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中和化(neutralization)の技術について


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Gresham M. Sykes & David Matza, Techniques of neutralization, American Sociological Review, 22, 1957, 664-670
Suzette Cote(ed.), Criminological Theories, 2002, pp.144-150に所収)を読む。

 

 犯罪に纏わる態度も社会的に習得されるものである。Sutherlanddifferential association(通常、分化的接触と訳されている。)の理論も、犯罪に纏わる態度とは、(a)犯罪遂行の技術(b)違法に好意的な動機、衝動、合理化、諸態度の習得を含んでいるとした。その習得過程と習得内容が問題になる筈だが、内容の方には余り注意が払われて来なかった。多分、習得内容に関する唯一最強の考え方としては、犯罪サブカルチャーの思想(subcultural theories of crime)が挙げられるであろう。それは、遵法社会で保持されている諸価値を反転させたものを表す価値体系である。Cohenの思想は「リーダーに従う」とか「情緒的困惑」といった単純化を避けたものであり、又、delinquent sub-cultureは所与のものではなく、問題解決のために実行可能な選択肢としてそれがどう機能するかを調べようとするものである、とされている。

尚、犯罪が、問題解決のための選択肢の一つとして実行可能になっている社会は、より高い価値のためにより低い価値を犠牲にすることは犯罪ではないとか言った趣旨に於いて、差別と序列化を前提としているであろう。少なくとも主観的には、つまり畜群の心術の内容としてはそうなのである。客観的にも差別と序列化が背景を成していれば、尚更であろう。身分制社会に近い体制に於いては、例えば学校で不良行為を為した上流階級の子弟の受けるべき体罰を身代わりとして受ける子供が用意されていたとか、今でも誘拐の多いイタリアでは金持ちは自分の子供の替え玉を用意しているとかいった対応が当然視される(少なくとも違法視されない)社会では、犯罪の違法性・有責性に対する評価が序列付けられた差別的なものであるわけである。(上流階級の子弟は罰を受けるに値しないとか、替え玉の貧乏人の子供が誘拐されるに任せるのは「取引」に基づくのだから―少なくとも、金持ちの親と貧乏人の子供との関係では―違法ではないとかされるわけである。)第一の問題は、その差別と序列化が社会全体に於いて妥当なものであるかどうかである。次いで、その前提が認められるとしても、その悪行は、果たして、又、どの程度に到るまでは、「犯罪」とは見なされないか、という問題がある。差別と序列化を前提する社会にあっては、種々の相に於いて、techniques of neutralizationが展開されやすいのである。

 しかし、犯罪行為が一般社会から外れた価値や規範の体系たるdelinquent sub-cultureに由来するものであるとするのは困難である。まず、捕まった時などに、義憤(indignation)や殉難(martyrdom)の反応を示すことがある。義憤は、捕まってしまう基になった偶然の出来事や自らの腕の未熟さに向けられる。殉難の感覚は、「他人は上手くやっているのに」という事実に基づいている。義憤や殉難の意識自体が、自らの行為の反価値性を前提にしているであろう。しかし更に、多くの犯罪者は罪や恥の感覚を経験する、とされるのである。それが外部に表明された時には、たとえそれが受け手の印象に基づく・臨床的な判断であっても、単に司法関係者を操作しようとして為す演技として無視されるべきではない。さもなければ、我々がステレオタイプに陥ってしまうであろう、と言うのである。又、しばしば少年犯罪者は、法を遵守する人々を賞賛し尊敬するとされる。彼らは偽善を探知することにかけては過度に敏感であるので、身近な環境にある重要人物やスポーツ・芸能界の英雄に違法行為が着せられた時には激しい怒りを示す反面、貧しく敬虔な母とか、自分を許してくれる聖職者に対してはrank sentimentalityとして強い愛着を示すのである。もし彼がdelinquent sub-cultureに帰依しているならば、偽善を探知して、激しい怒りを示すことはないだろう、とされるのである。*[i]更に、少年犯罪者は、被害者にしてもよい者とそうではない者とを明確に区別付けている、とされる。*[ii]一般的には、被害者にされるかどうかは、その不良共との社会的な距離(social distance)によって左右される、と言えそうである。だから、不良は、社会的な距離の近い「友達からは盗むな」とか「自ら信仰する教会に対しては暴力行為を犯すな」とかいった格率を示す、とされるのである。つまり、その距離内に於いては社会的規範一般に従うというわけである。*[iii]又、彼らの犯行が、価値をそがれた(つまり、価値がないのではなく、Claus Offeの言う・体制上の《Selektivität》によってその価値を奪われるか無効化されている、という意味であろう。)社会集団に向けられやすいのも、彼らが社会の規範体系に真っ向から離反しているとは言えない(むしろ、被害者側がその価値をそがれた背景事情―《Selektivität》のことである。―に照らせば、かかる被害者側に向けられた社会全体に於ける勢力支配を表現していると言う意味での規範体系を駆動付けるために、不良共が動員されている、と言うことさえ出来るかも知れないのである。だからこそ、体制側は暴走族などの少年犯を大事に扱っているとも言えるのである。)証であるとしている。*[iv]しかし、私は、社会的な距離は所与の定数ではなく、例えば、攻撃者側が備える組織的背景が強力になればなるほど、被害者側との社会的な距離も縮まるといった、相関的な関係にあると思う。だから、被害者にしてもよいかどうかの区別如何の構成にも、その悪人の持つ背景の組織性如何が大きく作用する筈であって、問題の悪人が社会的規範一般に敵対しているかどうかを被害者との社会的距離という脈絡から断定することは出来ないであろう。最後に、親や近隣の住民が悪行にまみれていても、それだけによって社会一般の規範要求が無効化されるということは、統計的に支持されない*[v]としている。子供は大人に依存し、大人も社会構造上に地位を持つ大人に依存していることを根拠にしているが、そのこと自体が《enterprise conspiracy》の成立根拠なのではないだろうか。強盗殺人を犯す者も道路交通法は遵守しようとするであろう(捕まっては、犯行の展開や逃亡に支障を来す。)し、*[vi]国際人身売買を駆動させている暴力団員なども顔見知りの刑事には「旦那!旦那!」と揉み手で媚びを売るのを厭わないであろう。*[vii]畜群が社会の「立派な人」に敬意を表して遵法精神を表示するのは、その「立派な人」が各種の白色テロ活動や組織犯罪の黒幕(「ポルノの帝王」とか)としてもみ消し・握りつぶしに協働しているからなのである。*[viii]第三者が見ている下で我が子の悪行を叱るのも、本心としては、見つからないように・捕まらないようにもっと上手くやれと示唆しているのであって、決して親としての遵法精神の表明ではないのである。或いは、親子共々あらゆる犯罪に勤しんでいることが露見しては困るからそう演技しているに過ぎないのである。確かに、実定法制上の価値体系を完全に反転させたものとしてのsubculture(それは、第一条「人を殺せ」で始まるものであろうか。)を措定して、畜群の一挙手一投足がこれに覊束されていると見るのは当たらないであろう。subcultureは社会全体の規範秩序に寄生する癌のようなものであって、必要な限りで、しかも精一杯これを畜群が悪用するものなのである。表面上は出来る限り社会全体の規範秩序を遵守しながら、しかも、悪の枢軸や自らの犯罪目的に必要最小限度の限りで違法を為すのが最も巧みである、というわけである。尤も、組織犯罪の展開に常に伴う《unlabeled exploitation》の面的展開を想起すれば明らかなように、「法を遵守する」と言っても畜群の内心上そうだというに過ぎないのであって、自ら為した悪行を非難されても、畜群は白々しい顔で「何か罪になるのか」などとうそぶくのを常としているのである。そうした狡猾さを制圧する理論を展開していくのが刑事法学の真の任務であろう。あるべき刑事法理論に照らせば、畜群の一挙手一投足全てが悪行であって、違法・有責なのである。しかし、その悪辣さは、対象化的態度で措定された自立的法・倫理体系としてのsubculture(つまり、Sykes & Matzaが批判するようなそれ)の実現として捉えることは出来ないのであって、想定された第一条「人を殺せ」などから容易に読み取れるように、悪行指令のみによって構成された規範体系はそれ自ら維持不可能なのである。何故なら、そうしたsubcultureに支配されているとされる場合には、誰にとっても、全ては《bellum omnium contra omnes》となって、自滅の一途を辿る他はなくなるからである。しかし、overt actsconspiracyから合理的に推論される悪の枢軸という全体連関性を、社会的全体に癌細胞として組み込まれた(従って、一応の・健全な社会構成を不可欠の前提としてしている)subcultureと呼ぶ(これを一言で言えば、《to profit from crime*[ix]の組織的展開ということになろう。)のは、必ずしも不当ではないのではないか、と私には思われるのである。そう呼んだからといって、畜群が実定法制に全面的に背馳していることにはならない(むしろ、この私見に於いては、社会全体に法がそれなりに通用していることを前提することになるのである。)からである。Morris Cohenは、人は何故自ら信を置く法を破るのかという問題は人間行動に関する最も魅力的な問題だ、と述べたとされるが、そもそも「信を置く」ということが客観的に測定可能かが問題であろう。「面従腹背」ということを想起するまでもなく、遵法精神如何は測定不可能なのである。とりわけ、組織犯罪に走ることによって人間であることを自ら否定している畜群の場合には、類い希な演技力がその関連で大いに威力を発揮するのであるから、尚更なのである。

 問題は、むしろ、法の方にあるかも知れない。如何なる法も、あらゆる場合に拘束力を持つcategorical imperativesではあり得ない。Sykes & Matzaが主張するように、法体系や社会全体からは有効と見なされないが、当の犯人達にとっては有効と見なされる(犯罪の)正当化として、積極的抗弁の未承認の拡張が本質規定的に多くの犯罪を定礎しているのである。それはまさに、犯人側の心理上の事象としても、「合理化」であろう。社会の側からそれを捉え返せば、「例外のない規則はない」と言われるようなflexibilityが、いわば真空地帯を構成して、畜群を犯罪へと駆動付けているわけである。

 不当周延たる「積極的抗弁」は、刑事司法上は犯行に後続するものとして現象するが、犯行に先行して、その犯行を駆動付けるのに与って、犯行を可能にもしているのである。社会規範からの牽制は中和化され、そり返され、歪められて、機能しなくなるのである。そして、畜群は自らの自画像に重大な損傷を被ることなく思うがままに犯行―それは彼にとってはrightではなくともacceptableなものとなっているわけである。―に関与出来るのである。つまり、中和化は"apologetic failure"なのである。だから、彼が処罰されるに到るかも知れなくなると、犯した罪以上に自分は非難されている(be more sinned against than sinning)という態度―これを《techniques of neutralization》と呼ぶ。―を示すのである。subcultureの規範体系の内面化よりもむしろこの中和化技術の習得が、若者を犯罪者にしていく、とされるのである。そこで、中和化技術の諸相を分説することにする。

1. 責任の否定

自らの犯行は、当の個人の外部にあってそのコントロールを超えている力によるとして、自らの責任を否定する論理である。自らをビリヤードの球に見立てているわけである。そこには、自我からの深刻な疎外がある。*[x]尤も、責任解釈は文化的な解釈であって、単なる奇異な信念ではない、とされる。しかし、中和化の技術は、社会学的乃至は人間的な解釈とよく似ているのであって、a prioriに無視することは許されない、と私には思えるのである。尤も、それは特定の人格構造には依存していない、とされている。*[xi]自ら行為しているのではなく、行為させられていると見ることによって、支配的な規範体系に違反したけれども、それによって規範体系それ自体に対して正面から攻撃したわけではないとすることが出来る、というわけである。

2. 与えた損害の否定

自らの犯行によって誰かが明白に傷害されたかという問題に対しては広範な解釈の余地があるとするのである。暴力行為がいたずら(被害者は攻撃されるに値する[悪事を為している]、などとするわけである。)へ、自動車窃盗が借用へ、ギャングの争闘が私的な争い*[xii]へと転換されてしまうわけである。

総じて畜群は、自らの行為が(形式上は違法であるにせよ)重大な害悪を引き起こしてはいないと感じているのである。少なくとも、そう演じ切るものなのである。行為と責任の関係のみならず、行為とその結果の関係も、彼らにあっては破壊されているのである。

規範を自ら関与したこの「犯罪」には適用されないのだと限定することによって、本来自らに科せられた筈の社会統制を中和化するのは、誰もがやっていることだとされてしまうのである。

3. 被害者の否定

下心のある錬金術によって、犯罪者は復讐者や刑罰執行人に成り上がり、被害者は悪人に転換されてしまうのである。ホモセクシャルに対する攻撃、「場違い」とされる(本来場違いなのはマイノリティーではなく畜群なのであるが)マイノリティーに対する攻撃、「不正」(つまり仮構されたものとしての不正である。)に対する「復讐」(復讐それ自体が犯罪となることは警察関係者も知らないようである。多数の畜群を動員する暴力行為等処罰に関する法律違反を働くほどの組織的背景を持っている位ならば、そもそも被害に遭う筈もないのである。)としての暴力行為、「悪徳」商店からの窃盗(被害に遭った商店が真実、悪徳商店であるならば、常にその手下が詰めているのであるから、窃盗の被害に遭う筈もなかろうに。)など、総じて、歴史的にはRobin Hoodに淵源するような・法の外で「正義」を求める無法な(畜群から見れば、英雄的な)探偵のように自らを見なして増長しているのである。この、畜群には似つかわしくもない思い上がりこそが、悪行の原動力として最も頻繁に機能しているであろう。そして、かかる思い上がりの背景として、畜群を思い上がらせ、被害者側を貶めている差別と序列化という社会構造が威を添えている筈なのである。しかも、暴力団員にはethnic Koreansdescendants of outcastsが多いとされていることも併せ考えれば、通常の社会通念(それさえ勢力支配によってマスコミなどを通して構成されたものでしかないであろう。)に照らせば差別すべき側が差別されるべき側によって見下されているという倒錯的な構図さえ浮かび出て来るのである。四民平等とか農地改革とかは、単に「味噌も糞も一緒」の体制を生み出したというにとどまらずに、「糞が味噌を支配する」体制を生み出したと言うべきかも知れないのである。その背景は、「平等」を実現した筈のものが、天皇制絶対主義下の「四民平等」とか、おしなべて政・財・官・軍を免責した上での戦後「改革」であったことの他に、その改革を指導すべき理念の成長不良・適用不全にもあった筈なのである。

それは兎も角、被害者を犯罪者自らが加えた損傷に値する者に転換すること(「俺に強姦されるとは幸せな女だ」など)、総じて、犯罪行為のターゲットとして適当な者とそうでない者を区別すること、ここに、自らの暴力によって違法な「法」を措定するという・ベンヤミン流の暴力概念も看取出来よう。そこに、公権力も協働し易い契機があると共に、かかる暴力のこの上ない強力さと悪辣さも顕現してくるわけなのである。

そこまで到らなくとも、被害者が今ここには物理的には存在しないとか、知らない相手であるとか、曖昧かつ抽象的に想定されるだけであるとかいうようにして、被害者の存在に対する意識が弱められる(財産犯の場合は特にそうである。尚、この点からは、社会的距離の大小が大きく作用すると言えよう。)ことは、犯行が開始されるかどうかを大きく左右するのである。

4. 自らを非難する者に向ける非難

違反を是認しない者(捜査員などの刑事司法関係者)の動機や態度に注意を向けて、彼の方こそが偽善者であるとか、個人的な悪意に駆られているとかするのである、とされている。こうした態度を定礎している社会観からは、例えば成功者はコネと幸運に拠っているなどということにもなるとされるのである。法執行機関などの他人を(心理上)攻撃することによって、自らの行為の悪性は(心理上)抑圧され、視野から失われるのであろう。尤も、この非難が当を得ている場合が多いことを忘れてはならないであろう。暴力団犯罪の場合であれば、「事件あり、人求む」という対応を以て実効的な捜査権を当の犯罪組織の側に引き渡し来たった・捜査機関の伝統が、種々の相に亘る野太い共謀関係をも生み出している筈であるし、単独犯の場合には尚のこと、営業妨害に定礎された特別公務員暴行陵虐罪の組織的展開といった事例に見られるように、より広範な勢力支配(こうした場合には、政治屋も協働しているであろう。)が顕現している場合が多いのである。だから、捜査機関側が機先を制して「被疑者(実相としては被害者)」を立件したからといって、彼の捜査機関に向けた非難をa prioriに退けてはならないのである。(汚職の実相を公告しようとした検察官が直前に逮捕された事例などを想起;尤も、警察ならば「さもありなん」と言うべき構造汚職が検察官にまで浸潤していたかどうかは疑問であろう。司法官僚の愛好する賭け麻雀が高じたのであろうか。)更に、この点では、捜査機関側の描いたversionのみを真実らしく仮構して報道するマスコミは、大いに非難されなければならないであろう。反対尋問抜きのマスコミ裁判に対しても、対審性をより強く要求していかなければならないのである。

5. より高度の忠誠心を捧げる規範に訴える

犯罪者が帰属する・より小さな社会集団の要求のために、より大きな社会の要求を犠牲にすることによっても、自らの犯行を阻止する筈の社会的全体の規範が持つ牽制力は中和化される、とされる。犯罪者は、必ずしも、社会的全体に於いて支配的な規範体系の命令を拒むわけではない。法を破ることによって解決されるべきジレンマの虜になっていると自らを見なしているのである。或いは、普遍的な要求と個別的な要求の衝突下にあるというわけである。*[xiii]一般的にも、人々がどちらを選ぶ傾向にあるかによって彼らを分類することが可能である、と言えよう。*[xiv]ある法規に対する違反は、それが拒否されたからではなく、より抑圧的であるか・自らより高い忠誠を捧げている規範が優先されるから起きるのである。畜群は、自分が帰属する社会小集団のために行為するのだということを以て自ら為した社会規範違反を正当化する程度が度を越しているのである。*[xv]その度合いは質的なものに転化している場合が多いであろう。

「そんな積もりじゃなかった。」「実際には誰も傷つけてはいない。」「(損傷は)あいつらが招いたことだ。」「皆が自分をいじめている。」「一人でやったんじゃない。」こうした(犯行に纏わる)状況定義は、支配的な規範体系に対して軽い、或いは、間接的な打撃を与えるのであって、それに対立するイデオロギー(それが、Sykes & Matzaによって批判されているdelinquent sub-cultureである。)を生み出すものではない。新たに生み出されたものというよりも、社会に行き渡っている考え方の拡張である。

 

 社会から余りに隔絶されているために中和化の技術を必要としない犯罪者もいるかも知れない。しかし、中和化の技術は社会統制の効果を減殺する点に於いて決定的なのである。そして、それは、大部分の犯罪行為の背景にあるのである。

(1)中和化の技術が、年齢・性・社会階級・人種グループによってどのように差異づけられて配分されているかに関するより多くの知識が必要だ。その属する社会に蔓延する慣習が社会全体に共通する理想から極めて明白に乖離している・粗野な階層部分にとっては、かかる正当化はよりたやすく把捉されるということはアプリオリに―かかる「正当化」とは対抗的に犯行を阻止する一般的規範の統制力が、彼らにとっては弱まっているからである。―推定出来ることである。更に突き詰めれば、家族関係での社会的相互作用のパターン―一般化され得るような規範がなく、その時・その場に於ける力関係で決せられる関係とか―に辿り着くかも知れないのである。

 彼の人生に於いて「慣性力」を獲得するに到る「規範」とは、彼にとっては死活的な・しかし彼が本来保持していた規範からは例外的な問題状況を実効的に制圧していた「規範」を引証させる(必ずしもそれに従属するとは限らず、却って強い反発を示して、それと背馳する規範を尚一層強く保持するに到る場合もあろう。)ものであろう。だから、「郷に入ったら郷に従え」という・部分的で特殊的な法規範が通用するのを当然視するような分裂社会、或いは、その時・その場を実効的に支配する暴力こそが「法」を措定し、執行するような社会が、主権国家の立場から放任されている場合には、種々の相に亘る中和化の技術が形成されてくるわけである。しかも、主権国家の側が、問題の背景を成す・社会に於いて実効的な「法」の問題をそれを担保する社会的勢力支配の有無によって解決し続ける(「大きな組織に逆らうんじゃない」といった対応)ならば、主権国家を担保する一般的で首尾一貫した法秩序そのものが特殊な「法」に浸潤されていくわけであるから、問題は中和化技術に組織的背景を以て練達することによって解決されていくことになってしまうと共に、国家の主権性も減殺されていくのである。

(2)信念と態度の体系としての中和化の技術の内的な構造と、それが持つ・様々の犯罪類型との関係をよりよく理解しなければならない。とりわけ組織犯罪の場合には、そこに蔓延する共謀によって、その構造が絶えず再確認され、強化されていることに留意すべきであろう。《unlabeled exploitation》に纏わる共謀も、度し難いテロ活動とその背景図式を共通にしていることも忘れてはならないのである。

中和化の技術は少年犯罪理解にとって将来を約束された研究方針である、とされている。

 

 



*[i]「自分のことは棚に上げて」というのが畜群の常態であることをSykesMatzaは知らないのであろう。犯罪の実相からほど遠い安全地帯に身を置いて「統計」に依拠する刑事学者の陥りやすい弊害と思われるのである。それは兎も角、自分は平然と悪行を重ねつつも、その組織的背景を以て隠蔽し、更に他人の「悪行」を探知し、或いは、捏造して(探知・捏造の何れの方面に於いても、その組織的背景が功を奏しているであろう。)、それをネタに攻撃する―最もポピュラーなのが恐喝であるが、昨今は、弁護「師」などの協働の下に、より手の込んだ悪逆を重ねているのである。―のが畜群の性なのである。

*[ii]法も正義も知らない畜群が、思い上がって、手前勝手に「法」を措定した上に、「法」を執行しているというわけである。立法権は勿論だが、刑罰権については、そこでの適正手続の保障(適正な裁判を経た上で公権力のみが刑罰権を発動出来るということ)を義務教育課程で徹底して置くべき所以なのである。この脈絡に於いては、学校生活内部の勢力支配に基づく私刑が常態化していることを問題化しなければならないのである。悪行をもっぱらとする畜群が法を措定するばかりか法を執行するなどとは、「豚に真珠」以上の奇態であろう。又、畜群は、組織的背景を持っていれば互いに加熱し合うものであるし、共謀の連鎖が膨満するに連れて、「我々こそが『法』を体現している」と思い込むものなのである。この脈絡に於いて、心術を同じくする警察暴力も、同様に「法」を執行したがるものであることも理解出来よう。

*[iii]これは、現象面だけを捉えたものであって、実相としては、社会的な距離が近い範囲内では殊更に露見しないように十分注意して悪行を働き、距離が遠いところでは堂々と悪行を働くと言うべきではないだろうか。社会的な距離は勢力関係と相関関係に立っているのである。例えば、少年院の収容者同士は、いわば「目くそ、鼻くそを笑う」といった関係である(社会的距離は近接している)のに、相対的に弱い者を集中的にいじめたり、リンチを加えたりしているということは、よく知られているであろう。管理者側も被収容者内の勢力支配を利用しているので、それ自体立件されないのである。

*[iv]これも「強きを助け、弱きをくじく」という畜群性と表裏した行動ではないだろうか。

*[v]刑事学が前提する「統計」は表面的な社会を前提にして構成されている筈であって、とりわけ《criminal web》の実相をいささかも反映するものではないのである。少年犯との親密な面接を如何に積み上げようとも、そうなのである。何故なら、《criminal web》と対峙してその実相を供述しようと思う者がいたとしても、彼は、そこに於いては公権力も犯罪組織と常に連動していることを知っていればこそ、親身に対応する面接者をも敵と見なして、強く身構えて対応しているからである。

*[vi]犯罪目的達成に必要な限りで法を遵守するに過ぎないのである。

*[vii]そこにcordialな関係を再確認した警察官は、彼が如何なる悪逆に加功しているかを想像しようとさえしないのである。それが、両者の関係の更なる腐食を亢進させてもいくわけである。

*[viii]あのカポネは社会福祉関連への寄付の多さを誇示していたであろう。彼が生い立ち以来なめ尽くした辛酸を彼は覚えていたのである。そこに、彼が生半可な政治屋以上の力を発揮し得た根源があるのかも知れない。地元警察署長と犯罪組織の[少なくとも]upper middleが血縁関係にあって連動しているとか、県会議員が暴力団組長との根深い関係を誇示して見せたりするところでは、勢力支配の強大さはカポネのそれ以上であろう。(それこそが日本に於ける組織犯罪の特異性の根源であろう。)その下にあってこそ、「北関東随一の麻薬ディーラー」や国際的にも群を抜く「[チャイルド]ポルノの帝王」が君臨し得るわけである。

*[ix]これはRICO法上の概念であるが、組織犯罪一般に目下のところ最適切な概念であろう。尚、ここでの《profit》にはSchadenfreudeや(万引き集団などの場合は特に)thrill and excitementをも含めて置かなければならない。Schadenfreudeを含めることによってこそ、組織犯罪を質的に亢進させると共に自らも何らかの構成要件に該当するものに転化するに至るところの・面的に展開される《unlabeled exploitation》がこの概念に包摂されるであろう。

*[x]自らの身体が為した行為であるのに、そうは思えない。誰かが自分を操作し、支配しているのであって、その誰かが自分を使ってその犯行を為したのである、とするのである。或いは、行為中の自分が極めて冷静に客観化・対象化されて捉えられており、行為しているのは自分であって自分ではないという意識を常に伴わざるを得ない状況を言うのである。《criminal web》のように、暴力が蔓延している社会にあれば、己のproperty(財産を含みつつも、それを越えて、広く彼固有のものという謂いである。)というものを実感することは出来ないのであるから、自律の生成する客観的契機をその故に奪われている彼にとっては、「自らの行為」という概念自体がよそよそしく思われるのである。

*[xi]むしろ、そうした(仮象のものであれ)人格構造を形成してしまう社会構造のあり方こそが問擬されるべきであろう。「他人は上手くやっている」とか「偶然的な」原因でことが露見したとか言う被疑者側の対応も、刑事司法上立件される事案は、社会的な勢力支配に与していない、その意味でmarginalな者のみを犠牲に供しようとする、それ自体が勢力支配の一環なのである、ということを証示している場合が多いであろう(ことの露見が偶然的な事由に依ると見えた場合も、実相としては組織的背景を以て嵌められたに過ぎなかったとか)。勿論、彼自ら勢力支配に与している場合には、その抗弁自体が擬装されたものに過ぎないことを忘れてはならないのであるが。社会に生起している犯罪事象と刑事司法上処理されるに到る犯罪事象とは、その量的差異が余りに大きすぎる相似関係にあるのであって、決して合同関係にはあり得ないのである。そのことを以て刑事法上の謙抑主義の発現であるなどとうそぶいてはならないであろう。そこには、捜査機関の能力・意欲の問題が大きく影を落としているのは明らかであるにせよ、(捜査機関から見た)社会構造的な立件のし易さ(被疑者側から見た)抗弁のし易さが相関しているのであるから、個々の事案・犯人像を越えたマクロの視点が喫緊の課題となっているであろう。

*[xii]大学院生が暴力団に誘拐されて暴行傷害の限りを受けて殺害された事案の場合、暴力団員が「私的な内輪の紛争だ」と述べたのを受けて立ち去った警察官こそが、畜群的思考になじんでいたわけである。「法は家庭に入らず」というのは正当だが、ことは公道上で起こっていたであろう。そこは本来、king's peaceが妥当すべきところだったのである。

*[xiii]国内法上は上官の命令が絶対視されている体制下の(その国が敗戦した場合に、後日立件されるべき)戦争犯罪も想起されるべきであろう。そこでは国内法と国際法が対照されるわけである。又、部分社会の論理を認める立場からは、部分社会の法と国家法の対照という問題も生じるわけである。こうした文脈から解決点を見出すためには、人権を基準にする他はなくなるであろう。

*[xiv]一般的には、友達関係やassociationを優先することは美徳である、と思われるかも知れない。しかし、《criminal web》に於いては、そうした対応は、実相としては腐れ縁や勢力支配に支配された悪行なのである。

*[xv]通常人ならば、自ら属する小集団の規範であっても、それが衝突する社会的全体の規範の方が重大である場合には、小集団の規範に違反する筈なのであるが。そこに、犯罪組織の持つ勢力支配を看取すべきであると共に、更に進んで、そうした勢力支配に於ける政治的支配の協働如何も探索すべきことになる筈なのである。「特別法は一般法を破る」という命題も―a prioriに当然視されているようであるが―、常にこうした問題を隠し持っている筈なのである。更には、社会的全体に妥当すべきである憲法よりも大国による占領に由来する軍事同盟とそれに纏わる諸法が優先される問題状況も、同様の問題を抱えているわけである。