組織犯罪の更なる背景
本稿はピロリッタの著作物ですので、引用等をされる場合には、ピロリッタの名称とアドレスを銘記していただきたく思います。
この地で<conspicuous>な印刷業者が脅し文句として「横のつながりがある」(これは本来、暴力団が用いる定型句であることも、この者の組織的背景を合理的に推論させるのに十分であろう。)と述べるように、《criminal web》に於いては、金融機関と政治屋を極核とし、暴力団も含めて異業種を広く包摂して(尤も、建設関連業が中核をなしているであろうことはたやすく推察され得るのであるが、上記の印刷業者からたやすく推論できるように広く他業種にも及んでいるのである。)「大きな組織」が形成されている場合が多いのである。それは、アングラ「産業」の全てを包摂しつつ、全産業を覆うかの如き勢いなのである。尤も、各産業分野の全企業を包摂し切れるものではなく、「大きな組織」の組織目的の見地に於いて協働的、或いは、親和的であるか、少なくとも敵対的ではないことが包摂される条件となっている。その包摂振りは、企業ぐるみ選挙、業界ぐるみ選挙、地域ぐるみ選挙などの動員選挙に於いて垣間見られるであろう。組織犯罪に走る畜群は常に体制側に動員される立場なのであって、それ自体、民主過程を歪めるものなのである。実際、もし畜群が一掃されたならば、国政選挙の結果さえ激変するであろう。だからこそ、体制側は、畜群に対してだけは、その操作はたやすくとも、「絶対に捜査できない」としているのであろう。政治過程はおろか司法過程であっても、アメリカの場合は陪審に於いて、畜群たる陪審員が、組織的に連動している(が、そうとは気づかれていない)被告人の無罪を頑強に主張して誤審を招いているのである。(United States v. Elliott, 5th Circuit, 571 F.2d 880 (1978)参照。被告人James ElliottはRudolph Flandersの審理に際してそう行ったとされている。)日本でならば、証人として、或いは、被害者として、かく振る舞っているのである。裁判員制度の導入は、司法権操作へ向けた強力な橋頭堡を「大きな組織」に提供することになるであろう。何故なら、裁判員の選択基準は―抽選などと仮構していても―《criminal web》に於いては「大きな組織」の協働によって作成されることになるであろうからである。そのためもあってか、裁判員の氏名・住所を公表しないこととしているであろう。又、この点では、組織的背景を以て為す脱税も深く静かに規模を拡張しているのである。その見返り(脱税できることはそれ自体見返りにもなるが)は、犯罪に協働したことへの裏金としての報酬にとどまらずに、消費者は勿論のこと、「大きな組織」に敵対的・場合によっては中立的な企業をも標的にして組織的に展開される独占禁止法違反・不正競争防止法違反などを広く含む経済事犯(高利貸しを中核とするであろう。)や業務妨害罪などを核とする組織暴力事犯の累積がもたらす暴利である。尤も、「大きな組織」への上納金を差し引けば、個々の成員の収益はさほどの暴利とは言えないかも知れないが、少なくとも自ら攻撃対象にはならずに済むという「保険」の積もりで上納金を支払っているわけであるし、この不況下にあっては薄い利ざやでも貴重なのである。「暴利」をもたらす組織活動に於いては、種々なる《unlabeled exploitation》が展開され、少なくとも間欠的に隆起してくる種々なる[明白に]犯罪[と認定できる悪行]の効力をいやが上にも増幅させているのである。
とりわけ詐欺・恐喝の社会構造的と言ってよいほどの強力な組織的展開が典型である。古典的にはショバ代や見かじめ料であるが、警察手帳を示しながら集金に来る者がいることに徴すれば、黒い霧事件などに暗躍した政治屋の勢力支配と連動しつつ公権力―少なくとも警察暴力―もかなりの程度に協働している筈なのである。各業界から公権力に亘る広範な背景を以て構成される勢力支配は、それこそが《criminal web》の標識でもあるのだが、被害者側各人の認知構造を歪め、意思能力さえ機能的に無効化しているのである。各人の擬似環境は、組織的に連動する暴力に浸潤され、制圧されているのである。被害者側から見て、いわば外線を隔てて対峙している場合には、一定の臨界点までは、被害者側の防衛機制を却って亢進させる場合もあろう。しかし、臨界点を越えれば、防衛機制が劣弱化し始め、被害者側は内戦での戦いを強いられるのである。外線を隔てて対峙している場合でも、その包囲網が彼の血縁的・地縁的・機能的諸関係に亘るほど広範であり、畜群特有の粘着性で塗り固められている場合には、たとえ外線を突破されていなくとも、彼の擬似環境は既にして畜群の浸潤を被っているであろう。詐欺の場合には、被害者側は既にして畜群が内線に浸潤している場合が多いのであり、だからこそ彼は、他に選択の余地のないものとして給付せざるを得なかった筈なのである。恐喝の場合には、幾多の《unlabeled exploitation》の展開によって被害者側の防衛機制にセキュリティホールを構成して、そこから浸潤して為される場合が多いであろう。そして、恐喝を機縁として、向後は内線に於ける戦いを彼は強いられるであろう。《unlabeled exploitation》の組織的展開によって、畜群共にすれば、コンビニ感覚で詐欺・恐喝を展開できる社会環境が構成されているわけである。尚、組織的連動性を活用したものとしては、狡猾に迂回して収奪する手法がある。傷害を加えて、その治療代として、本来は賠償金を払うべき黒幕の一人たる医師に利益を収受させるという例もないではないが、医師が溢れているところでは、的外れになりかねないわけである。建造物損壊や器物損壊の場合にも、的外れの恐れはあるが、年末などの時期を狙って仕掛け、組織的に連動している各企業の協働の下に、損壊罪の黒幕たる企業に修繕を依頼するほかないように構成しておいて不法に収益する例は多いものである。更に、既にして何らかの組織連関の虜に陥れられている被害者に対してならば、コンビニ感覚で、何時でも何処でも、如何なる観点からでも攻撃し、搾取・収奪できるであろう。そのためにも各種畜群企業は、公然部隊としての各種暴力団を強力に駆動付けつつ、その勢力支配の拡充に努めているのである。かかる公的とさえ言い得る《enterprise conspiracy》の展開を促進するためにこそ、形而下に棲む畜群は「組織暴力事犯は絶対に捜査できない」と宣言しているわけである。
そして、そのことが更に「大きな組織」の拡大再生産を膨満させるのである。だから、「大きな組織」の成員は、かなりの数の地域住民であるとさえ言い得るのである。その識別基準は、暴力団を始めとしてポルノ女優や「運び屋の女」などを核として血縁的・地縁的・機能的に構成されている―銃器・薬物を包摂する・種々の《illegal items》の商いに連動しているということも際立った特徴である。―という点が明白なのであるが、その痕跡も希薄化されつつあると言うべきethnic Koreansやdescendants of outcastsが中核を成していると論結できるのである。実際、その歴史的由来に対応するかの如くに種々の廃棄物処理関連や芸能関係、更には新規開拓口としての―予算上の社会保障費の殆どは、その看板を掲げる部局や(腐食の背景を持つものも多いとされる)法人に滞留して、真にそれを必要とする人々には辿り着けない場合が多いこと(「職員即事業費」と称するスローガンとか、住民への直接サービスを避けて実体不明の「総合的機能」を掲げるとか)も併せ考えるならば、社会保障の分野も「大きな組織」などの政治的な勢力支配の暗雲に覆われていると推定されるのである。その背景を成す中核は、社会保障関連に於いては特に主観的権利が十全に貫徹していないこと(犯罪被害の賠償を受けると生活保護を打ち切るとかの悪逆この上ない対応が代表例である。犯罪被害に遭ったということは、社会保障を受給していても本来的な生存継続が不可能若しくは著しく困難化したということであり、当然受給すべき賠償金は、とりわけ日本の司法的慣行に照らせば、以前の社会保障を受給するのが当然の生活状況を辛うじてであれ復元したに過ぎないものなのである。)にあるであろう。―社会保障関連(にふさわしく粗暴犯に徹し切っているホームヘルパーなど)に於いて腐食の過程の増殖に寄与している筈なのである。(この脈絡に於いて捉え返せば、社会保障は、むしろ地域社会との結びつきを出来るだけ希薄化して、コスモポリタン的な対応を採るのが望ましいのではないだろうか。そのことは又、《human smuggling》の被害者に対するささやかな支援にもなるであろう。)ポルノの関連では、生来淫乱の相にあって猥褻性に特化しているdescendants of outcastsが真っ先に連想されよう。更に、冷酷悪逆にして阿鼻叫喚なる蛮行の数々を展開している場合には、江戸時代に残酷な刑の執行に与ったことでその残忍さを遺伝し得る獲得形質にまで亢進させ、今も公的な背景と連動しつつ《cool blood》な状態の下での殺人など―朝日新聞襲撃事件もその一つである。―の冷酷無情な犯罪に特化しているdescendants of outcastsも想起されるのである。彼等は、スターリン抜きで、この上なく強力にルイセンコ学説を実証しているのである。尤も、「大きな組織」も社会的権力であるから、そこでの権力保持者達(政治屋が必ず含まれている。)は、人々を単に漠然と動機付けるだけでは足りないのであって、特定の《Leistung》(ここでの脈絡から言えば、ポルノに出演させるとか、売春をさせるとか、賭場を開帳させるとか)へと動機付けなければならないのである。そこに《oboedientia facit imperantem[K1]》という一般命題が妥当する根拠があると共に、《組織への糸口》があるのである。
尚、ここで「組織への糸口」というのは、畜群が組織を形成・増殖させるための「糸口」であると共に、捜査機関が組織的背景へ辿り着くための「糸口」でもあり、更に、組織の生命力の源泉を閉ざして壊滅に至らしめるための糸口でもあるのである。
この命題から明らかなのは、組織犯罪を真に撲滅しようとするならば、組織がいかようにも構成し得る《corpus delicti》に翻弄されて末端成員のみを処罰するとか、かりそめにも組織的背景を闡明し得たとしても黒幕のみを重く処罰するとかいった対応はいずれも不十分なのであって、本稿で展開する趣旨に基づいて上にも下にも十全に重い刑を科する対応が不可欠なのである。末端成員の服従(oboedientia)も「大きな組織」を形成・躍動させるのに与って大きな力を発揮しているからである。むしろ、彼等の畜群性にこそ組織犯罪の真の駆動力を見るべきなのかも知れない。豊田商事の場合ならば、安アパートに住む「会長」を「私刑」によって殺害しても、それは組織的背景の隠蔽に連なるだけであって、上に向かっては、彼を窓口として莫大な暴利を貪っていた黒幕企業にまで辿らなければならなかったのであり、下に向かっては、犯罪収益[の黒幕企業への上納金を除いた分]を懐に入れていた多くの実行正犯(=「社員」)を悉く本稿の趣旨に基づいて処罰しなければならなかったのである。尤も、企業犯罪と言い得る場合であっても、必ずしも「社長」がそうした犯罪に直接加功していたとは限らないのであって(だからといって「社長」が責任を逃れられるわけではない、と言うべきである。組織機構に配置された人員がその組織機構内部の連動性を用いて組織犯罪を展開するのを阻止しなかった責任は重大だからである。むしろ、不知を仮構して利益のみを収受しようとしていたと言うべき場合が多いであろう。)、「業績」を伸ばしたい中堅幹部が自ら私的に持つ・当該企業内外に亘る腐れ縁を用いて展開していた場合もあり得るからである。工場制手工業から成り上がったと言うべき世界的大企業が「[チャイルド]ポルノの帝王」と連動している《enterprise conspiracy》に対して、かりそめにも捜査の手が及んだならば、こうした図式に矮小化されて立件されるに到るであろう。しかし、現場担当の実行正犯たる普通の「社員」の習得した犯罪技量が、種々なる悪徳企業によって重宝されていることに留意するならば、その企業の通常の業務遂行(に馴致し切っていたこと)が犯罪遂行を円滑化していたことに思い至る筈なのであるから、成員が全一体となって展開した企業犯罪であったと言うほかはない筈なのである。だから、組織犯罪の場合には教唆犯や幇助犯というのは仮構でしかない場合が殆どであって、全員が共謀共同正犯として処罰されるべきなのである。そもそも不況下にあっては、目腐れ金でも犯罪に走る者が続出するのである。まして畜群固有の《Schadenfreude》も得られるとあっては、私兵の調達には事欠かないのである。だから、被害者達の生活の根底を脅かすに至る罠としての契約構造―建造物損壊や器物損壊を不当企画とする修繕契約、薬理作用による傷害致死を結果する飲食・医療契約など、その類型には事欠かないのである。―の中にその都度の被害者を拘束することを主たる焦点として各所に《unlabeled exploitation》や各種の構成要件該当行為を面的に配置しつつ、被害者達の精神的・肉体的・社会的生存を文字通り《entwurzeln》するように大掛かりに構成された組織犯罪―その形相はナチスの《Gleichschaltung》のそれと共通なのである。―の完遂へと向かう巨大な目的的行為支配が十分実現可能となるのである。被害者側に纏わる諸事態は組織の掌握するところとなっており、組織の側からいかようにも操作できるところとなっているのであるから、そこでは被害者さえもが巨大な目的的行為支配の「道具」とされている場合が多いであろう。組織的背景を以て為した殺人事件であるのに、病死・事故死とされたり、自殺とされたりする例が如何に多いことであろうか。娘の嫁ぎ先が新築した家を自分達のものにするために、その夫を「過労死」に追い込んだ場合には、診断書乃至は検案書を作成した医師を中核とする保険金詐取の共謀であったことが、その娘の血縁関係が売春・ポルノ組織と連動していたことや地縁的に「運び屋」の近隣に位置して麻薬取引に関与していたことなどから合理的に推論されなければならなかったのである。又、被害者の「自由」意思、「自由」な活動さえもが、組織犯罪の全体連関性から見たときは、自らをより一層の窮境に追い込むばかりの・蟻地獄の中でのあがきでしかないのである。或いは、彼の置かれた状況を、赤い布で牛を剣先に突進させる闘牛場に見立てるべきかも知れない。畜群企業はそこに暴利収受の足場を見るわけであるし、個々の畜群共はそこに少なくとも大きな《Schadenfreude》を見出すわけである。本来的には、彼等こそがコロセウムで屠殺されるべきであるのにである。被害者が攻撃から逃避しようとする行動や、攻撃を受けて発動する心身に亘る種々なる防衛機制や、より広く社会[心理]的な防衛機制さえも、大きく捉え返せば、組織目的完遂のために事前に算入されていた・不可欠の構成因子となっているのである。(防衛機制の点では、《criminal web》では医師も重用されていることを想起。)そこに畜群―彼等の心術は常に魔界にある。―の底知れない悪辣さと文字通りの非人性が顕現しているのである。しかし、世代を越えて永劫に魔界に根ざし続ける畜群とは異なり、我々人間は「ただ地上において巡礼の旅をしているにすぎない」(岩崎武雄「西洋哲学史」、昭和40年、99頁)ことを思い出すべきである。人間は原罪によって《non posse non peccare[K2]》であるかも知れないが、畜群は《non posse nolle[k3]peccare[K4]》であると言うほかはないのである。だから、組織犯罪の実相とは、安全地帯で机上の空論を弄ぶ者たちの想像を越え出た・およそ人権観念が吹き飛ばされた状況なのである。そこでは、被害者側には、「一寸の虫」には認められる「五分の魂」さえ認められない惨状にあるのである。この理は組織犯罪の極致の一つである戦争を見れば明かであろう。人間を電子レンジの中で焼き殺す効果を持つ爆弾とか劣化ウラン弾を撒き散らす火の大魔王には世界的規模での利権網の構築しか念頭にはなく、彼は爆撃下に暮らす人間には虫けらほどの価値さえ認めていないのである。しかし、畜群たるが故に、「勢位の恃むに足りて賢智の慕うに足らざるを知る」(韓非子、第四十 難勢篇、一)者は、法と正義を担保する筈の国家主権は衰微し来たり、彼らの恃む「勢位」は強盗団との区別が付かなくなった擬似主権国家のそれに過ぎないことに思いを致すことが出来ずに、いずれはかかる「国家」と共に自滅の道を辿るであろう、と推定されるのである。
組織犯罪の多くは、圧倒的な量を以て展開される《unlabeled exploitation》を面的な要素として構成されよう。その個々的な軽微さによって大量の畜群を引き寄せることを狙うと共に、刑事司法を幻惑する(捜査・訴追を免れようとするわけである。)ことをも狙っているのである。特に、日本の「やくざは、実際の暴力よりもハラスメントや威迫に従事する傾向にある」(Erika Fairchild & Harry R. Dammer, Comparative Criminal Justice Systems, Second Edition, 2001, p.307)とされているのである。法と正義を体現しようとする者は、それらが構成する全体構造の持つ巨悪さを洞察し得る視座を失ってはならないのである。そもそも、組織的背景を以て面的に展開される《unlabeled exploitation》の量的亢進は、断続的にではあれそこから隆起して来る・暴行罪によって通貫された様々の構成要件該当行為を以て、平板に羅列されたという意味では無機的な構成要件によっては到底評価し切れない異質のものに転換させずには置かないのであるし、当の《unlabeled exploitation》でさえも、量から質への転換によって、(畜群的思考によってさえも)何らかの構成要件に該当する(と認定せざるを得ない)ものに転化している筈なのである。かかる組織犯罪の量的蔓延と質的転化という実相とは裏腹に「罪悪性の空洞化」(藤木英雄「刑事政策」、1968(1975)年、11頁)―それは畜群社会の常況でもある。―も、とりわけ《criminal web》に於いては普遍化しつつあるのである。こうした趨勢に対抗するためには、例えば《to profit from crime》という《conspiracy》に参加することといった新たな組織犯罪の類型を解釈論として構想すべきではないか、と思われるのである。尤も、この犯罪類型は、「個々の犯罪規定を、違法の面のみでなく責任の面においても類型化された統一的な行為類型としてとらえたもの」(佐伯千仭「刑法学の問題点」;同「刑事裁判と人権」、1957(1970)年、395頁)たることを踏まえつつも、組織犯罪の実相をよりよく踏まえた犯罪学の成果を直裁に採り入れたものとして構想されるべきであって、そのことが又、組織犯罪に関する一般構成要件の内容をも規定していくのではないか、と思われるのである。
組織犯罪の違法性を組織的連動性に於いて捉えることは誰もが承認するところであろう。(「違法は連帯的に」)しかし、責任の面に於いても、畜群は組織的連動によって互いのそれを補充し合い、利用し合っているのである。少なくとも責任要素に関しては、各人を切り離して捉えてみたときには欠缺している点を組織的連動性に照らして補充し合っていると認定し、その全体連関性の視点から責任の有無を判定すべきなのである。上に引用した「責任の面においても類型化された統一的な行為類型」という表現を佐伯博士の考えとは独自に捉え返せば、このように言えるのではないか、と思われるのである。
又、《conspiracy》を個々の畜群に照らして定礎する礎石としての《overt acts》として《unlabeled exploitation》を位置づけることが不可欠なのであるが、「律令に正条のない非行についての他律の援引比附(類推適用)を許す断罪無正条の規定」(参照 佐伯千仭「刑法(総論)講義」、前掲、34頁)を持っていた新律綱領も参照されるべきではないだろうか。
その雑犯律には「凡律令ニ正条ナシト雖モ、情理ニ於テ、為スヲ得応カラサルノ事ヲ為ス者ハ、笞三十」という規定がある(牧英正・藤原明久 編、「日本法制史」、1993年、309頁)が、ここでの「為スヲ得応カラサル(不応為)ノ事」とは律令に該当条文がなくとも裁判官が為すべきでないと考えた所為であって、その場合には裁判官は情理に照らして処罰することが出来る、というものであった。そして、ここでの「情理」は明治八年太政官布告第一〇三号裁判事務心得第三条に言う「『条理』の文字の素地を成したものに外ならぬ」(杉山直治郎;中島弘道「裁判の創造性原理」、昭和16年、434頁(註七) 参照)とされているのである。そもそも「不応為」とは「してはならないこと」の意味であり(日本国語大辞典)、それを「情理」を基準にして処罰可能にするわけであって、罪刑法定主義に反する恐れが大きいのは確かである。実際、この規定は、旧刑法(明治13年刑法)第二条に「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スル事ヲ得ス」と規定されることによってきっぱりと廃棄されたのである。(牧英正・藤原明久 編、前掲、312頁)だが、罪刑法定主義に立脚する刑法が施行されることによって、「不応為」より狭隘である[が故に立件しやすい筈の]法定された「罪」に包摂される所為が悉く制圧されるに至ったかといえば、(暴行概念を適正に解した上で刑事司法が完全に機能していれば可能であったと言うことは出来るのであるが、そもそも暴行概念自体が狭隘化される一方で、刑事司法は市民運動を除く組織犯罪に対しては実効的に機能していなかったので)断じてそうは言えないであろう。又、罪刑法定主義とは、古典的刑法が射程とするところの単独犯(或いは、教科書事例とも言い得るカルテル型の小振りの共犯事象までは含むであろうが)を対象として構想されたものであって、多数を恃み多数の威を借りる畜群を想定して構想されたものであったとは言えないのではないだろうか。罪刑法定主義は畜群に付け入る足場を与え、法の間隙を縫って悪逆を恣にする彼らが跳梁跋扈する情勢を構成した面があったことは否定できないのである。廃止された「不応為」は、個別離散的に捉えれば、些末な所為でしかなくとも、それが組織的・面的に展開されれば、それ自体で以て、構成要件に掲げられた悪行に勝るとも劣らない悪逆に相当し得るのであり、少なくともそれが背景を成して、[「罪刑法定主義」の下でも]立件され得る悪行をこの上なく強力なものに転化し得るのである。(そこにこそ、組織犯罪にとって《unlabeled exploitation》の持つ重大性があるわけである。)又、一方では政治屋が勢力維持拡張のために暴力団などを私兵に擁し、他方では社会運動を直接間接に弾圧するために公権力自ら暴力団を始めとする《death squads》や種々の《private police》を頻用している趨勢の下では、畜群の展開する《unlabeled exploitation》は、被害者側を制圧するためばかりでなく、動員勢力醸成のためにも不可欠の酵母を成しているであろう。逆に言えば、一切の《unlabeled exploitation》も制圧され切っている湖水清澄たる社会では、組織犯罪に動員される畜群も培養し難く、如何なる悪逆といえど、又、政治屋や公権力自ら展開するそれであっても、実現不可能な情勢に制圧され切っているわけである。
尚、個々人が犯罪に走った原因という視角から捉えた場合、組織犯罪はまさに組織的であるという点に於いては適法行動とさほどの違いを持たないのである。何故なら、《to profit from crime》という《conspiracy》概念から《from crime》を除けば、既にしてそれは《going concern》と同値だからである。そこに《enterprise syndicates》が種々に成立する根源があろう。
電力料金や通信料金などの公共料金が高いのは何故かと言えば、各種テロ活動を始めとして、あらゆる組織犯罪の情報戦に於いて中核的な役割を占める共同正犯多数を「社員」乃至は取引先として擁して置いて、彼等に巧妙に保護色を施すためなのではないかと危惧されるのである。そのことは内ゲバ事件の[立件もされない]殺人犯などに例証されているであろう。その危惧が的中していると仮定すると、例えば、法外な「工事請負」料金を工事業者にふんだんに払うことによって、組織犯罪の軍資金をばらまいていることにもなるのである。「公共性」を隠れ蓑とすることによる隠蔽の集積は、却ってその「公共性」の何たるかをいずれ白日の下に晒すことになるであろうとも予想されるのである。実際、管理売春を裏稼業とする電気工事業者を脇に置いておくにしても、組織犯罪の中核的な役割を担った者が電力会社の女電話番や検針員、或いは、通信会社の営業マンも兼ねていることによって、そのことは予兆されてもいるのである。我々は、権力者によって仮構された、或いは、ヘドロの溜まった底なし沼のような体制論理―体制側がその時々の都合によって互いに矛盾し合う論理を使い分けていることは、しばしば指摘されているであろう。―から浮かび出る「公共性」なるものが如何によそよそしいものであるかを体得して置かねばならないのである。《nec ulla nobis magis res aliena quam publica.[K5]》という数百年前の指摘は今に生きているのである。
しかし、その特殊な原因過程は分化的接触(differential association)にあるとされる(ドナルド・クレッシー「分化的接触と非行」に対する坂田仁の訳と解説;中山研一・宮沢浩一 監修「犯罪学リーディングス」、昭和46年、所収、198頁)。分化的接触に於いては、組織犯罪[者]に接触したことがその者をして組織犯罪に走らせるだけの力を持つ(少なくとも、その契機になる)ような社会であるか否かということと、彼のそれまでの接触経験の累積とそれに対する彼の受容の仕方如何が大きな試金石となるであろう。とりわけ、彼が公的に犯罪者という《labeling》を施されると彼の社会的コミュニケーションが《selektiv》に犯罪者とのそれへと傾斜乃至は制限させられるような社会体制は、絶えず犯罪者を拡大再生産していることにもなろう。更に、《ethnocentrism》とも交差する犯罪規定は、「社会の一小部分だけの合意の法典化」(同、208頁)と言うべき側面も持つが故に、本質的に見て犯罪抑止力に欠陥があるほか、そこに反映している差別それ自体が社会問題にもなるであろう。総じて社会の在り方が最根元的な問題なのである。尤も、社会のありよう如何によっては一定の犯罪発生は不可避であるという犯罪飽和の原則(フェリー)が統計的に認められることは社会体制の変革(とりわけ社会的コミュニケーション一般の規範的統制のそれ)を要求するものであるが、だからといって、刑罰の犯罪抑止力を否定することにはならないであろう。むしろ、犯罪と刑罰の構成如何の問題、とりわけ刑法の個人主義的構成が組織犯罪に対して無力に近いのではないかという問題であると思われる。社会一般に個人主義原理は妥当すべきではあっても、とりわけ《criminal web》に於いては、暴力を以て[真の]国家主権を排撃した独自の主権によって真の個人主義原理はその妥当根拠を粉砕されているのである。だから、個人主義原理が真実妥当する社会を実現する(少なくとも畜群性や組織犯罪を根絶する)ためにも、本稿で展開するような畜群根絶のためにより適合的な刑事法の構成が望まれるわけである。
無数の《unlabeled exploitation》によって構成された社会構造的な暴力に対する正当防衛を構想してみるに、畜群はそれぞれに「積極的抗弁」を仮構し得る(尤も、組織犯罪に走る畜群のそれは類型的に成立根拠を欠いていることは縷々述べる通りである。)のであるが、被害者の方は無数の《unlabeled exploitation》に囲繞されているがために個々的には積極的抗弁を構成しにくい上に、時空にまたがって全体として構成された巨悪をそれ自体として対象化することが困難である以上、全体構造に対して正当防衛を以って対処する道を閉ざされているのである(と同時に、ムッソリーニが為し得たように国軍を背景とする強力さを以てすれば可能であることも容易に看取できよう。)。そこに組織犯罪の底知れない邪悪さと共に、被害者の窮境が看取できるであろう。まして、《unlabeled exploitation》の中核として「民事取引」さえ登場しているのである。だからこそ、そこに於いて《conspiracy》の底知れない罪深さを体得しなければならないと共に、本稿の全趣旨が生かされるべきだと思うのある。
かかる組織犯罪の展開に於いて、「組織暴力事犯は絶対に捜査できない」という宣言が触媒として機能し得るのである。実際、こう宣言した者は、共謀を主導する役割を果たしていた畜群の一部を成す「北関東随一の麻薬ディーラー」などをも包摂する「大きな組織」とも野太い関係を以て共謀していたわけである。又、民事に限ってみても、松尾弘「詐欺・強迫」、民法総合判例研究、2000年には、本来刑事事件として対処されるべきであったのにそうはならなかったがために畜群が恣に蛮行を展開する事案が目白押しとなっているのである。そして、組織暴力によって被害者側が心身に亘って被った損傷に群がる蛭のように畜群犯罪企業(当然に医療関係も含まれる。)が被害者の財産や健康、生命そのものさえ食い荒らしていくのである。本来これは刑事法の領域で対応されるべき問題であることは明かであろう。しかし、この地では警察法第二条は死文化されているのである。つまり、日本国内に設営された「第三国」の飛び地とでも言うべきであろうか。警察という国法上の機関によって国家主権が地域的にではあれ放棄されているのである。(それは「大きな組織」を防衛するためでもある。)
警察の意図するのは、組織犯罪の被害者も組織を形成していくことであろう。つまり、畜群に堕することを望んでいるのである。そうなれば、暴力団(その成員の政治的心術は警察官のそれと近似していることは指摘されているところである。H. Abadinsky, Organized Crime, Sixth Edition, 2000, p.265 参照)やテロリズムが蔓延し、あらゆる面で好ましい風潮になるということであろう。「(組織犯罪の)如何なる被害に遭おうともおよそ告訴などするものではない」という宣言も併せ考えれば、そうとしか考えられないのである。それは、単なる贈収賄構造と言うべきものを包摂しつつ、しかも尚、それを越え出た地平にあるのである。そこには国家主権の一貫性(それは法体系の一貫した実効性と表裏をなすものであろう。)の腐食過程も滲み出ているであろう。勿論、組織犯罪が族生する場合には、畜群共は必ずや何らかの尤もらしい口実としての「積極的抗弁」―その実相は《techniques of neutralization》でしかないのである。Gresham M. Sykes & David Matza, Techniques of Neutralization, American Sociological Review, 22, 664-670, 1957 ; Suzette Cote (ed.), Criminological Theories, 2002, pp.144-150 参照。尚、後述。―を用意している(つまり、それは組織的背景を以て畜群側によって構成されたものである場合が殆どなのである。)のであり、畜群と警察官の心術が近似していることに照らせば、警察組織もそれに乗って《Schadenfreude》を満喫している(勿論、贈収賄の野太い動脈も脈打っているであろうことは古今東西の事例に照らして明らかなのであるが。)という図式も想定されるのであるが、犯罪組織の巨大な目的的行為支配にとって重要な実行者や作用因子に公権力自ら位置しているというところに照らせば、そこには心術基底的な規範敵対的人格態度が組織的に顕現していると言わざるを得ないのである。だから、組織犯罪の被害者の老親から退職金相当額を強奪するばかりでなく、入れ替わり立ち替わり、被害者側に暴行を加えたことの「報酬」や各種の作り話や強要した「取引」の「対価」を徴収し(自ら門扉や外壁を損傷して置きながらその「修繕」費を恐喝するばかりか、その「修繕」それ自体が外壁の破壊を構造化するものでしかないなど、畜群企業の展開する悪逆は、警察暴力の協働もあってか、とどまるところを知らないのである。)、総じて年金相当額をも奪い取るという蛮行を累積しつつ―そこでは、底知れない淫乱さと残忍さを遺伝するに至った獲得形質として具有する「組織の女」などが「窓口」として暗躍していると推定されるのである。―、あまつさえ、その証拠になるかも知れない家計簿などの破棄を被害者側に命じているのである。総じて、被害者側の主体的生活形成の基盤を根こそぎ破壊・奪取しているのである。しかも、その発するあえぎ声さえ圧殺するところ(名誉毀損罪・業務妨害罪の公権的組織的展開と通信手段の途絶など)に警察暴力との共謀下に悪行の限りを尽くす「大きな組織」の独自の主権が顕現しているのである。更には、被害者側の近隣に位置する・「大きな組織」と連動している者(管理売春を裏稼業としたり、県立高校教師を含めて「運び屋」と連動している畜群)たちが畜群企業と取り結んだ請負契約の代金までも、不当極まりない言い掛かりを以て被害者側に支払わせているのである。しかも、そうした一連の組織犯罪を以て「恐喝ではない」として制圧し来たっている(=被害者側に「支払ってはいない」とか「自由意思で支払った」と抗弁させるわけである。)ところに、悪の限りを尽くす・醜悪極まりない共謀関係が顕現しているのである。そうであればこそ、自ら組織の強力な傷害行為の被害を受けて入院・手術の已むなきに至った被害者側老女でさえ、「警察は当てには出来ないから、ありたっけの金を出すほかはないのよ。」と言わざるを得ないのである。当てには出来ないものは要らないものへと転化するものであり、有害無益のものであるという本性を露わにせざるを得ない筈なのである。裏金集積に精を出す警察暴力であって見ればこそ、その「ありったけの金」の収受にも深く関与しているであろうと推定するのが合理的というものであろう。
実相としては《techniques of neutralization》(尚、本稿ではneutralizationを「中和化」と訳している。)でしかないものであれ、兎も角も「積極的抗弁」として何らかの口実が畜群の内心上(そして、場合によっては刑事司法過程に於いてさえ)正当化作用を及ぼしている社会というものは、犯罪が問題解決のための選択肢の一つとして実行可能になっている社会であるから、それ自体問題であるばかりでなく、根底としては、より高い価値のためにより低い価値を犠牲にすることは犯罪ではないといった趣旨に於いて差別と序列化が実効的に通用していることを前提しているであろう。かかる社会の歪みが種々の相に亘る<apologetic failure>を生み出しているのである。中和化の技術の一つとして、自らをビリヤードの球に見立てて、畜群は自らの責任を否定するのであるが、そこには自我からの深刻な疎外があるであろう。尤も、《criminal web》のように暴力の蔓延する社会にあっては、己の《property》というものを実感できない(自ら「所有」するものを持っていても、そこでは所有と決定が分離されているのである。)のであるから、自律の生成する客観的基盤を奪われている彼にとっては「自らの行為」という概念自体がよそよそしく思われる場合も多いであろう。だから、《criminal web》に於いて積極的・能動的地位を占めていない(=勢力支配に与してはいずに、むしろ、そこに蔓延する《unlabeled exploitation》や組織犯罪の被害者側に位置している)彼が被疑者として立件された場合には、そうした意味でmarginalな者のみを犠牲に供しようとする勢力支配の一環として立件されたに過ぎないと言うべき場合も多いであろう。(狭山事件についてもかかる背景を想定できるように思われる。)彼の申し立てる積極的抗弁は正当化根拠を持っているのである。ことの露顕が如何なる経緯によるにせよ、組織的背景を以てはめられたに過ぎない場合もあろう。そもそも刑事司法上立件されるかどうか、及び、そこで被疑者・被告人側が積極的抗弁を成功裏に貫徹させ得るかどうかという問題は、捜査機関から見た社会構造的な立件のし易さ(そこには更に政治的な勢力支配も大きく作用しているであろう。)と被疑者側から見た抗弁のし易さの相関関係で決まるのであるから、かかる偏頗な対応を抑制するためにも個々の事案を越え出たマクロの視点を保持して対処すべき場合が多い筈なのである。しかし、彼自らが勢力支配に与している場合には、その成す如何なる抗弁であっても擬装されたものに過ぎないことを忘れてはならないのである。又、中和化の別の技術として、与えた損害を否定する場合には、集団暴行が「いたずら」へ、窃盗が借用へ、争闘が私的な紛争へと不当転換されているわけである。(暴力団員らによって大学院生が虐殺された事案の場合、一旦は駆けつけた警察官が「身内の喧嘩だ」と言われただけでいともあっさりと引き上げてしまったというのは、そこに大きな枠組みに於ける共謀関係を推定させもするのであるが、真実家庭内の紛争と言うべき《domestic violence》に対してさえ刑事罰を以て臨もうという時勢にそぐわない対応と言う他はないであろう。「身内のことであろうとも、暴行や傷害は許されない」という毅然たる対応を採るような教育は、チャイルドポルノ組織と連動している担当者には無理であろうが、常に広域暴力団との危機的な対峙下にある関西の警察だったらば可能だったのではないか、と推定されるのである。)「法は家庭に入らず。」を前提すれば、個人の主権的基盤に於ける事柄については、かかる転換が成り立つべきであろう。しかし、他人の主権的基盤を犯して為した所為や公道上などの《king’s peace》が妥当すべきところでの所為には、かかる抗弁は成立し得ないことを忘れてはならないであろう。ましてや、畜群が似つかわしくもなく思い上がって、復讐者や刑罰執行人に成り上がり被害者を悪人に仮構して―その際には組織的背景を持って成す幾多の《unlabeled exploitation》が功を奏している場合が多いであろう。―蛮行を恣にするなどは、まさに手前勝手に「法」を措定し、執行しているのであって、「豚に真珠」を凌ぐ奇態であろう。そこでは、あるべき国家主権が暴力を以て排撃されているのである。そもそも、組織的背景に安住して互いに加熱し合う畜群は、そもそも何の被害にも遭う筈がないのにも拘わらず、共謀の連鎖が膨満するにつれて、「我々こそが『法』を体現している。」と増長して、手前勝手に、攻撃に「値する」者(被害者は、畜群の成す勢力支配に屈服するのを潔しとしない主権的個人である。彼は、真の国家主権が減退する窮境にあっても、各所の内線に於いて孤軍奮闘する勇士なのである。)を構成してしまうものなのである。そこに協働している加熱源は、警察自ら、[真の]国家主権の減殺を意図して、常に組織犯罪の先兵を務め来たっている警備保障会社や探偵などの畜群と成す《preventative partnership》に傾斜しつつある趨勢にも看取できるであろう。それは、江戸時代には公式組織上に位置していたにせよ、明治期以降は非公式組織とされて来た筈の畜群より成る「節度使」を国法上の公式組織上にさえ配置していこうというのであって、まさに国家主権の末期症状と言うべきであろう。地元警察署長と犯罪組織のupper middleが血縁関係にあって連動しているとか、県会議員が暴力団との根深い関係を誇示して見せたりするこの地にあっては、その勢力支配の強大さはあのカポネを遥かに凌いでいるのであって、だからこそ、「北関東随一の麻薬ディーラー」や国際的にも群を抜く「[チャイルド]ポルノの帝王」が君臨し得るわけである。究極的には、畜群をRobin Hoodの如きに思い上がらせ、被害者側を貶めているところの差別と序列化という社会構造に国家主権減退の究極の源を看取すべきなのである。更に、中和化の技術として、より高度の忠誠を捧げる規範に訴えることがある。[真の]国法の成す普遍的な要求と部分社会の成す特殊個別的な要求の衝突下にあると自らを見なしているわけである。一般的には友達関係や真に任意のassociationを優先することは美徳とされる場合があるかも知れないが、《criminal web》に於けるかかる対応は、実相としては、腐れ縁や勢力支配に基づく悪行でしかないのである。家族関係を始め、学校・地域社会に亘って、一般化され得るような実効的規範がなく、全てがその時・その場に於ける力関係によって決せられる社会に於いて何の抵抗も感じることなく生い育った者たる畜群であればこそ、中和化技術は正当なものとしてたやすく把捉されるであろうことはa prioriにも言い得ることであろう。「郷に入ったら郷に従え」という命題が各所に妥当する社会は、総じて見れば分裂社会なのであって、その時・その場を支配する暴力こそが「法」を措定し、執行する社会であると言わざるを得ないのである。歴史的には、主権国家とは、かかる趨勢の間隙を縫って徐々に形成されたものである。そして、天皇主権国家は勢力支配に依拠して成立したのであるから、かかる間隙の残滓に目を覆うのは無理からぬ面もあったであろう。しかし、現代は国民主権なのであって、主権は一貫して国内に通用する筈なのであるし、又、通用しなければならないのである(日米安保条約がそこに大きなブラックホールを形成している問題は残るが。)。しかるに、かかる社会の実相が主権国家の立場から放任されているとか、或いは、社会に於いて実効的な「法」の問題をそれを担保する社会的勢力支配の有無乃至は大小によって決しようとする対応が主権国家によって採られているならば、国家の主権性を担保する首尾一貫した法秩序そのものが部分的で特殊な「法」によって浸潤されていくわけであるから、問題は組織的背景―畜群が中和化を成す根源はここにある―という・主権国家に背反するところで成す中和化技術の巧拙如何によって決定付けられるようになって、国家主権の尚更なる減退を招くのは必至であると言わなければならないのである。そもそも部分社会にのみ通用する「法」をそれに属さない第三者にも暴力を以て実効的に通用させる悪逆は、被害者に対する悪逆としてのみならず、国家主権を侵害するものとしても捉えられなければならないのである。
犯罪が激増し、何時でも・何処でも・如何なる犯罪が起きても不思議はないような社会に転換しつつある場合、危険地帯や危険人物の標識も消滅して、何が犯罪であって、誰が犯罪者であるかというメルクマールも希薄化せざるを得ないのである。そうなれば、犯罪は、そのリスクを犯すのも、又何とかその被害に遭うのを回避するのも、いわば天気に対処することのように当然視され、日常生活に組み込まれるに至り、社会に必然的に伴う当たり前の現象として標準化(normalisation)されるであろう。そうなれば、犯罪者の側も中和化の技術に訴える必要さえなくなると言えるのである。(John Lea, Crime & Modernity, 2002, p.139)可能的被害者の立場から見れば、自分に接近してくる者がriskyな者かどうかを見定め難いということである。
ストーカーが頻用する・被害者側の動向を掌握していることを示す対応は、そうと示す言語的内容を明確に伴わなくとも、尚更に被害者側を恐怖と不安に陥れるであろう。だから、それは脅迫罪に該当すると言うべきなのである。かかる心理的攻撃の罪悪性を過小評価してはならないのであって、崇高な人間理性に対する攻撃として厳しく糾弾されなければならないのである。およそ粗暴犯と言われるものも、被害者側に何ほどかの脅迫効果をもたらさずには置かないのであるから、元の構成要件によって評価され尽くされてはいない場合が多い筈なのである。畜群が組織的背景を以て攻撃する場合は尚更である。
そうした体制下にあっては、犯罪に纏わるリソースは犯行者側の手中にあるわけであるから、社会的な接触一般を規律付けるなどの・可能的被害者の主権的基盤を一層強化する法制化が肝要なのである。さもなくとも、加害者側が組織的背景を以て攻撃してくる場合には、被害者側としては為す術がないのであるから、共謀を中核とする畜群の連鎖をそれ自体として制圧し得る体制を可能的被害者側の主観的権利に貫かれたものとして構築することが喫緊の課題なのである。可能的加害者の立場から見れば、犯罪に走ることも標準化されて来ているのであって、通常の問題解決として(自動車修理会社が連動する畜群を使嗾して被害者の車を損傷することによって「顧客」化するとか)、或いは、日々の通常活動の一側面として、たとえ付随的にであっても、犯罪を犯してしまうということが生じてくるのである。
「親愛の情」の表現や度し難い不良娘を叱ることがセクハラとされるのは、一見尤ものようである場合もあろうが、かつての従軍慰安婦達の被り来たった窮状の訴えを時効などを口実に退ける対応(彼女達をかかる惨状に追い込んだ犯罪は、戦争犯罪として《universal jurisdiction》に服するし、そもそも時効にかからない筈なのだが。)と照合した場合には、却ってその対照の奇形さが浮き彫りになるであろう。
何が犯罪であるか不明であれば、抑止力が弱化するし、そもそも自分は犯罪を始めているのだという意識さえ弱まるであろう。そのことは、麻薬の普及に象徴されるばかりでなく、「低賃金労働者の大多数が、これは犯罪なのだということを認識することなしに、ましてや自分達の行動を合理化する必要を感じることなしに、窃盗とか違法な労働とかの非公式の種々なる犯罪組織に出入りしている」(ibid., p.138)ことにも示されているのである。この地であれば、「違法な労働」は、売春・ポルノ出演或いはポルノ制作編集・麻薬の合成調合・銃器の加工組立・ポルノや麻薬や銃器の運搬販売などによって強力に例証されているのである。(私が目撃したところに照らせば、爆弾や小型ロケットも含めた銃器の加工組立や特殊な薬品を含めた麻薬の合成調合は、この地にあっては、問屋制家内工業の形態に基づく広範な地域分業によって展開されているのである。ポルノ制作は、小振りのそれは民家で、逆輸入ものと称する数百人が登場するそれは公的施設―学校の体育館であろう。―を用いて定期的に挙行されているのである。かようにして得られる膨大な不法収益に依拠する「大きな組織」の勢力支配は、警察暴力[の一部]をも包摂しつつ、「第三国」を始めとする国際的な連動を誇示しているのである。)この「違法な労働」が例示しているように、ある種の犯罪はますます以て社会経済生活の再生産の一部として機能するようになっているのである。実際、覚醒剤の小口売りもこなす売春スナックは新装されたし、(地域ぐるみの組織的な恐喝も介在していようとも)自宅の改装を為した者も多いわけである。これとの対比に於いて、組織的背景を欠いた性犯罪は資本集積にも貧者の生存にも寄与するところがないので、標準化され難いのであるが、組織的背景を以てポルノ制作販売に連動したそれ(児童を輪姦する「撮影会」の開催とか)ならば、標準化され得るわけである。実際、かかる悪行は一連の児童買春がらみ事案の元締めでもある「ポルノの帝王」に巨万の富をもたらしたわけであるし、だからこそ、モデルを務めた者達(白目をむくほどに強姦された少女も含めて)は、かかる組織への忠誠度を今も尚競い合っているのである。輪姦であっても、地域社会ぐるみと言うほどの場合には、被害者はこの地にあっては「共有妻」とされているのであって、何らかの社会的「価値」の循環の中に駆動付けられているが故に、立件されないどころか、「如何なる被害に遭おうともおよそ告訴などするものではない。」と制圧されているのであろう。しかし、そのもたらす弊害の観点から見れば、組織的背景を以て為される場合の方が激甚であることは言うまでもないであろう。そもそも、貧しい共同体の中では必要を満たすものとして受忍される犯罪の諸要素は、より組織的で有害な諸活動と結び付きやすいのである。その貧しい共同体に属する「普通の人」が加功する所為が極めて末梢的なことであっても、それだけでは完結せず、より大きな組織的背景に於ける駆動付けを前提している場合がそうである。「普通の人」たる畜群の分担する所為は、畜群特有の無機的な態度で捉えるならば、日曜大工の域にも達してはいない軽い「仕事」であろう。その地に不慣れな、或いは、その地で劣弱な立場にある婦女子に言葉巧みに接近して「いい人」や「いいアルバイト」を紹介するという頻用されている所為も、それがポルノ出演や売春、果ては国際人身売買機構にも連動していなければ、単なる「親愛の情」の吐露でもあったであろう。組織犯罪は、その展開する悪行を極めて細目的に分解して、個々の成員が抵抗なくこなし得るように構成しているのである。それは又、成員が組織的に連動し始めるために要する参入コストが低いという誘因をも構成しているであろう。それらによって、犯罪組織のヘゲモニーは増大の一途を辿ることが出来るわけである。そうなれば、加害者と被害者の関係も疎遠に引き離される(誰がやったか分からない、とか)と共に、組織犯罪の実相は、連動する畜群という「人民の海」の中に霧散していくのである。「人民の海」というスローガンは、それを唱導した・かつての「極左暴力集団」さえ包摂する「大きな組織」によって悪用されているわけである。更には、被害者と国家に対する共同体の忠誠も掘り崩されていかざるを得ないのである。そして、有害な行為類型を犯罪として立件する実践力も弱体化されるのである。かかる情勢下に於いて、独自の主権をほぼ面的に行使し始めている犯罪組織とは相対的に独立の地歩を未だ占めていると言うべき国家が辛うじて成す犯罪化は、場合によっては犯罪組織と協働さえしつつ為される、極めて《selektiv》なものたらざるを得なく成っているのである。上述の趨勢を総じて見れば、法の適用や執行に纏わる者達の立場から見た場合も含めて、これこれは犯罪だとすること(criminalisation)は、単に勢力支配の展開を意図する権力者の側が、自分達にとってリスクを成し、障害を構成する者達を処理する戦略でしかない、と言うことが出来るのではないか、と思われるのである。(ibid., p.139 参照)その「権力者」の意図が、公的な権力意思なのか、それとも、国家権力内部に一定の地歩を占めている・畜群由来の《Machtkern》の意思なのかはにわかには同定し難い場合が多くとも、日本国憲法体制と日米安保条約体制が拮抗的に我が国を支配しているのと類比的な意味に於いて、独自の主権を[少なくとも機能的に]行使する犯罪組織の勢力支配が少なくとも公権力の一部と協働して貫徹している支配体制と正規の国法体制が拮抗関係に入っていることは間違いないであろう。「組織暴力事犯は絶対に捜査できない」とする宣言がそのことを裏書きしていたであろう。又、憲法改悪を意図する真の背景は、こういうところにある筈である。そうした犯罪組織が動員し得る畜群の頭数が更に増大し、その展開する尤もらしい口実が何ほどにか体系化されるに至ったならば、犯罪組織が公権力そのものに成り替わることも十分あり得るわけである。もしかすると、その暁にこそ、「大きな組織」に包摂されていた「極左暴力集団」が前面に出てくるのかも知れない。むしろ警察自らそのことを企図していることをかかる宣言が示唆しているのであろう。そうした場合も含めて、《戦略としてのcriminalisation》ということが真相を言い当てているとしたならば、たとえそれが公式の公権力の為すところを指称している場合であっても、かかる《criminalisation》自体が、《criminal web》に於いて、《oboedientia facit imperantem》ということを亢進させていることになるであろう。つまり、公式の権力者によって保護されているのではない者達は、その時・その場の暴力に屈服するほかはないのである。中南米やアジアの最貧国での麻薬原料栽培に関して見ても、貧者の救済に役立っているという現象面のみを採り上げて彼等に対する勢力支配を正当化するのは、彼等の真意(=それは、麻薬栽培どころか植民地化以前の豊かな社会への復帰を望んでいるであろう。)にも反することになると思われるのである。彼等が自由意思で栽培に従事しているならば、麻薬の末端価格を引照することによって、自ら栽培した生産品の買い上げ価格の大幅上昇を要求してくる筈なのに、そうはなっていないのは何故かと言えば、彼等は、永きに亘る植民地支配とそれが強要したモノカルチャーによる自然環境破壊から脱却するのが困難であるばかりでなく、麻薬シンジケートの勢力支配に基づく暴力によって極貧の状態に押しとどめられているからである筈なのである。大多数の小作農には、尚更に選択の余地はないであろう。殺害されるか、餓死するか、麻薬原料栽培に従事するかという選択肢を強要されている筈なのである。(特に中南米では大土地所有制が今も続いていることを引照すべきであろう。その点は、あのチェ・ゲバラも告発していたであろう。だから、彼は、CIAの手も借りて、ボリビアで惨殺されたであろう。中南米では、大土地所有制に異を唱えるゲリラが手当たり次第に惨殺されていることも、貧者をして麻薬原料栽培に駆り立てているのである。)又、貧者の側も、服従に馴致され切って、主体性発揚の足場を見出しかねているといった事態も想定されるのである。いずれにしても、犯罪が社会経済生活の再生産に組み込まれているということは、それをもたらしている組織的背景や、そこから噴出してくる組織犯罪を些かも正当化するものではあり得ないのである。この理は、労働力市場へのアクセスさえ拒否されるほどに周縁化されている人々にも妥当するであろう。
犯罪が標準化されるほどに蔓延し来たった真の原因は何処にあるのであろうか。まず言えることは、発達した資本主義社会に於いては少なくとも「経済事犯は周縁化されるというのは重大な誤りである」(ibid., p.144)ということであろう。組織犯罪は資本主義の本流に成りつつあるのである。種々なる《enterprise syndicates》がそのことを物語っているのである。何よりも、他人を出し抜こうとする「攻撃的な個人主義と短期に成果を求める立場が、犯罪を生む出す鍵となっているのである。」(pp.138-139)修正資本主義としての社会国家原則が十分に貫徹され(最低限度の生活保障と完全雇用の達成)、国際社会にも平等権が貫徹されていく(それは、数世紀に及ぶ植民地支配に対する十分な賠償を不可欠の要素として含まなければならないであろう。)ならば、こうは言えないかも知れないが、社会国家原則や平等権などがないがしろにされる趨勢下にあっては、社会の「市場化」が徹底されるばかりであろう。(尤も、私は、「池の中の鯨」のような組織による市場の囲い込みや操作を放任する体制下に真の市場はないと思うのであるが。)Elliott Currieはそこに原因があるとするのである。(Crime and Market Society: Lessons from the United States ; Paul Walton & Jock Young, The New Criminology Revisited, 1998(2002), pp.130-142)私益の追及が社会の全領域を組織化する原理となるならば、生計の源から人格的同一性の源に至るまで、ミスリーディングな呼び名である「自由」市場に依存せざるを得なくなり、真の源たるべきそれらは抹殺されていくのである。(消費が社会的ステータスの証明であり、自己同一性の証であるように成っているであろう。)その市場に於いては、経済的・社会的な力とそれがもたらす生活機会は、アダムスミス的な意味で「自由」なのではなく、不平等に分配されているのであって、市場の変化から保護される度合いが増している者達が社会の富を独占している一方で、そうした富からますます疎外されて市場の変化に翻弄される度合いを増す一方の人々が増大しているのである。以下、Currieの5つのテーゼに即しつつ述べることにする。
l 市場社会は、不平等を増大させ、経済的欠乏を(貧者に)集中させることによって、犯罪を促進する。
労働力市場に照らして見れば、市場が拡大して多くの工場が低賃金の海外に流出するにつれて、大量雇用を含意する大量生産方式(Fordismと呼ばれるそれ)が廃れ始めている。仕事は不確実で、しかも、自ら受けた職業訓練の成果では応じきれないほどに相異なる技量を要求する。生活保護を始めとする弱者救済の切り下げ・切り捨てを推進する一方で、税制を始めとする公的負担の逆進性を体系的に亢進させている政策は、市場を経由しない経路(社会保障も租税もそうである。)を操作することによって、まさに絶対的窮乏化法則を実証しようとしているのである。金持ちをより金持ちに持ち上げ、貧乏人をより貧乏に追い込もうとする政策の強力な推進によって、貧困層が合法的な手段によって苦境を脱することはますます困難にされているのである。だから、彼等が上述の如き「非市場的収入源」(John Lea, op. cit., p.140)に活路を見出そうとすることの反面として、組織犯罪が蔓延してくるわけである。尤も、彼らは、その非市場的収入源たる「活路」に於いてさえ、搾取されるのを回避できないのであって、蔓延する組織犯罪が集積する巨利は、畜群に転落した彼らにではなく、ヘッジファンドに代表されるような《transnational capitalist class》の管理下に参着するものなのである。
l 市場社会は、地方の共同体(公共団体ではない。)が非公式の支援、相互供給、若者の有効な社会化と監督を提供する能力を蝕むことによって、犯罪を促進する。
近所同士や親戚同士の相互扶助が実行不可能に追い込まれているのである。市場化が各人を分断し、自らの私事をやりくりするので精一杯な窮境に追い込んでいるのである。だから、市場化が増大させる組織犯罪は、社会一般に於いても、「困ったときはお互い様」という醇風美俗さえ枯死させようとしているのである。各人は徹底して孤立化されているのである。
l 市場社会は、家族を圧迫し、分断することによって、犯罪を促進する。
補償なき社会変化とも言うべき市場化の荒波に翻弄されて、血縁的な絆が各人に相互扶助をもたらす余裕を失えば、核家族化が進展すると共に、核家族の成員各自もそれぞれに働かなければならなくなり、特に子供や老人に対する配慮が不足してくる。そして、そのことが、更なる分裂と悲惨を引き起こすのである。片親家族はますます増加していくであろう。余裕のある者が血縁関係に位置していようとも、後述の競争文化の蔓延は、その者をして私的な放縦に耽溺させ、余裕のない者を競争の仕方を知らないsoreheadsだの馬鹿者だのと見下させて、互いに離反させる一方なのである。
l 市場社会は、生計の道と経済的安定、非公式の共同体的支援を既に奪われている人々から、彼等の生存に不可欠なサービスの公的給付を取り上げてしまうことによって、犯罪を促進する。
あらゆる物事の市場化は、人々をして不治の病(治療費が払えないために、結果として「不治」となるのである。)に罹患するか、犯罪に走るかという隘路に追い込むであろう。この弊害は、特に子供の場合には多様に(犯罪被害に遭いやすいとかも含めて)現れるであろう。
l 市場社会は、地位とリソースを求めるダーウィン主義的な競争文化を極大化させ、合法的なチャンネルを通していては皆には供給できないほどの消費水準を促すことによって、犯罪を促進する。
経済的困窮は、市場社会に於いてのみ、犯罪の顕著な源となるのである。市場化が駆り立てる飽くなき物欲は、市場化に潜む社会的な暴力のもたらした結果であるとも言えよう。合法的には応じられないほどに[人々が求めるべき]経済的地位と消費水準をつり上げて、「別の方法」(=犯罪)でそれを満たすように圧力をかけているのである。そのことは又、人間生活と福祉に掛け替えのない諸価値を以て不当に安く値踏みするように彼等を促しているのである。更に、他人をして消費財乃至は消費財を得るための手段として見るように各人の心理を歪めているのである。秋の収穫を待つことが出来ず、他人を出し抜いてでも私欲を見たそうとすべく馴致された人々には、彼本来の声を上げる政治的手段も見えなくされているが故に、かかる惰性に流されてしまうのである。市場文化の隆盛が総体としてもたらすものは、社会秩序と個人の安全のために必要な経済的・社会的・文化的諸条件を維持するのには有害なのである。市場化は、「全てのコンパスを狂わせる誤った磁極」なのである。その帰結は、「全般的な細分状態、自分自身への集中、孤立化」(エンゲルス「イギリスの状態T一八世紀」、マルクス・エンゲルス全集 第一巻)なのである。
かつての近代化の渦中にあっては、カトリック教会領没収によって福祉・教育面で大きな役割を果たしていたカトリック教会も当てには出来なくなった人々は、しかし、産業化の進展に応じて、賃金労働者としてそこそこの定収を得られるようになり、かつては望み得べくもなかった婚姻―家族形成さえ可能になったと言われたものであるが、今では、この道を逆に進んでいるのである。カトリックを攻撃するのに貢献したプロテスタントのうち、特にカルヴィニズムは、「個々人のかつて見ない内面的孤独化」(マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、大塚久雄 訳、岩波文庫、1989(2000)年、156頁)を帰結していたが、そこでは隣人との関係における「人間性」は死滅し去っている(171頁、注(5))のであり、「人に頼るものはのろわれるべし」(エレミヤ記;164頁、注(10))だの、世間は「危険にみちた荒野」(同)だのとされていたのである。隣人も含めて他人を一切顧慮することなく、妻や子供さえ見捨てて、彼岸的なものである(神の栄光を増す)と彼が措定した目標に向けて、しかも極めて「合理的」に(派生的・波及的効果など思い煩おうとさえしない)突き進む運動は、まさに攻撃的個人主義であって、そこに潜むユダヤ教的な選民思想(他との媒介を経ない思い上がり)と結びつけば、世界中を市場化して余すところのない運動と成るであろうことは、既にして予兆されていた筈なのである。
全てが不安定・不確実・リスクに彩られた社会にあって、資本は流動性を高め、《impatient capital》と成って、地球的規模で調整し合っているのである。実需を伴わない資金の国際移動が桁外れに大きいことがそのことを実証しているであろう。資本は、最早、労働者階級の意向など一顧だにせずに行動し始めているのである。労働力の再生産に意を用い、彼らを社会に有効に統合しようとする意向など既に持とうともしなくなっているのである。実需としての工業への投資でも、低賃金・長時間労働に甘んじるほかなく、何時でも言いなりに首にされてしまう失業者で溢れる地域に資本を振り向ければよいわけだし、農業投資も、現地の人々が何とかやっていける地元農業を種々の口実で破壊しながら《multinational agriculture》が取って代わりつつあるであろう。その際には遺伝子工学の「成果」を盾に特許を取って、現地の人にとってはその生活基盤を成すものであるところの貴重な種々の農産物さえ独占しようとしているのである。世界銀行やIMFが押し付ける構造調整は、現地の産品を輸入品に置き換え、失業率を高め、労働者階級を法外に低賃金で働く労働予備軍としてプールする効果をもたらしたであろう。第三世界は、かつては原材料の供給で何とかやってこれたのであるが、今では実需を伴わない投機資金の隆盛に翻弄されて(国際「市場」価格の操作)いるのである。総じて、その持つ労働力の点でも、原材料の点でも、第三世界の持つポテンシャルは零落の一途を辿っているのである。地球的規模で可動する資本活動は、代替的な収入源を何等付与することなく、現地の経済を破壊しまくるのである。《globalisation》と自由貿易は、常に不平等の亢進と結びついているのである。資本主義には第三世界を発展させることは出来ないのであって、貧困国が資本主義化の道を歩むことは自己をますます窮境へ追い込むだけなのである。だから、さすがに近代化理論も影を潜め、地球的規模での資本の利害を代弁する世界銀行やIMFは貧困国が効率よく債務の弁済をしてくれることにのみ関心を表明するようになって来たわけである。イデオロギーとして残存する近代化理論は、地球的規模での資本による支配を覆い隠す煙幕としてのみ機能しているのである。
資本主義が高度に発達した国の内部に於いても、労働者階級の意向は無視され、上からの社会統合として展開されるのは、第三世界の労働条件に見合ったそれを甘受するように、マスコミも動員して強力に労働者階級を「説得」することぐらいなのである。しかし、失業乃至は低賃金・重労働の恒常化は家族の絆を劣弱化させるであろう。多くの大人は失敗乃至は人生への失望の実例としてしか映じなくなり、学校も人生への指針を与えかねるに到るのである。女性のやむにやまれぬ社会進出を伴って家族内紛が顕在化した場合などには、これまで家族を繋ぎ止めて来た紐帯が、とどのつまりは家族愛ではなくて、転倒した財産の共有のなかに必然的に温存されていた個人的利益であった、ということさえ露呈しかねないのである。学校を出て職に就き、家族を形成するという《social inclusion》の過程は、学校は出たけれど失業中が継続し、たまに職にありついても先の知れた仕事に過ぎず、《criminal economy》が、もしかすると目腐れ金にありつけるかも知れない機会を提供するか、或いは、自分を被害者として組織犯罪を展開して食い物にするかの、何れにしても暗雲として自分を覆い尽くしているような《social exclusion》の過程に取って代わられているのである。職にありついている者も、(人減らしのための)情報化の進展・アウトソーシング・《just in time》な生産など、総じて中間層に対する《downsizing》が、典型的な会社人間が抱いてきた定期昇給と将来の年金受給に対する幻想を打ち破り、総じて、中流階級を市民から(年金・健康・子供の教育も購入しなければならない)消費者へ転換しつつあるのである。会社の方は、《downsizing》し切れない分野は、その年金や住宅補助・健康保険のことなど思い煩う必要のない短期契約「社員」に委ねれば済むわけである。
こうした社会的な排除の他に、政治的な交渉や妥協を生みだす意思疎通のための機構や導管からの制度的な排除がある。日本で最も戦闘的だった国労・動労・全逓などが大元の「民営化」(民営化の目的は、労組潰しと民営化企業の株売却益という一石二鳥にあったであろう。そこでは、国民的利害は何ら顧慮されてはいなかったのである。そのことは、民営化の例ではないが、「単なる商行為だ」を口癖にした[元]大臣によって例証されていたであろう。)で腰砕けにされたように、労働組合は、第二組合乃至は御用組合として資本に包摂されるべき対象でさえなく、単に破壊の対象でしかなくなっているのである。地球的規模で活動する資本や投機資金は、究極的には生産とは社会的な過程なのであることさえ無視して、短期的なさや取りに走っており、全体としての社会の安定性など議題とさえ見なさないのである。ますます多くの貧者が、彼らとの対話を必要とさえしない者として、意思疎通の機構や導管から排除されているのである。労働者階級は、嫌々ながらでも資本の側が代表と交渉を通じて利害の調整をしなければならない積極的な社会集団ではなくなり、排除され管理されるべき危険な集団へと見下されるようになってきているのである。まして今では資本にとって社会主義革命の危険はないのであるから、かつては資本と労働を結びつけ商品流通を組織化した都市に累積し来たった諸問題も、自らに直接降りかかるものを除けば、[大]資本家の良心を動かすことはなく、社会の改良などに関わる必要を彼らは認めないのである。これに加えて、中流階級や労働者階級[の中間層以上]も、いっぱしのブルジョワ気分で、自らが危険と見なす隣接地域と途絶する方途などを講じているのである。総じて、社会の各階層が互いに自己を守ろうとしている風潮の中にあっては、全ての階級が商品流通のためにそこに参集し、従って又、そこから犯罪抑止のための社会関係も生みだされてくるような・秩序だった公共性領域は、それぞれに私化された財産集積に分裂して行くのである。社会国家だの福祉だの民主的な対話だのというものは、相対的安定期に現出した幻影に過ぎないことを露わにしていくのである。総じて、安全を脅かすものが要素主義的に捉えられており、それらをかく現象させているところの体制問題に行き着かないところに、彼らの陥るべき袋小路が看取出来るであろう。
それは兎も角、かような趨勢にあって国家はどう対処するであろうか。社会政策を求める選挙民の声も根強いが、それにも増して、地球的規模で可動する資本の力は、大資本に他国に逃げられては困る国家のそれを凌いでいることは、例えば、世界的規模での果てしない法人税の軽減に看取出来よう。《hyperglobalisation》という新しい世界秩序の下では、国家は本質的に余剰であるとするテーゼもあるわけである。尤も、資本が国家権力への依存から完全に解放されているわけではないのであって、むしろ資本が国家に要求するところが労働者の社会的統合ではなくなって、安全とリスク管理に変わったといったところなのであるが。
「組織暴力事犯は絶対に捜査できない」と言う、日本警察を代表して為される宣言に基づき展開されるかかる不法(この点は、栃木リンチ殺人事件や桶川ストーカー殺人事件などに広く通貫している内包であろう。)に対処するには、自衛隊の治安出動を平常時に於いても設営して置くのはどうか。北朝鮮拉致などの国際テロリズムとも強く協働・励起しあう「大きな組織」が各所で種々に展開する阿鼻叫喚なる蛮行の数々に真に対抗すべき有効な闘いがもし開始されるとしたならば、既にしてそれは内線に於ける闘いを強いられる状況になっていることに照らすならば、腐食度を亢進させつつある警察機構に頼ることは出来ないからである。しかし、警察と親和的であれば同じことになる。《universal jurisdiction》に基づく国際刑事裁判(それが持つべき強力な捜査・鎮圧機構を含めた謂いである。)は、現状のままでは迂遠に過ぎると思われるが、国境を持たない組織犯罪に対抗するためには、これが真の対抗策であるべきであろう。それは、ひいては、主権国家の並存という図式を完全に廃棄するに至るであろう。その予兆は[本来展開されるべきであった筈の]《war on terrorism》に看取され得た筈なのである。
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