ネット社会について
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ネット社会に於ける人的交流は、匿名性のフィルターを通して行われるために、行き違いによる誤解を生じたり、そもそもそれを悪用した・相手側への攻撃や操作が行われやすいという危険性を孕んでいます。
そこでの誤解が互いを離別させるだけにとどまれば、それほどの弊害は生じないと言えるかも知れません。しかし、例えば、自らの性別・年齢やその置かれた種々の状況を擬装して相手側を撹乱したり、その擬装に乗せられたままの相手側のネット上での活動を不当周延に陥れたりするなどの例は、極めて多いように思われます。
その原理的形態は、いわゆる美人局に現れていたのですが、自ら構成した枠組み(端的に言えば、罠)の中に相手側を巧みに引きずり込むということです。その枠組みは、いわば蟻地獄のようなものであって、被害者側が自由意思で自発的に行動しているつもりでも、その一挙手一投足が、加害者側の構成した枠組み内では、加害者側の計算済みの中での対応に過ぎず、被害者側がより踏み込んだ行動に出れば出るほどより深く罠の虜になっていくというものなのです。
掲示板などで、そこでは場違いというほかないような書き込みがあった場合、その書き込みを相手にすればするほど、相手にした側が深みにはまって、窮境に追いつめられたという例は多いでしょう。(Niftyのフォーラムを場として訴訟にまで発展した紛争はその典型だと思います。)だから、ベテランの多いサイトでは、場違いの書き込みを指して「↑みたいのは無視するのが一番」などといった書き込みが追加されるわけです。
しかし、掲示板と違って、メールでやりとりされる場合には、そのやりとりが第三者による検証を欠いたままに進行するために、仕掛けられた側は深みにはまってしまいやすいのです。ですから、ネット上の交流に際しては、日常の交流の場合以上に、ある観点からの・一層の慎重さが求められると言うことが出来るでしょう。尤も、ネット上では、声色・顔つき・態度物腰といった[言語表現を除いた]威圧・欺罔手段は使えませんから、専ら言語によるやりとりに細心の注意を払えばよいわけで、直接の人的交流よりも一層理性的な対応が求められると共に、それで足りると言うことも出来るわけです。逆に言えば、その点に着目して、意図的に相手側の情緒を錯乱しようとする書き込みが累積しやすいわけです。(証拠としては、これが重要でしょう。)事前に周到に練り上げられた共謀に基づく攻撃の場合には、役割分担も決まっており、あの手この手で攻撃してくるものであり、それに逐一対抗していくことは極めて困難であると言えます。情緒を撹乱し、理性的対応力を十分に低減させた上で登場する黒幕の尤もらしい攻撃が、最終的に被害者側を操作して、陥穽に陥れようとするものですから、これを記録するにとどめれば十分だと思います。
総じて、アリストテレスの虚偽論を典型とする・論理学上の虚偽論を踏まえていればよいと思われるのです。その論理が前提している経験則(「風が吹けば桶屋が儲かる」とか)は妥当か、専ら当事者の理性的判断を迷わせるための感情に訴えているだけではないか(demonstrative
evidence―問題の場面をある観点からのみ切り取った写真とかビデオとか―を持ち出すのは、全てこれに該当するでしょう。)、理屈抜きで有名人や人気者の断片的意見に依拠しているだけではないのか、結論として導き出されるべきものを前提にして議論してはいないか、問題となっている論点とは無関係の推論を媒介にしてはいないか、前提されたことを元にすると、引き出された結論以外にも可能な結論・結果が想定されるのではないか、などの種々の場合が想定されます。こうした虚偽論を踏まえて社会的交流が行われることをネット社会は一層強く促していると思われるのです。従って、そこでは、言語的能力・論理的思考能力の一層の強化が求められていると言えるでしょう。
机に向かって書物を読み込み、ノートに詳細な記述を行うといった古典的な行動はネット社会では時代遅れだ、と思っている人は多いでしょう。しかし、その考え自体が大きな問題を孕んでいることにお気づき頂けると思います。「高度情報化社会」が進展すればするほど、かつては一部の学者・思想家・文化人だけが行使していた行動を遥かに多くの人々が実践していかなければならなくなると思われるのです。さもなければ、「高度情報化社会」とは、装いを新たにしたバベルの塔という砂上の楼閣を構築するに到るほかに、かかる根本条件に着眼して、一部のエリートが圧倒的大多数の大衆をたやすく操作できる管理社会を出現させるに到る危険性を孕んでいるのではないか、と危惧されるのです。
皆さんは、どう思われますか?