において概念上の実行の着手を認めなければならないと思われる。現行刑法は新派の考えに立脚するとされるのだから、かく解するのが相当である。)、被害者に還付すれば、「自己の意思によりこれを止めたる」(刑法43条)者として中止未遂となる。最後に、この者も「事実の摘示」を行えば、既遂となるのである。事実の摘示が、必ずしも直接の面接を要しない形態で行われる場合には、初発から広範に伝播されるであろうし、又その都度の最初の摘示を受けた者がこれを廃棄するなり被害者に還付しない場合には、次々と内容が瞬く間に広く伝播されていくであろう。被害者が告訴をして捜査が始まっても、次々と伝播した者全てを(少なくとも)概念上の未遂犯として捜査の対象にのぼせて、広く強く捜査の網を張り巡らさなければ、最初に事実の摘示を行った者に遡ることはできず、更なる名誉毀損行為は深く広まって行くばかりとなろう。

W 名誉毀損罪の保護法益
@ 名誉毀損罪の保護法益は、憲法13条にいう個人の尊厳、生命・自由・幸福追求権、概念上深くこれらを捉え返せば、自己形成権、自己実現権、自己決定権、自律権などを広く、風評などの社会的関係に於いて射程としている。(世界人権宣言12条、市民的及び政治的権利に関する国際規約17条 参照)(自己が何者であるのかを当人の関知しないところで一方的に決めつけるのは、当人の自律権を侵害するものである。)それとの対比では、刑法230条の刑は軽きに失するし、230条の2によって寧ろ名誉毀損行為を奨励しているとさえ思われるのは、憲法13条との関係で均衡を失している。
  通常、名誉毀損罪については、憲法13条に言う個人の尊厳と憲法21条の表現の自由との均衡を図らなければならず、それを実現したのが刑法230条の2であるとされる。ところで、表現の自由が他の各種人権に対して優越した地位を占めるべきであると講学上言われるが、その根拠は、!表現の自由は個人の自己形成・自己実現に資するものであること、"表現の自由は民主主義(国民主権)の根幹を為す自由な言論市場の生命線であること、#表現の自由は自由な言論市場を通して真理への到達を図るものであること、$言論の自由は社会の均衡ある発展を図るものであること、等が挙げられている(トマス・エマソン)。!の根拠を以て憲法13条の人権を押さえ込むのは明らかに自己矛盾と言うべきである。"に言う自由な言論市場に於いて展開されるべき言論は政策論議を中心とすべきであって、個人の人格・名誉に対する攻撃はかかる言論には属さないと解するべきである。国会に於いて政策論議を避け、対立する政治家の私的な醜聞や公務員犯罪をあげつらうのは見苦しい限りと言わなければならない。(私的な醜聞は、そこに於いて「被害者」がいるならば、民事訴訟を補助してやる等の手があるし、何れにしても犯罪があると思料するならば、告発等の手段を執るべきであることは前述の通りである。)この点で、刑法230条の2第3項は、政策論議ではなく個人の人格・名誉に対する攻撃を以て民主主義と誤認せしめるものであって、その意味では憲法の規範構造を根底から脅かす違憲のものといわなければならない。#については、言論市場を通して到達できる「真理」は相対的なものにとどまることに留意しなければならない。市場は過熱化したり、冷え込んだりするところでもあることを忘れてはならない。犯罪に関する「真理」は、先述の通り、裁判を経なければ到達できないのであり、それさえ、再審の余地を残しているし、歴史的には確定判決が逆転されることが多いということに鑑み、個人の尊厳を踏みにじって得られる「真理」こそが仮想でしかないと言うべきであろう。$については、先述の通り、確定判決を経ることなしに、有罪等を決めつけるのは、却って社会に於けるボス支配を許し、社会のいわば動脈硬化をもたらしかねないであろう。以上の次第で、刑法230条の2を表現の自由の見地から正当化するのは、憲法の各種原理と人権構造を見誤ったものと言わなければなるまい。

A かくして、名誉毀損罪の保護法益は、とりわけ情報化社会の進展する現代社会に於いては、「表現の自由」を以て損なわれてはならない貴重なものと言わなければならない。ただ、実際の捜査・公判実務の観点からは、伝播に関わった者全てを起訴できないとか、立証活動そのものが被害を更に拡大深化するとかいう事情もある。かかる事情と、親告罪であることを併せ考えると、告訴があって始まる捜査は、被害者の要望に応じて、現在までの伝播に押しとどめることを主目的として行うとか、刑事訴追に関しては、自白事件として簡易公判手続きに移行し、当該事実の裁判上の証拠調べを省略するとか、或いは(捜査機関の協力の下での)裁判外の和解を勧めるとかいった方途を考慮することが、被害者に対しても実のある解決になると思われる。市民的及び政治的権利に関する国際規約17条第2項に於いて、「すべての者は、1の干渉又は攻撃に対する法律の保護を受ける権利を有する。」と規定されている*8が、この「保護を受ける権利」とは、我が国刑法上の名誉毀損罪との関係ではかかる方途をも含むと解される。単に刑事事件として立件して貰えばよいとするのでは、「保護」の名に値しないであろう。況や、名誉毀損罪に関する公判で当該事実の摘示内容を俎上に載せる(公訴事実の内容と為して、主張立証を強力に展開せしめる)ことは、国家機関による最強の名誉毀損行為の上乗せにしかならない場合が多いであろう。名誉毀損罪を犯す者はそれさえ狙って敢えて犯罪行為を行っている場合が多いのであるから、国家機関まで共犯となるのは尚更許されないというべきである。

B もし、名誉毀損罪の保護法益は個人の名誉に過ぎず、表現の自由というものの方がより重要であるから、名誉毀損行為によって前者が毀損されることはやむを得ないことだとするならば、例えば、破壊活動防止法や国家公務員法、地方公務員法によって「教唆」「扇動」「あおり」などが独立に処罰されることとの均衡をどう図り得るのであろうか。


【参考1】讒謗律
(明治8年6月28日太政官布告第110号)
第7条 若シ讒毀ヲ受ルノ事刑法ニ触ル丶者検官ヨリ其事ヲ糾治スルカ若クハ譫毀スル者ヨリ検官若クハ法    官ニ告発シタル時ハ譫毀ノ罪ヲ治ムルコトヲ中止シ以テ事案ノ決ヲ俟チ其ノ被告人罪ニ座スル時ハ    譫毀ノ罪ヲ論セス讒謗

【参考2】浅野健一「プライバシーと報道の自由−無罪推定と実名報道の問題を中心に−」     法学セミナー1984年11月号
無罪推定の原則の無視こそ、冤罪を生み出す主因
日本弁護士連合会「人権と報道」の引用=「世間の関心ないし好奇心がそのまま公共の利害につながるわけでは決してない」「少なくとも無罪の推定を受けているはずの被疑者・被告人に対しては、原則として、氏名を公表することなく報道すべきである」
北欧のジャーナリストの話として=「真犯人であることが最初からはっきりしていても、その人は法律に基づいて裁かれ、社会復帰するのだから、マスコミが追加的懲罰を科すことは誤っている」
西ドイツ、オーストリア、スイスなどでは一審の有罪判決が出るまで犯罪人扱いしないことが常識だ。
イギリスでは、法定侮辱罪があり、陪審員や判事に予断、偏見を与えてはいけないとされているから…」
韓国でも「刑事事件を報道する場合は、被告人が最高裁で有罪判決を受けるまでは無罪という原則を厳守しなければならない」(「新聞倫理実践要綱」第三章)
@警察に疑われただけの人を実名で犯人扱いする不合理、A真犯人だとしても制裁を加えることができるのは判決によってのみ

【参考3】増淵利行「懲罰B−懲罰アラカルト」同上
被収容者自身による、「暴力的自己管理」は伝統的慣習として残される…少年院や少年刑務所(での)ヤキ入れ→内臓破裂や手足骨折など
懲罰や「医療」による死が多い。
釈放されたとき、身も心もぼろぼろにされ

【参考4】フランス人権宣言第九条
「全ての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである…」
【参考5】東京地裁昭和39年9月28日判決下級民集15巻9号2317頁(いわゆる「宴のあと事件」)
個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによってはじめて確実なものとなる…
私生活の公開(は、それが真実であろうと、或いはそう誤認され得るものであっても)、精神的平穏が損(害)なわれるし、…ここで重要なことは公開されたところが…真実か否かではなく、真実らしく思われることによって当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐってさまざまな揣摩推測が生じるであろうことを自ら意識することによって私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認しがたい不当なものであるか否かという点にあると考えられる
 
 
 
第二 犯人蔵匿・隠避罪について
T 隠避罪について
@ 隠避の行為を構成する関係者は誰か、と言うこと
「蔵匿とは、犯人の発見・逮捕の妨害足ることを認識しながら、これに、発見又は逮捕を免れるために自己の支配に属する一定の場所を供することを言い、隠避とは、蔵匿以外の方法で、犯人又は逃走者に対する官の職権の行動を傷害し、その発見と逮捕を妨害する一切の行為を言うのである。」(佐伯千仭、「刑法各論」、1970年、28頁)犯人蔵匿・隠避罪と証憑隠滅罪は、犯人の庇護のために行われる場合が多いので、犯人庇護罪とも言われるが、公務執行妨害罪、証憑隠滅罪、証人威迫罪、逃走罪と合わせて、国家の司法作用を妨害する罪とされている。蔵匿、隠避の行為は直接には「罰金以上の刑に当たる罪を犯したる者」(A)に対してなされ、その効果が及ぶのは直接には司法官憲(B)とするのが自然であり、それらの間接的効果として、国家の司法作用(C)が妨害されるに至るのである。しかし、例えば「告訴告発を妨害」することも隠避とされている(同)のが正しいとすると、国家の司法作用に関連する限りで、例えば犯人の犯した罪の被害者も本罪の行為の効果が直接に及ぶ相手方、つまり(B)足りうるのではないか、と考えられる。隠避を以て「官憲による発見・逮捕を困難にすること」とする考え(団藤重光、「刑法綱要 各論」、昭和47年、72−73頁)では、(B)に該当するのは官憲のみと解する他ないようであるが、もし告発・告訴などが為された場合でも、私人被害者に対する犯人隠避行為は官憲による発見・逮捕を困難にするであろうし、そもそもそうなる前提たる告訴告発を妨害することも処罰されなければ、国家司法作用の適正さを保つことはできなくなるであろう。そうであれば、被害者たる私人も(B)に該当することがあり得ると解さざるを得ない筈である。
尚、逮捕義務ある警官がわざと逮捕を怠るといった不作為によっても為されうることに注意しなければならない。


第三 精神障害者に対する保安処分等について
T 改正精神保険福祉法(平成12年4月施行)
@ 「引きこもり」や「鬱」などの精神障害者に対して、措置入院のような「移送制度」が創設される。指定医の診断に基づき都道府県知事の権限で行われる。行政の判断で入院させる措置入院と、家族が同意して行われる医療保護入院に適用される。この報道(朝日)において、精神保険福祉課長が「新潟の事件の問題(に対して)保健所の介入に手ぬるさがあった」と述べているのは問題であろう。新潟の女性長期監禁事件が、被告人の精神障害がもたらしたものとするならば、被告人は責任能力がないと断定していることになり、それだけの資料を持ち合わせていながら、事件発覚まで放置していたことについての責任問題が生じるであろう。もし、被告人の精神障害がもたらしたかどうかは不明だとするならば、保安処分類似の人権侵害立法を正当化するために我田引水していることになる。精神障害者に対する強制措置が行われ得るのは、他人に危害を及ぼす明白且つ現在の危険である(警察権限=police power)か、本人の保護に喫緊である(parens patriae)場合に限られなければならない。種々の挫折を包含してこそ真の自由と言えるであろうからである。社会に於いて(究極的には国家権力によって)枠取られた人生行路から外れた者を危険視することは、その者が上記の「危険性」を具有しない場合に於いては、古典的な消極的自由さえも限界状況に於いては消滅すると言うことでもって、実体性を欠いていることを証明することになろう。

A 新潟の事件では、母親が息子の暴力に関して警察に相談しているのだから、その段階で、少なくとも任意捜査を行うことはできた筈である。暴行罪については、親族相盗のように親族関係にあるから処罰が軽減・阻却されるということはないのであり、又、親告罪でもないのだから、その段階で警察が適法な捜査を開始していれば、もっと早く事件は解明されたかも知れないのである。にもかかわらずそうはならなかったことの理由は、労使紛争に関して出動要請を受けながら、「正式な番地が分からないと行けない」などとして捜査の端緒に於いて重大な誤りを犯したことを関係付けて考えると、そもそも警察組織そのものが警察法第2条の趣旨文言を没却して、恣意的に暴力装置を行使する組織暴力に転落していることの兆してはないか、と思われるのである。(尤も、この労使紛争に関する事件に対する判決が量刑に於いて不当に軽い判断を加えているのは、裁判所も階級国家論を実証しているということなのであろうか?)


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*1 当事者主義的な対審構造はこの凝縮された形態と言えよう。
*2 通常は、住居不法侵入、偽計業務妨害、私文書偽造などが考えられよう。盗聴・盗撮等で窃取された画像・音声などが(多くは組織的に)流通する場合には、それらを利用した犯罪が更に展開していくが、こうした所為を封殺するためには、その画像・音声などを「財物」とみなして、窃盗罪乃至詐欺罪(盗撮の場合、行為の態様から言えば、欺罔という表現が当たるが、財産処分行為をどこに認めるかという問題になる。不作為による財産処分行為と言えようか。しかし、盗聴・盗撮に対抗すべく、常日頃から全身を覆い隠し、筆談のみによってコミュニケーションする必要があるとするのは余りにも不当なので、窃盗とする方が妥当であろう。)が成立すると解さなければならない。盗撮行為に対して肖像権を以て対抗する刑法上の意義はここにあると言うべきであろう。更に、盗撮等の際に光の照射という物理的勢力を不法に振り向けていれば、強盗罪となると解すべきであろう。盗聴・盗撮が自らに対して行われていることには被害者が気付かない場合が多いが、それ故にこそ「犯行を抑圧している」と言うべき暴行と解されるべきではないだろうか。車両運行中の者に対して光の照射を伴って盗撮を行うのは、殊にかく解されるべきであろう。
  強盗罪が成立するかどうかとの関連で「暴行」の概念について論じると、暴行とは有形力の行使にとどまらず、光・音・電気・放射線・化学物質などを用いる場合も含め、被害者に対する攻撃一般を指すと広く解さなければ、現代社会の要請に応じられず、又、特に組織暴力による現代型犯罪に対処し得なくなるであろう。今例示した場合は何れも、ミクロの観点からは有形力の行使と言えるが、社会通念上の「有形力の行使」に限定することは、現代社会に於いて人の生命・健康を著しく危殆化せしめることとなり、許されないと言うべきである。少なくとも、ミクロの観点からは有形力の行使と言えるものは「暴行」に含めなければならない。例えば、不定形の音型を持つ音を被害者が不快に思う音量で聞かしめることは、心臓の拍動を音によるストレスで抑圧し、動脈硬化や虚血性心疾患などの循環器系統の疾患を惹起せしめるほか、ホルモン分泌に異常をもたらすとされている。暗闇から突如として大量の光を照射すれば、眼圧の急激な亢進をもたらし、よって視神経乳頭陥凹等の視神経障害をもたらすことは見やすい道理であろう。尚、音や化学物質・放射線等による健康侵害については、Georg Hermes, Das Grundrecht auf Schutz von Leben und Gesundheit, 1987, S.5­31及びそこに引用の諸文献参照。
  更には、言語の意味内容による「暴行」は、精神的苦痛を通して精神障害をもたらしうることがマスコミにも報じられているところであることに注意しなければならない。特に、日常的に接している相手方からの言語による暴行は、一部がいわゆる「セクハラ」として捉えられてはいるが、言語の意味内容による暴行はそれにとどまらないと言うべきである。性的なものにとどまらず、広く社会的な権力的地位の差異を利用した言語による暴行は広く行われていると言わなければならない。いわゆる「いじめ」として社会通念上観念される所為は全て、少なくとも「暴行」と捉えられなければならず、言語の意味内容による暴行、言語の音声(が威圧的であること)による暴行など、広く暴行を認めることから出発しなければ、真に自由な社会は身近なところでさえ見出し得ないのである。それにも拘わらず、国家・社会という大きな枠に関する場合だけ、自由や人権を論じようとするのは、奴隷的境遇にある者たちに神の福音を説くのと何ら変わるところはあるまい。
  盗聴・盗撮の場合に、仮に、画像・音声等が財物には当たらないと言える場合であっても、(盗撮のための)光の照射や(盗聴した)音声の増幅等を伴っていれば、そこに物理的勢力の行使が認められるから、強要罪が成立することは論を待たないところである。
*3 ここに言う二重の危険とは、英米法上の法律的意味に解するものではない。(被告人は通常、勾留されているであろうから)社会生活からの隔離、社会的非難・指弾、名誉・信用の低下、財産的出捐、精神的苦痛など、通常の社会生活との対比に於いて捉えるのが相当である。例えば、迅速な裁判という概念に於いて被告人は、裁判所からの訴訟促進要求(それに応じなければ、有罪と推定されはしないか?という不安)と被告人としての各種権利の行使(を十分に展開したいという当然の権利主張要求)、そして被告人としての地位にあること自体によって被る上記各種の社会的損害というトリレンマに囚われて、進退窮まっているのである。そうした意味で、二重の危険という概念を社会学的意味の危険も含めて広く解するのが人権保障に資するところがあって相当と思われる。
  名誉毀損罪の被害者になることと刑事訴追を受け有罪の危険に晒されることは法学的概念上は、言うまでもなく別である。しかし、情報化社会と言われる現代社会に於ける名誉毀損罪の被害者は、名誉・信用に亘っておよそ社会生活を自律的に展開する可能性を封殺されたと言うべきであって、例えば名誉毀損罪の(現行の著しく軽い)法定刑の長期に亘って服役するよりも被る損害は甚大であると言わなければならない。
*4 つまり、摘示されたものとして事実の内容を認知する。
*5 更に伝播させるべく事実が摘示されてあること
*6 だからこそ、製作開始後、不特定多数人に対して被害者の名誉を毀損する行為が為されることについては抽象的危険犯と解すれば足りることになる。
*7 内容を検証するとは、事実かどうか、事実であるとしてそれは善悪何れに属するか、等の判断を加えながら、その内容を自ら再構成することを言う。自ら再構成するところに主体性の発揚があるとともに、その結果として内容を記憶にとどめるに至るのである。
*8 市民的及び政治的権利に関する国際規約第17条第1項には、「何人も、その私生活、家族、住居もしくは通信に対して恣意的に若しくは不法に干渉され又は名誉及び信用を不法に攻撃されない。」と規定されている。尚、世界人権宣言第12条にも、「何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃されることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。」とある。